64 指先をかすめるもの
一瞬でラーシュの体の奥に溢れたのは、彼女の感情だった。
驚きと混乱と焦りと、何かをあきらめ……彼に対して「生き残って」と願う気持ち。
「何があった……サリカ」
感情が伝わるのだから、ラーシュにも彼女が生きている事はわかる。
けれど無事で、動ける状態ではないのだろうことも察せられた。
でなければ、先程まで目の前の女を追いかけてきていたのが、白い煙のような者達だけではなかっただろう。
むしろ自身も追いかけてきて、花瓶の一つでも投げつけてくるのがサリカという女だ。
当の本人は、今自分がどうなっているのかをラーシュに決して知らせようとしない。
〈私が、支配してる、限り。あの女は……貴方に手が出せない〉
カタリーナがラーシュを力で従わせないよう、ラーシュを力の影響下に置いたことを、サリカは説明してくる。
〈その子供は彼女の、新しい下僕〉
ラーシュもそれは察していた。
目の前にいる少年は、警戒すべきだと感じていた。黒服を着た茶色の髪の彼は、ラーシュに視線を合わせながらも、どこか茫洋としている。
その表情にも、ラーシュは見覚えがあった。
何度かカタリーナの影響を受けた状態でいた時に見た、鏡に映った自分の姿、そのものだったからだ。
〈倒して……殺さないと、ラーシュが、危ないから〉
しかしサリカのとぎれとぎれの言葉は、かき消えるように遠ざかる。
(おい、サリカ!?)
呼びかけに答えが返ってこない。
自分の精神に触れているサリカの力が、どことなく頼りないのも気に掛かった。
いつもは、ただ命令に従いたくなる衝動にかられ、それ以外のことは意識から飛びがちだった。
けれど今は、ラーシュが思考するだけの余地がある。
とはいえ彼女を先に捜しに行くことは不可能だ。
「ヴィリアード」
かけられた声に、未だに嫌な思い出がえぐり出されるような悪寒が背筋を走る。
数年前まで自分を支配し続けていた女は、ひどく嬉しそうに話しかけてきた。あのときよりもやや老いが滲む顔に笑みを浮かべ、あの時よりも更に魔女のように細くなった指で招く。
「また会えて嬉しいわ。陛下があなたを隠してしまわれたから、どうしているかと思っていたのよ。また、私の所へ戻っていらっしゃい」
カタリーナの呼びかけにあらがうように、ラーシュは歯を食いしばり、サリカの言葉を思い返す。
――倒せ。
それだけで腕に足に力がみなぎる。無言で走り出したラーシュの剣を受け止めたのは、相変わらずぼんやりとした表情のままの少年だ。
「殺さないように痛めつけるのよ、ケイラ。飼い主さえ力尽きたら、抵抗できなくなるのですもの」
(……力尽きる!?)
やはりサリカは、それほどに危機的な状況なのだ。
焦りがラーシュの剣先を鈍らせる。
少年とは思えない力で跳ね上げられそうになるが、それ以上の力でラーシュは押さえつけた。
(なぜ言わないサリカ!)
自分の状況を一言だって伝えなかったサリカは、やはり返事をすることもない。
奥歯をぎり、とかみしめる。
一体どういった状況になっているのか。先ほどまで死霊らしきものを操っていたのだから、彼女自身を直接害すことができる者はいないのだろうが。
膂力の差を悟った少年がラーシュの剣を受け流し、打ちかかってくる。
それを避け、たたきつけるようにして相手を弾き飛ばそうとすれば、それに乗ったように少年が大きく距離を開けた。
まるで戦う時間を引き延ばすように。
不可解さに眉をひそめたラーシュは、自分もまた間近にあった建物から離れたことで、それに気づいた。
建物の窓から漏れ出るように流れ出す煙。明らかに館の中で火事が起っているのだ。
〈火をかけたのか!?〉
――ピンポーン。
(!?)
突然頭の中に響いた脳天気な言葉に、ラーシュは戸惑う。
それを察したかのように突っ込んでくる少年の剣を避けるラーシュの頭に、更に訳の分からない声の主が囁きかけてきた。
――ようやくわかったかー。でも間に合うかなぁー?
〈何だこの声は!〉
苛立つラーシュの脳裏に、自分とよく似た容姿の男の姿が思い浮かぶ。まるで、見るつもりのない夢を見させられているかのように、思考の中にちらつくのだ。
〈誰だお前!〉
――君の心の分身? みたいな?
〈みたいって何だ!?〉
苛つきながらも、サリカの状況にようやく合点がいったラーシュは、少年相手に猛攻をかける。
早く助けに行かなければならない。そのためにも、この二人は。特にカタリーナは始末をつける必要があった。
しかもサリカが、どの部屋にいるのかもわからない。急がなければ、火に巻かれる前に、煙を吸い過ぎて死んでしまうだろう。
だが、少年の方も容易には倒されてはくれなかった。
じりじりと焦りが心に滲む。
そんなラーシュに、再び自分と同じ顔をした男が言った。
――ふがいないなぁ我が宿主。ちゃんと相手を見て動きなよ……手伝ってあげるから、さ。
男の言葉と同時に、唐突にラーシュの体がさらに軽くなる。
意識せずに薙いだ刃が少年の体をとらえた。
防ぐ剣をくぐり抜けた切っ先が服と一緒に皮膚をかすめ――避ける間もなく数カ所を切りつけていく。
倒れる少年の姿を見送る間もなくラーシュは少年の剣を奪い取って、逃げ去ろうとしたカタリーナに剣を投げつけた。
右の二の腕を切り裂きながら、剣先が石畳の隙間に突き立つ。
痛みに悲鳴を上げるカタリーナと、力を失ったように目を閉じる少年の姿に、ラーシュはほっと息をつきながらも、疑問が心の中に広がる。
〈これは……何だ?〉
今まで能力者の力に操られて、こんな状態にはならなかったというのに。
自分を操った脳裏に声と姿だけを送ってくる相手に、ラーシュは得体の知れ無さを感じる。
すると残像のように思考にちらつくその男は、楽しげに言った。
――僕と君は一心同体なんだよぅ。同じ心の表と裏みたいな? この力は、より自分の心が定まっている時、一番上手く発揮できるんだ。代わりに後で大変だろうけど、無様な姿をさらすのは、僕の女王様にだけってことにしてねん? 恥ずかしいしぃ~。
〈女王? なんだれは〉
――それは秘みつ……アッ!
「……なんだ?」
唐突に消えた脳天気な声に戸惑ったラーシュは、一瞬後に青ざめた。
体の重さが戻ってきている。サリカの気配が感じられない。
「サリカ!」
ラーシュは館の中へと飛び込んでいく。
その声で、サリカの影響を脱してしまったことを知らせていることに気づかず。
憤怒の形相で自分の服を縫い止めた剣を引き抜こうとしていたカタリーナが、そんなラーシュを呼びつけようとした。
けれどカタリーナの声は、ラーシュの表面を滑るようにしてはじかれる。
それがなぜかは、カタリーナにも理解できなかった。
ラーシュは、それに気づきもしなかった。
「サリカ!」
叫びながら開いた扉からは、熱をともなった煙が吐き出された。
ラーシュは雨に濡れたままだった外套を頭から被るようにして前に進む。
悲鳴と、逃げろと言う声が聞こえた。
煙が流れを変えたところを見ると、そちらには脱出口になる扉か掃き出し窓があったのだろう。
そして、サリカがそちらに居るとは思えない。
二階へ上がろうとしたが、階段付近は炎で近づけない。
別な場所へ回ろうと、煙が充満する一階の廊下を低く腰を落として走ったラーシュは、その先に倒れたままの男の姿を見つけた。
近づいてみれば、男は特に外傷もなく、眠っているだけのようだ。
「サリカ……か?」
彼女がやったことだと思えば納得がいく。しかし他の人間は逃げ回っているようなのに、なぜその男だけは見逃されているのか。
はっとしたラーシュは、男が倒れていたすぐそばの扉を開けようとする。けれど鍵がかかっていた。
倒れた男が持っていないかと探したが、それも見つからない。
「サリカ!」
きっと彼女はここにいる。
そう確信したラーシュは、煙に咳き込みながらも、扉に肩から体当たりした。
「起きろ! サリカ!」
しかしぶつかったところで、木製とはいえ扉はなかなか頑丈で壊れない。ラーシュは倒れた男の腰から剣を奪い、蝶番の部分へと突き立て始めた。
***
弾かれるようにして、サリカの精神はラーシュから遠ざかった。
気づけば、サリカは肩まで砂に埋まってしまっていた。
「限界……かな」
力の限界が来て、弾かれたのかとサリカは判断した。
頭の中が疲弊して、色々なところが停止しているかのように、埋まっていても砂の感触もせず、ただ空気中にぼんやりと浮いているような感覚になっていた。
時間が経てば、考えることもできなくなるだろう。そう思ったサリカだったが、意外と自分の精神は眠りにつく様子がない。
「てことは……火事の方?」
部屋に煙が回って、体に影響が出始めたのだろうか。それで肉体の異変に引っ張られ、上手くラーシュと意識を繋ぐことができなくなったのだと思えば、納得はできそうだ。
現状の理由は想像できたものの、状況はいいとはいえない。
それにしても、よもやこんなじわじわと死ぬとは思いもしなかった、とサリカは嘆息する。
昔はエルデリックの子供や孫までしっかりと面倒を見て、それから大往生と思っていたのだが。
「あー……殿下は無事かな」
クリストフェルから記憶を奪ったので、サリカもしっかりとその辺りについての真相は分かっていた。
彼がセネシュ伯をそそのかし、それまで麻薬の売買で懐が潤っていたセネシュ伯は、さらなる野望を抱いて動いていたのだ。
しかし、こうして館の火災ということになれば、クリストフェルも諸共に始末できるということではある。
自分を殺そうとしたおじさんと道連れか、と思うとなんか微妙な気分になるが、まぁいい。
そもそも彼がカタリーナの下で麻薬を扱ってのし上がり、その流れで他国へ手を伸ばしたのだ。そして同じようにのし上がりたいセネシュ伯と通じることで、セネシュ伯は娘を王妃にして、栄華を手に入れようとした。
だから彼こそが一番の首謀者なのだ。ある意味悪を滅ぼすことにもなるだろう。
女官長は彼らに巻き込まれながら、どうやらサリカを『お見合い』させることで守ろうとしていたらしい。
大人しく女官長の言う通りにしていられれば、確かにサリカは安全だったのだと、今なら分かる。少し可哀想だと思えた。
そうして首謀者クリストフェルの影の参謀のような形だったカタリーナも、一人ではしばらく派手な動きもできまい。
ケイラがあの状態では、もう抵抗もできないだろうし、そうそうラーシュやケイラのような存在は見つかるまい。
セネシュ伯については何の手も打っていないが、持ち家の一つが王子の視察時に炎上したのだ。フェレンツ王はこれを見逃さないだろう。じきに真相を導き出してくれるはずだ。
「じゃあ、役目は終わり……ってことかな」
自分を狙った事件も、エルデリックの妃になることを目論んでの件も、一件落着だ。
その時、ぴりりと指先がしびれたような気がした。
不思議な感覚と共に思い出したのは、ラーシュのことだ。
ちゃんとサリカが離れる直前に、カタリーナを始末できただろうか。
「この後も、自分のせいだなんて、思わないでいてくれるかな……」
間に合わなかったと、後悔させたくはない。
けっこうあれで、ラーシュはいつまでもぐじぐじと悩むタイプだ。それだけが気がかりで、どうにかして「実はもう死んでました」とか、嘘を吹き込むことでもできないだろうかとサリカは悩む。
「なんとかならないかな……」
もうのど元まで砂が降り積もっていた。
ラーシュのことを思うと、まだどこか手を繋いでいるようなそんな感覚が芽生える。
だからかもしれない。
無駄だと思いながらも、サリカはなんとか砂の上に手を出す。
砂色混じりの自分の心が作り出した空へ伸ばすようにして、サリカはどうにかラーシュを感じ取れないかと必死になって……ふと、その指先を何かがかすめた。




