22 戸惑い
サリカの怪我は軽いものだった。
ただ、清潔とはいえない鏃で傷ついたものなので、消毒をしても熱を持って少し腫れたようだが、縫うほどの裂傷ではないというのが医師の診断だった。
しかし王宮に連れ帰って治療した直後に飛び込んできた女官長は、ティエリやハウファが思わずといったように引くほど、サリカの怪我に驚いていた。
「嫁入り前の女の子が傷だなんて! あああぁぁあ!」
ひとしきり悲鳴を上げた後で、女官長はサリカにしばらく王宮内から出ないようにと厳命した上、ラーシュにもしっかりとサリカを見張るようにと言い、王子の前を辞した。
(そもそも、見張るっていうよりは守ってくれと言うべきじゃないのか?)
言葉の選択がおかしいと思いつつ、ラーシュはエルデリックによって、居室のソファに座らされているサリカを見る。
サリカは、言われずともしばらくどこかへ出ることはないだろうと明らかに分かる状態だった。
青い顔色のまま、常に視線は下に向き、ティエリという女官が出したお茶にも手をつけていない。
その様子から、殺されかけたことへの恐怖よりも、おそらくは自分の身を守るために複数の人間が死ぬ状況に衝撃を受けていたのだろうとラーシュは考えた。
恐怖が勝っているなら、自分にとって最高の癒しだろうエルデリックが隣に座っているのに、サリカが抱きつかないはずがないのだ。
思えばサリカは、崖から落ちるのを受け止めた時よりも、馬車が落ちていく様子を見た後で深くショックを受けたように見えた。
そして初めてサリカの声に操られたあのときも、サリカは死にかけたというのにまだ気丈な様子だったのを、ラーシュは思い出す。
(自分が狙われた経験は一度はあるが、誰かを殺したことはない、ということか?)
ラーシュは推測してみようとするが、いかんせんサリカに関する情報が少なすぎた。
主に、彼女の考え方と経験してきたことに関してだ。
(母親がなんかよくわからない見合いの断り方を教えてくれたとか、父親に告白するのに拉致したとか、その父親も縛られてつるされても喜んでるとか、ほんとにろくな情報がない……)
サリカの話の半分は、ほとんど両親のとっぴな行動と、エルデリックへの偏愛ぶりに関するものばかりなのだ。
その理由としては、記憶に強く刻まれた出来事を両親が生産しすぎたこととサリカの性癖、そして『それ以外』を離さずに済むようにという防御的な意味合いもあるのだろう。
サリカは秘密を抱えて沈黙するタイプではないようだが、口を滑らせることの恐ろしさを知っているからこそ、話の内容を偏らせている節はある。
(ということは、過去にそれなりの事件があったということか?)
親に言い聞かされたとしても、年頃の娘が一言だって誰にも言わずにいる事など、まずあり得ない。
自分自身で、戒めるような出来事が起きない限り。
そして、そんなサリカを見ながら、ラーシュは心に鈍く刺さるものを感じていた。
ラーシュとて油断していたのだ。周囲を固めるのは、王宮から連れてきた騎士や衛兵ばかり。召使いも身元がはっきりしている者だけだ。
彼らと完全に離れなければ大丈夫だと、サリカが思っても仕方がない。
ただラーシュは、彼女が二人しか衛兵を連れていないのを見て、護衛の数が少なすぎるだろうと感じたのだ。
そこで後を追おうとして、異変に気づくことができたのだ。
フェレンツ王にも王子にもサリカのことを頼まれていながら、とんだ失態だった。
だから……悔しくて、こんな気持ちになるのだろう。
そうラーシュは思った。
サリカの無事な様子に安心したらしいエルデリックは、彼女にもう部屋に下がるように言う。
サリカ自身も素直にうなずいて、一度エルデリックの居室を出る。
ラーシュは万が一のためと思いながら、サリカについて部屋を出た。
そしてすぐ隣の、サリカ専用にしてしまっている控えの部屋の前に立ったサリカは、後をついてきたラーシュにぽつりと言った。
「……ごめんね、ラーシュ」
ラーシュは首をかしげる。
「お前が俺に謝る理由がありすぎて、どれのことかわからないんだが……」
素直にそう言うと、サリカは小さく笑った。
「代わりに……殺させたようなものだから。嫌だったでしょ?」
その言葉に、ラーシュは意表をつかれた。
ただ人が死ぬところを目の当たりにして、ショックを受けたのだと思っていた。
けれどあの時、ラーシュは確かにサリカに命じられていた状態だったのだ。
「まさかお前、自分が命じたせいで俺に人を殺させたと思ってるのか」
だからサリカは「助けろ」という命令のために、ラーシュが彼らを殺したと思って、気に病んでいるのか。
驚いてそう尋ねれば、だってそうでしょう? と不思議そうにサリカはラーシュを見上げてくる。
「もう、あんなことないように、狙われにくいようにするから……」
それはラーシュの手を煩わせたからというのと同時に、サリカの代わりに誰かを殺させないようにする、という意味だ。
その言葉にラーシュは呆然とし、彼の返事を待たずに部屋の中に入るサリカを、そのまま見送ってしまった。
「まいったな……」
思わず独り言を漏らし、ラーシュは自分の口を手で覆う。
驚きと共に感じたのは、妙に嬉しい気持ちだ。
それはラーシュ自身の忌まわしい過去に関連することだからだろう。
昔、ラーシュを操っていた人間は、自分の気にくわない相手を殺させるため、命じると不思議なほど人間離れした力を発揮するラーシュを使った。
それもあって、ラーシュの伯父は彼を操っていた相手から引き離し、国外に脱出させたのだ。けれどラーシュはもう、人を殺すこと自体には不愉快だという程度にしか感じなくなっていたので……ラーシュの伯父が自分を可哀想だと泣いたのも、大げさだと思っていたのだ。
――――あの人とは違う。
はっきりと違いが示されただけで、こんなに自分の心が動くとラーシュは思わなかったのだ。
それと同時に、サリカが辛そうにしている姿に嬉しいと思う自分が、とても歪んでいるような気がしていた。




