26-偽りの強気
それを見た途端、アーシアがぎゃあといささか身分にそぐわない悲鳴を上げて、ぎゅっと目を瞑って馬車の中でしゃがみ込む。
呆然と見詰めるミフィシーリアの視線の先で、それは扉を吹き飛ばし、それどころか玄関を形成していた石さえも所どころ崩しながら、館の奥からのっそりと現れた。
全身は影のように真っ黒。細長い身体は全長三メートルに達するかもしれない。
その細長い身体を支えるのは、これまた細長い三対の脚。その内、一番前の一対の脚の先は鎌のような形をしている。
そして残る二対四本の脚をせわしなく動かし、それは文字通り館から這い出てきた。
「か、カマキリ……?」
ミフィシーリアの呟き通り、それは黒くて巨大なカマキリだった。
今、その巨大な黒カマキリは、周囲の気配を探っているかのようにその三角形の頭をくりっくりっと動かしている。
そして、その巨大なカマキリの後ろからひょっこりと姿を現したのは、ミフィシーリアたちの救出目標であるリーナ・カーリオンその人だった。
「リィっ!!」
馬車の窓から身を乗り出すようにして、ミフィシーリアは思わず彼女の名を叫ぶ。
その声が聞こえたのかリーナはこちらを振り向き、ミフィシーリアやユイシークたちが門の外側にいる事を確認すると、にっこりと笑ってぱたぱたと手を振り、黒いカマキリを背後に従えてゆっくりとユイシークたちの方へと足を向ける。
ユイシークに許可なく馬車の外に出るなと言われた事などすっかり忘れ、ミフィシーリアは馬車を飛び出してリーナへと駆け寄り、門を押し開けてそのまま彼女を抱き締める。
「大丈夫ですか、リィ? 怪我などはありませんか?」
「ええ。私なら大丈夫。でも、あなたには謝らなければいけないわ」
リーナは背後のカマキリへと振り返る。
釣られてミフィシーリアもそちらへと目をやれば、カマキリの胸と腹の繋ぎ目の辺りに、彼女の使用人である犬人族のタロゥがちょこんと座っている事に気づいた。
「タロゥ?」
「ええ。私に巻き込まれて、あなたの使用人に怪我をさせてしまったわ。ごめんなさいね」
タロゥはするすると器用に大カマキリの身体を滑り降り、ミフィシーリアの前まで来るとちょこんと頭を下げた。
「申し訳ありません、ミフィシーリア様。勝手に職場から離れてしまいました」
「それは非常時の事だから構いませんが……それより、怪我は……?」
タロゥが着ている使用人のお仕着せの左袖部分が切り裂かれ、その周囲が赤く染まっている。その出血具合から見ても、決して軽傷と呼べるような傷ではなさそうだ。
「だ、誰かタロゥの怪我の手当てを……」
彼の怪我の具合に驚いたミフィシーリアが慌てて周囲を見回していると、サリナとアーシアが馬車の中から出てきて彼女の傍まで来る。
そして、先程までいた大カマキリの姿がない事にミフィシーリアは気づいた。
「タロゥくんの怪我はボクに任せて」
どうやら虫が苦手なアーシアは、例の黒カマキリがいなくなった事でようやく馬車から出てきたらしい。
「あのカマキリはもしや……」
「ええ。あれはリーナさんの『使』ですわ。名前はティースといいます」
サリナの言葉に、ミフィシーリアはやっぱりと得心する。
自分が持つ第六の間の鍵に『使』となる黒い石がついているように、他の側妃たちが持つ鍵にも同じような石がついているのだろう。
それはつまり、側妃たちにはそれぞれ、頼もしい護衛がついている事を意味する。
ミフィシーリアは今日初めて出会った己の『使』──真っ黒な子犬のような存在を改めて思い出し、そっと微笑みを浮かべた。
ユイシークはジェイクに命じ、近衛たちに邸宅の中を捜索させた。
おそらく、中には今回の黒幕と思われるアルジェーナ・ストリークがいるはずだ。彼女の身柄を押さえなければ、今回の一件は解決したとは言えない。
もちろん、彼女やストリーク家が今後どうなるのかは、これから宰相であるガーイルドと相談して決める事になるが。
側妃であり、国の要職に就いているリーナを誘拐したのだ。無罪というわけにはいかない。
そして、リーナの誘拐だけではなく、ミフィシーリアたちを襲撃した件にも無関係ではないだろう。
その辺りを含めて、彼女の身柄は何としてでも押さえなければならない。
その事を考えながら、ユイシークはミフィシーリアたちと一緒にいるリーナへと向き直る。
「リィ」
ユイシークが彼女の名前を呼べば、リーナは彼へと振り向き、不意にその場で腰を抜かしたようにへなへなと地面に座り込んだ。
あまりの突然なリーナの様子に、周囲にいたミフィシーリアやコトリ、サリナといった面々が慌てて彼女へと駆け寄る。もちろん、ユイシークもミフィシーリアたちと同様に慌ててリーナの傍まで来ると、その場に屈み込んで彼女の顔を覗き込む。
「どうした、リィ? まさか、どこかに怪我を……」
「そ、そうじゃないわ……本当に怪我はしていないの」
地面にぺたんと腰をつけたまま、心配して自分を覗き込む一同をリーナはばつが悪そうにゆっくりと見回す。
「あなたを……シークの顔を見たら……あ、安心して腰が抜けちゃった……」
あはは、と渇いた笑いを浮かべるリーナ。よく見れば身体が小刻みに震えている。きっと今頃になって誘拐されたという恐怖が襲って来たのだろう。
そしてそんなリーナに、ユイシークははぁと呆れたような溜め息を一つ零す。
「相変わらず、虚勢を張るのだけは上手い奴だな。大方、誘拐した相手に弱味を見せたくなくて、気の強い女の演技をしていたんだろう?」
もしも今のリーナの姿を、逃げ出したリガルが見たら一体どう思うだろう。
彼女に始終主導権を奪われっぱなしだったアルジェーナは、今のリーナを見てどうしただろう。
誘拐されたという事実を突きつけられようが、誰にも知らない場所に監禁されようが、リーナは怯えた様子を微塵も見せなかった。
彼女は取り乱したりせず常に冷静でいて、逆に相手の調子を狂わせっぱなしだった。
そのリーナのふてぶてしいまでに堂々とした態度に、リガルは彼女に底知れぬ何かを感じて早々に逃げ出した。
リーナの決して取り乱さない落ち着いた様子に、逆にアルジェーナの方が取り乱した。
確かに彼女には『使』という頼りになる護衛がいたし、傍にはタロゥがずっと一緒にいた。
それでも、リーナには実際に底知れぬ何かなどある筈もなく、堂々とした冷静な態度の全てが演技であり虚勢だったと知ったら。おそらく二人は目を剥いて驚くに違いない。
ユイシークは苦笑を浮かべたまま、腰を抜かしているリーナの膝裏と背中に両腕を回して彼女の身体をひょいと抱き上げた。
そしてそのまま、リーナをミフィシーリアたちが乗ってきた馬車まで運ぶと優しく馬車の座席に座らせる。
「マイリー。おまえと後宮騎士隊は、ミフィやアーシィたちを連れて先に城に帰っていろ。俺はジェイクと一緒に館の中を確認する」
「承知しました」
ユイシークは馬車の外で待っていたマイリーにそう命じる。
命じられたマイリーは、ミフィシーリアたちを馬車に乗るよう促すと、来た時同様に馬車の周囲を後宮騎士隊の女性騎士たちに固めさせて帰路につく。
そして馬車が走り去ったのを確認したユイシークは、先程邸宅の中に踏み行ったジェイクたちの後を追い、自らも邸宅の中へと足を踏み入れた。
邸宅が中は所どころ崩れているのは、リーナの『使』であるティースがその巨体を無理して押し通ったからだろう。
天井を見上げ、ユイシークは邸宅が崩れて来ないのを確認しながら、ゆっくりと廊下を進む。
途中、ごろつきらしき男たちが数人倒れており、その男たちを近衛たちが拘束していた。どうやら多少の怪我はあるものの、死ぬには至っていないようだ。
「リーナの奴、上手くティースを使えたみたいだな」
倒れているごろつきたちを見ながら、ユイシークは誰に言うでもなく独りごちる。
リーナの『使』であるティースは、他の側妃たちの『使』に比べて知能が低いようで、細かい指示を与えないとすぐに勝手な行動を取る。
そして、そんなティースの戦闘力は逆にどの『使』よりも高く、ティースにかかれば人間など易々と殺されてしまう。
そのティースを呼び出しながら一人の死者も出していないのは、上手くリーナが細かい指示をその都度与えたからだろう。
直接的ではないとはいえ、リーナに「殺人」という重荷を背負わさずに済んだ事をユイシークは安堵する。
やがてユイシークの視界にジェイクの姿が入った。
そしてそのジェイクの足元には、身なりのいい一人の少女が横たわっている。
「ジェイク。そいつが首謀者のアルジェーナ・ストリークか?」
「おう、シークか。多分、そうだと思うぜ。俺もストリーク家の末娘の顔を知らないから断定はできねぇけどよ」
館の中に他に年若い女性がいない以上、この娘がアルジェーナだと見て間違いあるまい。ユイシークもジェイク同様そう結論を出す。
「こいつらの処遇は後でガーイルドのおっさんと相談して決めればいいから、おまえはリーナや嬢ちゃんをしっかりと慰めてやれよ? なんせあの二人は誘拐されたり襲撃されたりと、相当恐い思いをしただろうからな」
「ふん、おまえに言われるまでもねえ」
ユイシークはそう言い捨てると、その場で踵を返して邸宅の外を目指す。
そんなユイシークに苦笑を一つ浮かべると、ジェイクは部下に指示を出して倒れている者たちの拘束と収容を命じるのだった。
その日の夜。
様々な事が起こった長い一日がようやく終わった。しかし、入浴を済ませて寛いだミフィシーリアを、ユイシークの使いの者が彼の私室まで来るように告げた。
普段ならユイシークとミフィシーリアが寝台を共にする時は、彼の方が第六の間へと訪れる。それなのに、なぜか今日に限ってはミフィシーリアの方からユイシークの私室を訪れるように告げられたのだ。
その事を疑問に思いつつもミフィシーリアが彼の部屋を訪れれば、彼の部屋の前で偶然にもリーナと遭遇した。
「あら、ミフィもシークに呼ばれたの?」
「え? という事は、リィも呼ばれたのですか?」
互いに首を傾げながらもリーナがユイシークの部屋の扉をノックすると、すぐに中から聞き慣れた声がした。
「鍵ならかかってないぞ。入って来い」
躊躇いがちにリーナが扉を開け、その後にミフィシーリアが続けば、部屋のソファの上で寛ぐユイシークの姿があった。
「よく来たな。今日は二人とも大変だっただろう」
「全くよ。あんな恐い思いをしたのは生まれて初めてだわ」
「私もあんな思いをしたのはこれまでありませんでした」
下手をすれば死んでいたかもしれない事を改めて思い出し、ミフィシーリアはぶるりと小さく身体を震えさせた。
それと同時に、懐かしい再従姉妹との再会や、噂の英雄との邂逅も思い出す。
「まあ、その、なんだ。恐い思いをしたおまえたちを慰めようと思ったんだが……正直、どう慰めていいか思いつかなくてな……」
二人から視線を逸らし、頭を掻きながらユイシークが告げる。
「ちょっと。もしかして、慰めるとか何とか言いながら、私とミフィを二人同時に抱くつもり? まったく、相変わらず鬼畜な事を考える奴よね」
口では辛辣な事を言いながらも、リーナの表情は柔らかい。きっとユイシークが気を回してくれた事が嬉しいのだろう。
かく言うミフィシーリアもまた、彼の思い遣りが嬉しかった。その方法の是非はともかくとしても。
「そ、それにだな? 今日、噂の『魔獣使い』に会った時にこっそり聞いたんだが、あいつはいつも所有する二人の奴隷を同時に抱いているそうなんだよ。で、それを聞いて思ったんだ。こいつは俺も負けてはいられない、と──」
「馬鹿じゃないの?」
「馬鹿ですかシークは?」
どうしようもなく下らない事を口走るユイシークに、思わずリーナとミフィシーリアの口から本音が零れ落ちる。
それでも、二人の顔に浮かぶ表情は柔らかな微笑み。
ユイシークはリーナとミフィシーリアの間に立つと、二人の肩に手を回して一緒に寝台へと誘なって行った。
『辺境令嬢』なんとか更新しました。
今週の更新はちょっと無理かな、とも思いましたが何とか更新できました。
今週は夏コミの〆切に追われていまして、こっちまで手が回らないかもしれなかったんですが、どうにかこうにか更新にこぎ着けました。
同時に、今回で一連の事件も幕に。次にちょっとした閑話的なものを挟みまして新しい展開へと進みたいと思います。
夏コミ関連に関しては最新の活動報告に詳しい事を書いてありますので、興味のある方は一読ください。
そして当面目標である『各評価ポイント四桁超え』に関しては、現在文章評価が883点、ストーリー評価が890点。目標達成まで後120点前後。達成するまで何としてでもがんばる所存です。
では、今後もよろしくお願いします。