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0時  作者: 野村草太
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8.3一人称我輩のロマンチストなツキノワグマ

 月のない夜であった。それでも湖には月が揺らめき、星が輝いているように見えた。

 思い出すのは過去のこと。ここまでの記憶。経過。我輩が、逃げるきっかけになったこと。

 我輩の見る景色に大きな変化が表れていた。住み慣れた場所に、大きな変化が表れていた。開発、という名のニンゲンの手による破壊。我々動物にはどうすることもできず、ただ人間が我々の住処を奪っていくのを見つめているだけだった。

 もちろん、我輩が何もしなかったわけではない。仮にも熊の長であるから、ニンゲンを襲うことで危険を示そうとした。しかしそれもじきにやめてしまった。仲間の熊が、動物が、山の動物は危険だとして殺されてしまうようになったからだった。

 本当は我輩も誰も傷つけたくはなかった。この胸のツキノワのように、静かに空を見つめていたかった。湖面に映る星と共に水を飲み、時々落ちてくる木の実を食べ、生きるために他の生き物を時々食べて、そんな風に生きていたかったのだ。我輩がニンゲンを一人傷つければ、我々の誰かが殺されてしまう。そんなことは、本当は嫌だった。殺されるのは我輩のはずなのに、我輩こそが殺されるべきなのに。我輩だけがのうのうと生きているのは、死ぬよりもつらいことで、この胸が張り裂けて死んでしまえばいいといつも思っていた。けれど、仲間の熊たちはそれを許してはくれなかった。ニンゲンを憎むことで、自分たちの無力さを見ないようにしているとしか思えなかった。我輩にはそれがつらく、そしてそんな彼らの言葉を無下にすることなどできようもなかった。もし彼らの必死な様を見てなお、無下にできるのならばここに連れてきてもらいたい。きっと誰もつれてくることなどできようもない。

 我輩がツキノワグマの長になったのはそんなに昔のことではなかった。我輩は美しいものが好きだった。とりわけ、月は好きだった。しかし月には手が届かない。だから、湖が好きだった。湖に映った月ならば、口にすることができる。口にすれば、少しでも月に届くような気がしていた。胸のツキノワも好きだった。いつも誇りに思っていた。我輩はいつも独りだった。それでも動物たちは周りにやってきた。湖で、一人佇んでいると、誰かしらがやってきた。その誰かは、いつしか沢山の誰かになって、いつの間にか長と呼ばれるようになっていた。

 開発はどんどんと進み、山は削られ、住む場所も食べるものも目に見えて少なくなっていった。見知らぬ動物や、他の熊も増えた。開発によって場所を追われたのだろう。だが住む場所も食べるものも限られている以上、誰もが一か所に寄り集まって、ずっと平和に暮らしていけるべくもなかった。争いが始まった。ニンゲンを相手にするものではなかった。他の動物との争いだった。それを見て、我輩は逃げた。

 遠くから唸り声が聞こえた。叫び声が聞こえた。傷つき呻く声や、悲しみに泣く声も聞こえた。全部風の音で聞こえないふりをした。我輩の見る世界はこんなに醜いものではないはずだった。もっと静謐で、月と湖があればそれでよかった。

 我輩はこの時どうしようもなく、死に場所を探していたのだろう。

 何日も何日も走り続けた。土を掘ってミミズを口にし、石から漏れ出る水で渇きを癒した。何日も強い日差しが照りつけることもあれば、急に強い雨が吹き付けることもあった。幸い、冬はまだ遠かった。

 濁流を必死に泳ぎ、走り疲れるとただ眠り、自分がどこに向かっているのかもわからないまま必死に走り続けた。そうしていつしか、我輩は、見慣れた場所に戻ってきてしまっていた。見慣れたというには少し語弊があった。動物たちの姿はなく、山の大部分に人の手が入っていた。鳥の声一つしなかった。我輩の知っている山は、もう失われてしまっていた。大きな木は伐り倒され、川は汚れ、空気もどこか歪んでいるように感じられた。

 月のない夜だった。我輩はやっとのことで湖にたどり着いた。我輩は本当の意味で独りだった。本当の孤独を手に入れることができたのだ。月と、湖と、星と、我輩の、それだけしか世界はなかった。

 月もない静かな世界で、我輩は眠りについた。

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