番外編1 女官長ゾフィアのその後 2
「ゾフィア様。ご家族同士のお話があるというので、私は噴水の側におります。家令のゲルトを置いておきますので、何かあればお呼びになって下さい」
そう言って、アリスはその場を離れていく。
代わりにベルトルドが、ゆっくりと近づいてきてゾフィアに一礼してみせた。
礼儀作法は、ゾフィアが教えたものだった。腰の曲げ具合、手の置き方、指先を伸ばすこと。全てを自然にみせられるまでになっている。
「お久しぶりです母上」
挨拶をするベルトルドは、ほんのわずかな間しか離れていなかったというのに、覚えている彼の姿よりもずっと大人びて見えた。
「家を出られてからどうなさっているかと思いましたが……ヴェステル家の方々に、大事にして頂いているのですね。彼女も――」
ベルトルドはちらりと少し離れた場所にいるアリスに視線を向けた。
「どうも私のことを怖がっている様子ながら、母上を保護しようとする親鳥みたいに私を警戒していましたよ」
そう言って笑う姿に、ゾフィアは目を瞬く。ベルトルドが自分にそんな冗談を言うのは珍しいのだ。
でも確かに、先ほどのアリスは鴨が雛を守るために鷹に立ち向かうような、そんな雰囲気ではあったのだ。
そんなにも心配を掛けていたのだろうと思いつつ、ゾフィアはベルトルドに言った。
「それで、どうしたの。ここへ尋ねてくるなんて、何か領地の運営で問題でもあって? とはいっても、私も領地の運営は家令に任せきりだったから、特別何かを教えられるわけではないのだけれど」
むしろ家にいるのがだんだんと苦しくなって、王宮に詰めている時間の方を長くしていた有様だったのだ。
ベルトルドに対しても、礼儀作法を教えたり、必要な手配などをする以外はあまり接してこなかった自覚はある。
ベルトルドが幼い頃などは、それをごまかすために王宮へ連れてきて、交友関係を作るのは重要などと言い訳をして、同じ年頃の子供を連れてきていた知り合いの貴族に、ベルトルドのことを任せきりにしたりもしたのだ。
だからこそ、ベルトルドも今更ゾフィアに会いたいと思うまいと考えていたのだ。
ロアルドの所に身を寄せると決めたのも、当主になったベルトルドが、いずれは実の母親を屋敷に招きたがるだろうと思ってのことだった。
――自分の家だと思っていた場所を、我が物顔で歩く姿を見たくない。
ゾフィアがロアルドのところに身を寄せた理由の半分は、家に夫の愛人がいる姿を見たくなかったからだ。
とにかくベルトルドは、厄介な名目上の母がいなくなったのだから、自由にしていると思っていた。そんな彼が訪ねてくるのだから、執政上のことだと思ったのだが。
ベルトルドは首を横に振る。
「いいえ、何も問題はありません。ただ、母上の様子を知りたいのと……もしかなうのならば、いつお戻りになるのかを教えていただければと思って」
意外な言葉に、ゾフィアは目を瞬いた。
「え?」
ベルトルドがゾフィアは戻ってくると思っていたことに驚く。その際に、つい思っていたことが口から飛び出してしまった。
「だって、あなたが当主になったんだもの。館にお母様とか兄妹を呼ぶのではないの?」
「いいえ?」
ベルトルドの方も目を丸くして、即答した。
「兄妹は父の血……伯爵家に連なるものではありませんし、母上が離婚していない以上、生みの母親は伯爵家の人間と認められていないわけですし」
「でも……、息子のあなたが認めてしまえば、同じことではないの?」
ベルトルドが自分の親兄弟を突き放したように評するのを聞き、ゾフィアは混乱する。
どういうことだろう。彼は自分の親兄弟が恋しくないのだろうか。突然連れてこられて、今日から母親だと思えと言われた自分のことを、嫌がっているのではないのか、と。
だからかもしれない、ゾフィアは初めてベルトルドに素直に本音を口にしていた。
「離婚はしていないかもしれないけれど……私は、跡継ぎの貴方を産んだわけじゃないから……。他人を母親と呼ぶのも、あなただって嫌だったのではない?」
そのせいで、ベルトルドを引き取ることになったのだ。
しかしそれは、ゾフィアの努力の問題ではないと思うのだ。ゾフィアは、夫が家を建て直すために迎えただけの女だ。
だから行き遅れそうになって、厳しさばかりが顔立ちから目立つようなゾフィアのことを、夫が「とうのたった女家庭教師」と言っていたことも知っている。すでに愛人がいたからゾフィアはお飾りでいいと思っているのも知っていた。
お金と家柄以外には何もないと言われたようなものだ。だから自分の価値を外に求めて、女官として出仕し、女官長にまで上り詰めた。
それである程度は自尊心が満足したはずだったけれど、こうして家庭内の話になると、どうしてもゾフィアはもやもやとした気持ちが心の中にあふれてきてしまうのだ。
きっとこんな事、ベルトルドも聞きたくなかっただろう。
でも、それでゾフィアのことを相容れない人間だと思ってくれても、もうどうでも良かった。
少なくとも、今はアリスやロアルドが自分を受け入れてくれている。
個人的な蓄財もあるから、ロアルド達に経済的に迷惑をかけることもないし、義理の息子の家に頼らなくても、生きていけるのだ。
そう思いながら、ベルトルドに嫌われることを覚悟したのに、ゾフィアの耳に届いたのは、苦笑いの声だった。
「あの人を、館に入れるわけがないじゃないですか」
ベルトルドは、あっけらかんとした表情で言い放った。
「どうして父の子が私だけだと思います? 産みの母親は、今は別な男と付き合っているんですよ。……あの人も父親と変わらないんです。いつも沢山の異性に囲まれているのが好きで、老後や子供のことを考えて蓄財を勧められても、煩わしいと顔をしかめるような人間なんですから」
「……え?」
ゾフィアは思わず聞き返してしまった。
なんだかうまく理解できない。
夫の愛人だと思ったら、彼女は別な男の愛人をやっていると言っているのだろうか。
ベルトルドは「やっぱり知らなかったんですね」とため息をついていた。
「…………」
どうやらゾフィアは気付かなかったのだが、愛人も夫も、常に他の異性を探して歩くようなタイプの人間だったようだ。
「あの父でさえ、私を引き取るときに産みの母親を連れてこなかったのは、そういう理由があったからなんです。だから……その」
そこでベルトルドは視線をさまよわせ、下を向いたままぽつりとつづけた。
「私の母は実質貴方しかいなくて、だからあそこは貴方の家のままで……。戻ってこないのは、私のことも見たくないからなのかと……。だから、こちらに訪問する決心がつかなくて」
少し恥ずかしそうに語るその姿に、ゾフィアは胸を突かれる。
ベルトルドは、まだ10代の少年なのだ。
実の母親は、彼の話を信じるのなら伴侶をとっかえひっかえしている有様で、兄妹達と血がつながっていないということ、館に呼び寄せる気がないところから、それなりにわだかまりをもっているのだろう。
そんな複雑な状況で、しかも実の父は犯罪人。
家が取りつぶされはしなかったし、爵位も返上せずに済んだものの、関係していた親族も共に捕縛された。
そんな現状でベルトルドが頼れる者は、ひどく当たりはしなかったけれども、そっけない態度だったはずのゾフィアしかいないのだ。
事情を先に知っていたら、もう少し彼の事に配慮できたかもしれない。
ゾフィアはそう思ったものの、夫の愛人、庶子の存在だけでも耐え難かったのに、それ以上に詳しいことを聞いていられるような、冷静さを持っていなかったのだ。
そして自分が傷つきたくないあまりに、家を継いだばかりの少年を置いて行ってしまったのだ。
後悔の気持ちがゾフィアの中に湧き起る。
状況がわかっていたなら、もう少し優しくベルトルドに接することもできだだろうに。
とはいえ、今までいじけて家を飛び出したゾフィアは、素直にベルトルドに「帰る」とは言いづらい。
けれど、と思い直す。
女官長として、ずっと若い少女たち、女性達を指導し、起こした問題に素早く対処できたではないか、と。
ベルトルドも若年ゆえに戸惑っている中、年長であるゾフィアを頼ってきたのに違いあるまい。それが身内ならば、なおさら見捨てるわけにはいかない。
(母上、なんですものね……)
何度か呼んでくれた呼称が、上っ面だけのものではないと感じられるようになったからだろうか。ベルトルドがそう呼んだ声を思い出すと、くすぐったいような気持ちが生まれてくる。
だからゾフィアは、気付かれないよう小さく深呼吸し、思い切って言った。
「あなたを嫌ってのことではないわ、ベルトルド」
ゾフィアの言葉に、ベルトルドは不安そうな表情をした顔を上げる。
「夫のことを思い出すのが嫌だったのよ。なにせ家名を汚した張本人だし、女遊びの激しい男は、そもそも私、嫌いなのよ」
確かに、結婚前はそう思っていたのだ。
浮気をする男など、と。けれど自分が惨めな立場に立たされて、そんな気持ちすら見失っていた。
自分ではないといわれたからか、ベルトルドの顔から少し不安の色が拭われる。
「でも、他人の家にずっと居続けるのも迷惑ですものね。そろそろ戻ろうと思うの。今日ここへは馬車で?」
問いかければ、恐る恐る尋ね返してくる。
「……戻ってくださるのですか?」
まっすぐに見つめてくるベルトルドに、ゾフィアは初めて心から微笑むことができたように思えた。
「問題はないと言っていたけれど、色々と不安なこともあったのでしょう? それにまだ教えたりないところもあったから……少しずつ、補填していかないと」
そう言ったゾフィアに、本当に帰ってくるのだとわかったのだろう。
ベルトルドはほっとしたように頬を緩めていた。
その様子を、アリスが微笑ましそうに見ていることに気付くのは、まだもう少し後のことで。
その半年後、元気を取り戻していったゾフィアによって、お見合い漬けにされたベルトルドが、この一件から交流を持つようになったロアルドに泣きつきに行くことを、まだ誰も想像していなかったのだった。




