8.2ダイヤのように美しい輝きを放つ水
車のクラクションが鳴り響き、怒鳴り声が行き交う街。ここは眠らない街。
そこに、スーツケースを持ち、ネクタイを締めた男がいた。見るからにサラリーマンといった風貌で、急ぎ足で歩くその靴底はすり減っている。少しやつれて細い目と、伸びすぎた無精ひげが彼の忙しさを物語っていた。ここは眠らない街。住民は、眠らない。眠れない。
男は一件の店の前で立ち止まると、胸元から手帳を取り出してめくる。多くの付箋が貼られた手帳は、よれよれながらも革独特の光沢を放っていた。しばらくめくっていたかと思うと、少し頷いて手帳を再び胸元にしまう。時計を確認して、店に入る。看板には「joya」の文字。男の手帳には、“joya=スペイン語で宝石”とメモ書きがされている。
店に入るとコーヒーの香りと木の香りがした。カウンターから椅子、柱に至るまでが木で出来ている。喫茶店というよりはバーカウンターのような作りで、テーブルはない。本来酒を置くべきところには、角のとれた丸い石や、気泡の入ったビー玉、タイヤの取れてしまった車のおもちゃなどが並んでいる。店に入って右手奥には音の鳴らないピアノが弾き手を待っている。店主の姿はない。それもいつものことだった。
男は慣れた様子でカウンターの一席に座る。目の前には、いつの間にかコーヒーが置かれていた。黒いマグカップに、デフォルメされたクマのぬいぐるみが描かれている。男はどこか納得のいかない顔をしながらコーヒーを口にする。男の身体から、目に見えて力が抜けていく。
彼は目線を上げる。その先には、ボトルラック。ビー玉や石ころが置かれている中に、彼の見つめているものもあった。小さな水差し。それはひび割れてしまっていて、もう水を入れておくことはできない。それを彼はどこか懐かしそうに見つめる。コーヒーを飲み終えた彼は、目をつむって記憶を掘り起こす。
大切な水差し、初めての自分のもの。親にわがままを言って買ってもらった水差し。決して安いものではなかったけれど、そのすらりとした美しい形に、子供心に感動したものだった。それを割ってしまったのは母親で、何度も何度も謝ってくれたけれど、彼はそれを許すことができなかった。代わりの物を買ってくれても、同じものを買ってくれても、それはもう“同じもの”ではなかった。割れてしまっても、それは彼の大切なものであることは変わりなかった。
目を開けると、水差しが目の前にあった。空のコップと一緒に。水差しからは少しずつ水が漏れ出ている。カウンターを濡らしていくその水差しをじっと見つめる。窓から入る光が、割れた場所を通して、やわらかくカウンターに光を通していた。彼はゆっくりと水差しからコップに水を注ぐと、一気に飲み干した。
男は店から出ると、振り返りもせずに街を歩いていく。やはりどこか早足で、それでも何か満足げに。
ここは眠らない街。思い出と記憶の、終着駅。