番外編2 帰るまでにやるべきこと
元セネシュ伯爵の城館に、代官がやってきたのは5日後のことだった。
急きょ派遣された代官と交代するように、エルデリック王子が王都への帰還を始めたのが昨日のこと。
けれどラーシュはまだ、セネシュ伯の城館にいた。
一緒に出発するはずが、保護している相手の体調がまだ万全ではないので、あと一日様子を見たいとサリカが言ったからだ。
「サリ……?」
その部屋から返事がないため、ラーシュはそっと扉を開いてみた。
小さな隙間だけでは、端に置かれたソファが消えかけた蝋燭の光の中で、えんじ色に浮かび上がっている様しかわからない。
中へ入ると、椅子に座ったまま、横に置かれている寝台の足側に伏せるように眠っているサリカの姿を見つけた。
朽ち葉色に緑の刺繍が入った服を着ているその横顔には、緑のリボンで緩く結んだ暗い亜麻色の髪が落ちかかっている。
サリカは自分のことを綺麗じゃないと言うし、確かに彼女は美人と称される容姿ではない。けれどもはっとするほどではないにしろ、長さのある睫が閉じられた様子も、本人が思うよりはややあどけない頬の線に、小さめの唇も、ラーシュにとっては『目の毒』な代物だ。
(だめだだめだ、思いとどまれ俺……)
正直、こんな無防備に眠っている姿を見ていると、とにかく手を伸ばしたくなる。
自分でも、以前はここまで症状が酷くはなかったと思う。
この元セネシュ伯の館に逗留するようになってから――。より正確に言うなら、サリカに結婚の了承をもらってから『タガが外れた』ような状態になってしまった。
今まではまだはっきりとつきあっていたわけでもなく、騙すようにして口づけしていただけで、ラーシュの物ではなかったのだ。
それが所有権がはっきりしたことで、我慢する必要を感じなくなったのかもしれないと、自分でも分析はしていた。
けれど分かっていたところで、止めるのが難しい。
昼間も、顔を真っ赤にしたサリカに怒られたばかりだ。
けれど思い出せば、眠っている今なら、嫌がられないだろうと思ってしまうのだ。
気付けばラーシュは彼女に近づき、つい無意識に手を伸ばしてしまう。
頬に触れたら、その柔らかさに口づけたくなる。
そのまま睫や唇までも同じ事をしたくなる。そうなったら、サリカが起きても首筋にくらいは噛みついてしまいそうだ。
しかしサリカに嫌われてはかなわない。
そう思ってぐっと口を引き結んで耐えていたラーシュは――
「……彼女は、主ではないんですか?」
ぽつりと掛けられた言葉に、我に返った。
寝台は空っぽなわけではない。そこにはサリカが面倒をみていた、怪我人がいるのだ。
ケイラ。
ラーシュの叔母が、新たに見つけ出して下僕のように扱っていた少年だ。
彼の怪我の原因は、ラーシュだ。
あの時の彼は操られていて、しかも本人の戦意の問題でもなかったため、どうしても動けなくなるまで怪我を負わせるしかなかったのだ。
サリカがその支配権を奪取し、ようやくケイラは止まったのだが、操られているケイラは今までで一番やっかいな敵だったため、ラーシュも手加減することができず、まだ怪我は完治していない。
けれども失血症状もだいぶん和らぎ、傷も塞がってきている。
明日には動かすことができるとわかっているのだが、サリカは早く助けることができなかったことを気に病んでか、毎日甲斐甲斐しく世話をしていたのだ。
そんなケイラの方は、今いち自分の状況がよく呑み込めていない。
長いこと支配されていたのと、カタリーナから救い出す際に、サリカが支配権を奪ったことから、どうもサリカが新たな主になったのだという認識が拭えないようだ。
今まで寝付いたままラーシュとじっくり話さなかったのも、その原因の一つのような気がしたので、ラーシュは改めてケイラに向き直る。
「……サリカは俺の主じゃないんだ」
この少年にも、主従以外の関係が作れるということをわかってほしかった。
「でも、貴方はその方に支配されて……」
「あれを支配ということもできるだろうが、基本的に俺の行動の根幹は、俺が決めている。サリカが俺の意思を無視することなどない。あいつの力の影響下にいる場合は、俺の体を強化するためだけのことが多いし、その時の行動の方向性は、俺が決めてサリカに指示しているのが大半だ」
「あなたが……どうやって?」
サリカに命じる言葉をラーシュが決めていると聞いて、ケイラが首をかしげてしまう。
「お前を守らせろ、ってな」
サリカは守って欲しいというだけで、ラーシュを操ることはない。
カタリーナと対した時に前触れなく能力を使ったのも、ラーシュがその場を切り抜けるためだ。次に戦った時も、ラーシュを死なせないために強化された状態でなければ作戦の補助をしてもらえないからであって、自分のためとは言えないだろう。
ラーシュの言葉を聞いたケイラは、あどけない顔立ちに悩みの色をにじませている。
「この方は、自分のことを守ってもらいたくないんですか?」
「いいや。自分より、傍にいる人間を守りたくてたまらない奴なだけだ」
「あなたは……なぜその方を守りたいと思うんです?」
その問いに、ラーシュは苦笑いする。
「この世で一番嫁にしたい女を、死なせたくないから」
「……よめ」
ケイラは驚いたように、その言葉を反芻した。
「自分の妻を守るのは当然だろう。あと、そんなわけでお前はサリカに支配させてやれないからな。俺専用なんだ。お前は誰かに支配してもらいたかったら、誰か別な人間を探してくれ」
だからケイラを無理矢理支配下に置くことはない。
それを分かってほしくて、わざとそういう言い方をしたラーシュだったが。
「ああ」と言ってケイラは包帯で覆われた手をぽんと打った末に出てきた言葉に、ぽかんと口を開けてしまう。
「尻に敷かれたいのですか」
「しっ……!?」
「男は嫁の尻に敷かれてなんぼと……。ずっと昔、親が生きていた頃にそんな話を父が……」
ケイラは思い出して切なくなったのだろうか、少し目を潤ませてうつむいた。
カタリーナの側でいいように扱われていたのだから、親兄弟と引き離されたのか、もしくは亡くしているのだろう。
自分の身を振り返り、ラーシュは彼に同情する。
「懐かしい。ずっと忘れてました。確かあの時、父を文字通りクッション代わりにした母さんが背中に座っている状態で……」
「おいおい」
状況説明のせいで、感動がぶっとんだ。
「母さんは従順な男じゃないと結婚生活が長続きしないのよ、と笑っていたのに……」
「いやオカシイだろそれ」
思わず突っ込んだラーシュに、ケイラがよくわからないといった風に首をかしげる。
ラーシュは顔を覆ってため息をつきたかった。
まだ年少とはいえ、斜め上に間違った常識を持っているらしいケイラを、どうにか正道に戻してやらねばならない。
なにせ、とラーシュは傍らで目を閉じているサリカを見やる。
その唇は、笑いをこらえるように引き結ばれて震えていた。閉じた目も、必死に開かないようにしているらしく力が入っていて、頬も力が入ってぴくぴくとしている。
どの時点からか、目が覚めてこの会話を聞いて、笑いたくてたまらないのだろう。
ラーシュが困っている様子を笑っているサリカだが、見も知らずの自分を殺そうとしてきたはずのケイラを、ずっと面倒を看ているのだ。
ケイラが独り立ちできるまで、彼女が見放すわけもない。
そしてラーシュは、ずっとその側にいると約束を交わしたのだし、それだけの時間があれば、なんとかケイラのおかしな思い込みを無くすことも出来るだろう。
また、帰り道でずっと世話を焼かれながらびくびくとしていては、ケイラは道中で熱を出しかねない。できれば今のうちに違うのだと言う事を納得してもらいたかった。
「いいか、それは言葉の綾ってやつで……」
手始めにケイラに常識的な夫婦のあり方についてを話しながら、ラーシュは寝台の上にあるサリカの手を握る。
するとサリカの顔が、吹き出す寸前といった様子が消えて、どこか恥ずかしそうにみじろぐ。
「そのうち俺たちの様子を見てたらわかるだろ。まぁお前の親のそれもある意味、夫婦としての信頼の一つの形なんだろうがな。……まぁ、お前にとって今一番重要なことはこれだろう」
ラーシュは捕まえたサリカの手を持ち上げる。そして手の甲に口づけた。
その瞬間、さすがにサリカは飛び起きた。
「ちょっ、子供の前でなにしてんの!? 恥ずかしい、破廉恥!」
「ケイラがお前のこと警戒してるからだって。叩くな……っておい、ひっかくな!」
サリカは恥ずかしい恥ずかしいと言いながら、平手でラーシュの肩や胸をぱたぱたと叩いてくる。
ろくに戦闘訓練など積んでいないサリカに叩かれても、ラーシュは大して痛くはないが、平気そうなラーシュに苛立って爪をたてて来た時には、さすがにその腕を捕まえた後、動けないように腕ごと抱え込む。
抱きしめられたサリカは、驚きと更なる羞恥心で思考停止したのか、目を丸くしたまま動きを止めた。
「な、こんなことしても、サリカは能力を使って支配して、這いつくばって謝らせるなんてことをしない女だ。だから安心しろ」
目を丸くしていたケイラは、ラーシュの言葉を飲み込むようにやや間をおいて言った。
「……うんわかった」
この後、ラーシュは恥ずかしさが爆発したサリカに蹴り倒されるのだが、それでも能力を使わず物理攻撃を使うサリカの姿に、ケイラもようやくサリカはむやみに力を使う人ではないと納得できたようだった。




