18 彼らの思惑
春の日没は穏やかだ。
日一日とその時間が延びていくのは、最も日が長くなる夏至へと近づいていくからだろう。
それでもまだ北国のバルタは、冬の残滓が溶けきっていないように、夜風が冷たい。それもそのはず、ステフェンスとの間を隔てる山脈と、あちらこちらにそびえる高山。なにより原住民しか住まない北限地などには、まだ雪が残っている。
夜の息吹に暖かさを奪われた風は、そのどれかに触れてさらに冷やされるのだ。
王都の家々は、夜風を入れまいと堅く窓を閉ざし、外を歩く者はまだ厚い外套を羽織る。
そんな少し寒々しい春の夜、王都にある小さな館の中ですすり泣く女性がいた。
「どうしたらいいのかしら、どうしましょうお義姉様」
明るい色の髪を結い上げた女性が、泣きそうな顔で目の前の女性にすがりついている。
頬に落ちかかる波打つ横髪が、彼女を頼りないひな鳥のような印象に見せていた。
すがりつかれている女性の方は、きゅっと引き結んでいた口を開く。
「仕方ありませんわ。失敗した男も、その男を使った者も詰めが甘かったのでしょう。本人達が手がかりになるようなことを口にしたら、どうしようもありません。だからそのような手を打つべきではないと言いましたのに、マリア様」
結い上げた黒髪の上から、夜目で目立たぬようにか黒い紗をかぶった彼女は言う。
すると厳しい言葉を聞いた明るい髪の女マリアは、みるみるうちに目の縁に涙を浮かび上がらせた。
「でも、だってお義姉様。旦那様がそちらの手も打つべきだって。わたくし、それを信じただけなのですわ」
マリアが女性のドレスを握りしめながらうつむくと、毛足の深い緑の絨毯の上に、二しずくの涙が落ちて吸い込まれる。
「事情はわかっておりますわ。それに、まだすべてが露見したわけではないのですし……」
泣き出したマリアを宥めるため、女は言葉を探す。
しかしそれよりも先に、別な者が女に声をかけた。
「本当にその通りですな。ゾフィア殿」
いつの間にか部屋の扉が開かれていた。
現れたのは二人の男。
一人はマリアの夫、尚書府に所属しているセネシュ伯爵だ。
そしてもう一人、少し腹が出ているように見えても、厳つい体格が人を威圧するような壮年の男だ。まだ五十代になったばかりだと聞いたのだが、髪は既に白くなっている。
「さぁ落ち着きなさいマリア。大丈夫だよ」
伯爵は自分の妻をなぐさめ、肩を抱きしめるようにしてソファへと連れて行く。
向かい合う席にはもう一人の男が座り、自然とゾフィアはこの壮年の男の隣に座るしかなくなる。
けれどゾフィアは隣に座る気にはなれなかった。
私は巻き込まれてしまった、本来なら部外者の人間だという気持ちもある。
そしてなにより、心配性のマリアが泣き出す程度とはいえ、充分に動揺すべき事態にもかかわらず、悠然とかまえているこの男が空恐ろしかった。
(どうしてわたくしは、ここにいるのだろう)
ゾフィア――王宮では女官長と呼ばれる彼女は、心の中でため息をつく。
最初は、夫からの頼みだった。
別宅に愛人を囲い、普段から本宅にも帰ってこない夫。
当然子供もできず、愛人の子を養子に迎えるしかなかった女官長は、子育てや教育をする気にもなれず、自身も女官という仕事に逃げていた。
なにより夫が、女官長にはついぞ見せたことのない甘い表情で、幼い息子を見つめるのに耐えきれなかったのだ。
そう、女官長は傷ついていたのだ。
家同士の約束とはいえ、自分を娶って嫁入りの資金を借財にあてたくせに、自分を省みない夫に。
けれどある日、冷たい事務的な表情しかみせなかった夫が、珍しく女官長に家の中で微笑みかけたのだ。
――頼みがあるんだ。妹を助けてやってくれないか――
他の頼みならば考えたかもしれないが、夫の妹とは上手くやっていると女官長は思っていたし、これで頼みを聞けば、夫が自分に感謝の念くらいは抱いてくれるのではないか、と思ってしまったのだ。
しかし夫の妹から話を聞いてみれば、そんな簡単なことではなかった。
「私のヨランダが、王子の花嫁になれると思っただけなのに」
マリアの言葉に、女官長の眉間にうっすらとシワが刻まれる。
内心では「だけ、とはなんだ。だけとは」と不快に思っていた。
心を込めて仕えた亡き王妃の忘れ形見、王国唯一の世継ぎの花嫁になることは、そんな風に言えるほど簡単ではない。けれどマリアがそう言うのも無理はなかった。
辺境地を治め、領地経営を盛り返して力を持ちはじめたセネシュ伯爵。領地を接するステフェンス貴族とも交流を持ち、紛争を抑えていることからも目立つ存在となっているため、王子の『ご学友』にマリアの娘、ヨランダも時折加えられていたのだ。
それだけでも充分名誉なことだ。
けれどセネシュ伯達は、満足できなかった。
(安心できなかった、というべきですわね……)
伯爵の領地経営が盛り返したかに見えたのも、ステフェンス貴族との交流も、全て忌々しい麻薬の売買によってもたらされた富に由来していたからだ。
それをかぎつけられないよう。もしくはかぎつけられてもいいように、彼らは物言えぬ王子の妃に娘を据え、王子が話せないことを盾にとって操ろうと考えていたのだ。
まだ齢12の王子になんてことを、とは女官長も思う。
けれど女官長自身も、結局は荷担せざるをえなかった。自分を省みない夫もまた、妹夫婦からの甘い汁をすすっていたのだ。
夫と妹夫婦のしていたことが知られれば、女官長も唯一の誇りである仕事を失う。
そう考えれば、協力するしかなかったのだ。
「それで、セネシュ伯爵。どういう状況ですの? 女官を殺そうとした男の告白から、殺害を指示した男のことが漏れたそうですわね? その男は捕まったのですか?」
まずは状況を把握したかった。
マリアが泣きながら口にする言葉を拾った分だけでは、わからないことが多い。だから最も状況を把握できている伯爵に尋ねたのだが、返事をしたのはセネシュ伯爵の友人の方だった。
「私たちがその動きを知った時には、まだ捕まってはいなかったようですな。今頃は見つかっているでしょうが、問題はありませんよゾフィア殿。彼も既に眠りの底。二度と誰かに語ることはできません」
女官長はセネシュ伯爵の友人の心の底を見通せないかと、目を細めた。
名前は知っている。クリストフェルという名のこの男は、セネシュ伯爵と交流のあるステフェンス商人だということも。
けれどそれだけだ。本人が告げることを好まなかったのか、彼よりも立場が下らしいセネシュ伯爵も、友人だということ以上の話はなかなかしないのだ。
けれどそうではあるまい、と女官長は睨んでいる。
商人にしては粗野さが足りない。そして端々に、特に保身に関して目が届きすぎている。その様は、商人というよりも政治に関心があり、中枢に躍り出たいと手ぐすねを引いている貴族を想像させる。
もし彼がステフェンス貴族ならば、と思った女官長は、どうしても彼に警戒してしまうのだ。
国王を裏切っているこの状況でいまさらかもしれないが、他国人の手の上で踊らされるというのは、最後の一線を越えてしまうような気がして恐かったからだ。
「その言葉を信用しても?」
けれど商人だとしか言わない男相手では、女官長はそれなりの態度しかとるわけにはいかない。いささか高飛車に尋ねた女官長に、クリストフェルは薄笑いを浮かべながらうなずく。
「もちろんですとも。ゾフィア殿も、効果はご覧になられたはずですぞ。そして解毒薬などはないのです。間違いなく、誰も我々のことまでは突き止められません。もちろん、麻薬の売人から足がつくこともない。彼らは直接我々と関わってはおりませんしね」
その言葉に、ほっと肩の力を抜いたのはマリアだ。
「安心いたしましたわ……」
彼女の様子に、セネシュ伯爵も安堵したようだ。彼は小心者のマリアを可愛く思ってはいるようだが、度々不安がっては泣き出す彼女のことを面倒とも感じているらしいので。
女官長の方は、ほっとしながらも釘をさすことにした。
「それでも、今回のような状況になるのは避けて頂きたいですわね。今後あの女官のことは任せていただきたいのですけれど?」
その言葉に、クリストフェルは肩眉を持ち上げる。
「まだ、結婚で取り込もうなどと言う迂遠な方法を、試されるおつもりで?」
「もちろんですわ。結婚してしまえば、あの女官が邪魔にはならなくなりますでしょ。暗殺などという警戒感と耳目を集めるような事をする必要はなくなります」
一度言葉を切り、告げる。
「彼女が王子妃候補となることも、なくなるでしょう」
女官長がサリカ・レイティルド・イレーシュにしつこく見合い結婚をさせようとした理由。
そしてクリストフェル達が、サリカに暗殺者を仕掛けた理由。
それは、サリカに王子妃候補だという話が持ち上がったせいだ。
幼少時から王子の側付き。
王子に最も懐かれている女性。
そしてイレーシュ辺境伯の孫で、やろうと思えば祖父の養女という形で王子妃になることも夢ではない彼女。
何よりも二十歳にもなって結婚しないのは、王子が14歳の結婚可能年齢になるまで待たされているのではないか、という憶測が飛び交ったのだ。
セネシュ伯爵達は、当然のことながら邪魔者を消そうとした。
けれど巻き込まれた女官長は反対したのだ。
自分の領域内の人間であるサリカを、暗殺されるというのは我慢ならなかった。しかも彼女に非があるわけではない。王子を多少変態的ながらも信奉していることも理解している。なによりも、今まで彼女は出過ぎた真似をしたこともないのだ。
そんな彼女を、利己的な理由で殺させるのは嫌だった。
ならば得意の仲人役となって、彼女が脅威とならないようにするつもりだったのだ。
だから女官長は再度通告した。
「今回のような失敗は、私はごめんですわ。だから今まで通りのやり方を続けさせてもらいます。邪魔立てだけはなさらぬようお願いしたいですわね」
言い捨てて部屋を立ち去りながら、女官長は考える。
今度は普通のお見合いをさせるつもりでは、サリカを守ってやれないだろう。
「もっと強引な手を使うしかないわ……」
***
女官長の姿が消えた部屋の中、まだ三十代半ばのセネシュ伯爵は、不安げにクリストフェルに視線を向けた。
セネシュ伯にとっては、王子の周囲についての伝手が必要で、引き込んだのが女官長なのだ。あくまで判断はクリストフェルに仰いでいる彼は、女官長の行動がクリストフェルを不快にさせないかどうかの方が気になるのだ。
「ご婦人のなさることは甘くていけない」
女官長を否定する言葉に、縁者であるセネシュ伯とマリアは緊張する。
「まぁ、それが上手く作用することもあるでしょう。ですから彼女は彼女、けれどこちらはこちらで動くとしましょう」




