36 勢い任せの効果
サリカはその場に、ずるずると崩れ落ちるように座り込んだ。スカートの裾に土がつくことも、気にしていられなかった。
それでも足が震えている。
でも怖いからではない。足の力を抜かれてしまったかのように、力が入らないのに震えているのだ。
そしてまだ激しく拍動している自分の心臓。
なにもかもが、あの数秒でばらばらに誤作動を起こし始めたような有様だった。
「し、心臓とまりそ……」
なんだろう。
ラーシュに抱きしめられて、お日様に当たった布と土埃の匂いがしただけなのに、くらくらとしてきて。驚きで叫び出しそうだった言葉が、溶けるように消えてしまった。
あのときの顔をラーシュに見られていたかと思うと、サリカはのたうちまわりたくなる。
「なんで、なんで?」
どうしてサリカにあんな真似をしたのか。その答えは簡単だ。
「私が言ったからだったぁぁぁっ」
コツはないのかとか、ラーシュが教えてくれればいいのにとか。そう言ったからあんなことに。
サリカは「うわああぁぁあぁ」と地面にめり込みたい気持ちでその場にうずくまる。
(そりゃそうだよ、教えてくれと言っちゃったらあんな風に顔を近づけるしかないよね? ……よね?)
考えるうちに「あれ?」と疑問が湧いてくる。
目線を合わせるとか、なにも実地で教えなくてもいいのではないかと。
でもそうすると、ラーシュの気持ちがわからなくなる。まさかサリカのことが好き……なわけではあるまい。変態と連呼してる相手に、そんな感情を抱くものだろうか?
そうしてサリカは、背に流していた自分の髪を一筋つまむ。
小さい頃から湿った藁といわれたこの髪の色。ただでさえ王宮の綺麗な女官が多い中、埋没する目立たない容姿の自分。
それでは誰にも目を止められるはずもないのに、更に地味にしているのも、派手でフリルがひらひらとした可愛いものを着ても、キレイじゃない自分が浮いてしまうのが怖い部分もあるからだ。
こんな自分、内面だってたいしたことのないサリカを、好きになるはずがない。
何より、ラーシュに嫌なことを強いる力がある。これだけでも、最もラーシュが避けそうな物件だろう。
「勢いでいじめちゃったこともあるし……お友達感覚でいてくれるだけ、きっとマシなはずなんだよ」
お友達のつもりだから、サリカのためにキスを我慢してくれるのだ。
そのために、コツを教えてくれただけ。
失敗してフェレンツ王の策をだめにしないように、あんな寸前まで……
「ううぅぅぅ」
思わず間近で見たラーシュの顔が脳裏にちらつき、体の奥底がなんだかくすぐられているような、変な感覚がわき上がる。
「だめだ、考えたら何にもできなくなりそう!」
そう諦めたサリカは、ラーシュの事を忘れるように努めて、エルデリックの私室へと戻った。
エルデリックの私室には、他に人がいなかった。
生粋の貴族女性であるティエリやハウファは、こういうときに貴族としての交流をしにいく事も多い。しかしそんな必要もないサリカは、しばらくしてやってきた掃除の召使い達が静かに居室を整えた後、ソファに座ってぼんやりと過ごした。
やがてエルデリックが帰ってくるだろう時間が近づくと、お茶の用意をしてエルデリックを待ち構える。
その間にようやく心が凪ぎ、ラーシュのことを忘れていられるようになった。
しかしエルデリックが戻ってきた時、彼がお茶を飲みながらサリカに振った話題が悪かった。
他に人が居ないので、エルデリックは心の中でサリカと会話していたのだが。
【そういえば、ラーシュが御前試合に出るって聞いたんだ】
ラーシュと御前試合という単語に、サリカの胸は跳ね上がって飛び出すかと思うほど驚いた。
「え、えと、そうみたいです、ね?」
明らかに動揺した返事に、エルデリックは何も気づかなかったかのように言う。
【だけどラーシュが勝てば、サリカがキスをするって父上が……】
ほんと? と悲しそうにサリカを見上げる目に、いつもならサリカは心を射貫かれそうになるはずだった。
しかし今日のサリカは「ばれた!」という単語が頭の中にこだまする。
そして慌てた。
ものすごくいたたまれない気持ちになって、思わずエルデリックから目をそらしてしまう。
その反応に目を見張ったエルデリックだったが、サリカは気づかなかった。
【サリカは……それでいいの?】
エルデリックの問いに、サリカは目をそらしたまま答える。
「せっかくフェレンツ王の授けて下さった策ですし、私もこれ以上の方法は思いつかないし……あの人と結婚するわけにはいきません」
ロアルドとの結婚だけは避ける必要がある。
脅し文句が出てくるのなら、敵とつながる可能性もかんがえなければならないのだから、今まで考えていた以上に近づいてはいけない相手になったのだ。
答えたサリカに、エルデリックは更に問いを重ねた。
【もし、僕が代わりになるって言ったら、サリカを助けられる?】
「え……?」
エルデリックが、ラーシュの代わりになるなら。
言われたサリカは……想像することができなかった。
だってエルデリックはサリカの背丈すら超えていないのだ。
御前試合にも出ることはできない。だから勝ってロアルドを権勢する行動もできないし、王子という立場で、自分の子守をしてきた相手を指名することなど不可能だ。
サリカが祖父の養女となって伯爵令嬢という肩書きを得たとしても、政略で婚約をしているのでなければ、8歳も年上の平民出身のサリカを望んだ時点で、エルデリックが臣下から非難されることになる。
「そこまで殿下にしていただくわけには……。なんか申し訳ないです」
サリカはつい謝ってしまう。
【ううん、ちょっと興味があって聞いてみただけ。だって僕が御前試合に出るわけにはいかないって、わかってるから】
答えたエルデリックの声は、本当になんでもない事のように明るかった。だから子供なりに一生懸命考えてくれたのだろうと思ったサリカは、笑顔でエルデリックに頭を下げる。
「お気持ちだけで、嬉しいです」
【でも、僕がもっと大人だったらな】
「だめですよ。バルタ唯一の王子殿下なんですから。怪我されちゃ大変です! それぐらいなら私が槍持って出場しますよ。そしてロアルドさんを自力で倒しますとも」
できるなら今回だって、そうできれば良かったのだ。それならいい見世物として皆観戦する上、ロアルドの立場もずたぼろになってキスのことは無かったことにできるのではないだろうか。
こんなことなら槍術でも習うべきだったと後悔するサリカだったが、しかしエルデリックがほしい答えはそれではないようだ。
【なら、そういった事情がなかったら、ラーシュとキスするのは嫌だった?】
「え……」
サリカは不意を突かれて言葉が出なかった。
けれどエルデリックの言葉の意味を吟味し、推測しようとして、サリカはうろたえる。
昨日からずっと、ラーシュに迷惑をかけるのが心苦しかった。けれど嫌だから拒否したいと、思ったことがあっただろうか。
(嫌……なんだろうか?)
しかし思い出したのは、先ほどのラーシュとの『練習』だ。
身動きもとれなくなるほど、ラーシュのまなざしにのまれて、吐息に酔わされたあの瞬間。
(嫌……じゃな……い?)
答えを出そうとした瞬間、サリカは叫び出したくなるほど恥ずかしくなる。
顔が熱い。けれどちらりと見れば、エルデリックはあいかわらずにこにことしている。
まさかそんなに顔に出ていないのだろうか。そう考えたサリカだったが、次の行動には動揺させられた。
突然椅子から立ち上がったエルデリックが、側に立っていたサリカの手を握る。
【じゃあ、僕とはどう?】
「で、殿下と?」
【僕はサリカとキス、してみたいな】
そう言って艶然と微笑んだエルデリックは、いつもと違う表情をしているように見えた。いつもの可愛い天使のような微笑みとは違う、サリカよりも多くの事を知って、余裕を身につけた人のような表情。
どこか、先程のラーシュの表情に似ていて、それを思い出すと尚更にどうしていいかわからなくなる。
年上の人のようなエルデリックの眼差しに、視線だけで捕らえられそうな感覚に陥って、サリカは思わず逃げ腰になった。
サリカはそんな自分にも驚く。先程までは確かに、エルデリックとキスすることを想像できたのに、今はただ、その表情で迫られることを考えるだけで、なんだか恐い。
「あの、殿下……冗談、ですよね?」
【冗談にした方がいいの?】
そう返したエルデリックは、握っていたサリカの手を持ち上げ、甲に口づけを落とす。
触れられた瞬間、火傷をしたような気持ちになって、サリカの肩がはねる。
(なんで、どうして?)
自分のこの対応も、エルデリックが何をしようとしているのかもわからない。
混乱して目に涙が浮かびそうになるサリカに、
【どうかな? これだけ僕相手に驚いておけば、本番も少しは緊張しないんじゃないかな?】
エルデリックはぱっと表情をいつもの笑顔に変えて告げる。
おかげでサリカはようやくほっと肩の力を抜くことができた。
(なんだ冗談だったんだ)
「もうびっくりしましたよ殿下。でも、私のためだったんですね、ありがとうございます」
その返事を聞いて、エルデリックは答えるのではなく、微笑んでうなずいてみせる。
彼の本心は、心の中ですら言葉にしてサリカに明かされることはなかった。




