19-救いの手
誤算だ。
暗殺者『穴熊猟犬』の片割れ、「嗅覚視野」の異能を持つ男は心の中で忌々しく吐き捨てた。
確かに思わぬ誤算だった。しかも、そんな誤算が二つも同時に重なるとは。
一つは、周囲で警護していた者の中に、自分たちの事を知っている者がいた事。
そいつが周囲に自分たちの事と手口を告げたせいで、最初は突然発生した霧に当惑していた警護の面々が、たちどころに落ち着きを取り戻して組織的に動き出した事。
おかげで相棒である「霧隠れ」の異能を持った男は、早々にこの場から離脱しており、支援を求める事も敵わない。男は独力でこの場を切り抜けなければならなくなった。
そしてもう一つの誤算。
それは自分と標的の間に割り込んで来た少女らしき──声でそう判断した──人物。
先ほどこの少女が標的に向けた言葉によれば、こいつは自分ほどではないものの、嗅覚と聴覚に優れており視界を覆われた状況でも的確に動けるらしい。
だが、問題はそんな事ではない。
今男が当惑している最大の原因は、目の前の少女らしき人物からほとんど臭いがしない事だった。
臭いで周囲を「視る」男にとって、臭いのないモノは透明も同然。全く無臭というわけではないものの、極めて薄い臭いのため、彼の優れた嗅覚でもその存在を確かめるのは難しい。
──何者だ、こいつは?
当惑が男の胸に沸く。
遠くから標的の臭いを確認した時、こいつの存在はあまりにも薄くて感知する事ができなかった。
おかげで突然割り込まれた時は、不意にその辺から湧き出したのかと勘違いした程だ。
困惑する男は、何かが迫ってくる気配を感知してその身を地面に這い蹲るように沈ませる。
その数瞬後、それまで男の身体があった空間を、空気と霧を鋭く切り裂きながら何かが通過した。
その風切り音から、男は目の前に対峙している娘が何か武器を揮ったのかと思ったが、すぐにその考えを否定する
──風切り音からして刃物の類のようだが、こいつからは刃物らしき鉄の臭いは全くしない……一体こいつは何なんだ……?
男の当惑は更に大きくなる。
そのため、男は気づいていなかった。
相棒である「霧隠れ」の男が逃げ出したため、周囲に張り巡らせた霧の濃度が徐々に薄くなっている事に。
そして朧気ながら人影が確認できるまで霧が薄くなったと「嗅覚視野」の男が気づいた時にはもう遅かった。
薄くなった霧を切り裂いて、紫電が男の小柄な身体を撃ち貫いたのだ。
「ぐ、が────っ!!」
言葉にならない悲鳴を上げて、「嗅覚視野」の男は地面に倒れ込んだ。
死なない程度の電撃を浴びせられ、地面でもがき苦しむ男の背中を、ユイシークが足で踏みつけた。
「ぐぶ……っ!!」
肺の空気を強制的に排出させられて、男は地面で更にもがく。
「殺しはしねえ。おまえには色々と聞きたい事があるからな」
冷めた眼で男を見下ろし、ユイシークは手近にいた近衛の一人に男の捕縛を命じる。
「怪我はないか、コトリ?」
暗殺者へ向けたものとは真逆の暖かみの溢れる視線を、ユイシークは自分の「使」へと向けた。
「うん、コトリは大丈夫だよ、パパ」
当のコトリも、伸ばした爪を元に戻しながらにこやかにユイシークに応えた。
「ねえ、コトリ。ミフィとメリアはどこ?」
ジェイクに付き添われ、侍女のお仕着せ姿のアーシアが心配そうに尋ねる。
どうやら彼女は、手近にいたジェイクがずっと庇っていたようだった。
「ごめん……ミフィたちがどこへ行ったのかはコトリにも判らない……あの時は咄嗟にミフィたちに逃げてって言ったんだけど、その後の事までは……」
「ああ、それは俺にも聞こえていた。おまえの判断は間違っていないよ、コトリ」
暗い顔で俯くコトリの頭を、ユイシークはぽんぽんと優しげに叩いてやる。
そしてユイシークは、彼の元へと集まって来た近衛たちへと向き直る。
「でかしたな、ジェイナス。おまえが暗殺者について教えてくれたおかげで、混乱は最小限に抑える事ができた」
「偶然ですぜ、王さ……いや、旦那。以前に連中の手口を耳に挟んだ事があっただけでさぁ」
照れ笑いを浮かべる元暗殺者に、ユイシークはもう一度頷き返すと、彼の言葉を待っている他の近衛兵たちに告げた。
「おまえたちは手分けしてミフィシーリアとその侍女を探せ。そのためなら近衛という身分を明かしても構わん。大至急見つけ出し、『轟く雷鳴』亭まで連れて来い!」
ユイシークの命令に、近衛たちは御意と応えるとそれぞれミフィシーリアたちの姿を求めて散って行った。
「俺は一足先に『轟く雷鳴』亭へ行くぜ。リョウトの奴に魔獣を使って探してもらおう。あいつの魔獣の中には、探しものに向いた闇鯨ってのがいるからな」
「おう、そっちは任せた。俺はこの辺りを一通り探してからリントーの親父の店へ向かう。アーシアとコトリはジェイクと一緒に先に店へ行っていろ」
「それなら、コトリが先に小父さんの店に行って、そのリョウトって人にお願いしておくわよぉ! コトリの方がジェイクより早いんだからっ!!」
言うが早いか、コトリが勢いをつけて跳躍すると、その小柄な身体は軽々と周囲の建物の屋根の上まで到達した。
そしてそのまま屋根伝いに、「轟く雷鳴」亭のある方角へと姿を消してしまう。
そんなコトリを思わずぽかんと見送っていたユイシークとジェイク、そしてアーシア。やがて我に帰ったジェイクがぽつりと呆れたように呟いた。
「リョウトに伝えるって……あいつ、そのリョウトの顔を知らねぇだろうにどうするつもりだ?」
にやにやとした笑みと粘つくような視線を自分たちに向ける数人の男たちを前にして、メリアは主であるミフィシーリアを背後に庇いながらはっきりとした意志を示す。
「せっかくですが、お断りさせていただきます。『轟く雷鳴』亭については、誰か他の方にお尋ねしますから」
そう言って、メリアは背後のミフィシーリア共々じりじりと男たちから距離を空けた。
だが、男たちは面白そうににやにやとした笑みを更に深め、ミフィシーリアたちが空けた距離以上に近づいて来た。
「そうつれねえ事言うなって。その店へ行く前に、俺たちとちょっと遊んでいこうぜ?」
「そうそう。お互いにキモチよくなってから、その店まで案内してやるからよ」
じわじわと自分たちを取り囲むように近づいて来る男たち。
メリアはスカートの奥に忍ばせておいた「粉砕くん」を取り出して身構える。
だが、その際にふわりと翻ったスカートの奥に隠されていた彼女の白い足が男たちの眼に一瞬とはいえ晒され、男たちは浮かれたように口笛を吹いて下卑た言葉を放つ。
「なんだぁ? なんだかんだ言ってそっちもその気なんじゃねえのか? 俺たちに足を見せつけるなんてよぉ?」
「おいおい、もっとじっくりとその白いアンヨを見せてくれよな」
「どうせなら、そんな邪魔なスカートは脱いじまってよ、いや、ここはいっそ、全部脱いじまったらどうよ?」
男たちが更に距離を詰め、彼らの手がいよいよメリアに触れようとした時。
ミフィシーリアと男たちを、再び濃い霧が包み込んだ。
僥倖だ。
暗殺者『穴熊猟犬』の片割れ、「霧隠れ」の異能を持つ男は心の中で喝采を上げた。
近衛の一人に直感的に正体を見抜かれ、慌ててその場を逃げ出した後、偶然にも連れ立って逃げる二人の女を目撃した。
身なりからして──豪華ではないもののきちんとした衣服と侍女のお仕着せ──、あの二人こそが標的であると判断した男は二人の後を追った。
やがて二人は、かつてこの王都が別の名前で呼ばれていた頃の庶民街へと足を踏み入れた。
ここは王国が新しくなる前に、一般の庶民が暮らしていた区画の残りだ。
だが、新たな王が即位し、国の体制が全く新しいものへと変わっていくのに合わせて、徐々に生活にゆとりを持ち始めた一般の庶民たちは、この場所から今住んでいる場所へと移動して行った。
今ではもう、ここに暮らす者は殆どいない。ここにいるのは脛に傷を持つ者か、逃げ出した奴隷ぐらいだろう。
そんな所にあの二人が入り込めばどうなるか。そんな事は明らかだろう。
現に、二人はあっというまに薄汚れた男たちに囲まれてしまった。
だが、それは男にとっては好機である。男はゆっくりと女たちの背後に回り込み、二人の立ち位置を頭に叩き込むとその身に宿った異能を解放する。
突然発生した霧に慌てふためく男たち。女たちも二度目とはいえ、視界を塞がれて立ち往生している。
本来の標的は二人だが、自分一人ではこの状況から二人を連れ去るのは無理だろう。
ならば、より重要度の高い方の標的、つまり側妃を狙う事を男は決心する。
そして男は自ら霧の中に入り込む。今、霧の濃度は薄っすらと人影が確認できる程度にしてある。
足音を殺して女たちに近づき、侍女と覚しき女を薄汚れた男たちがいる方へと力一杯突き飛ばす。
女の小さな悲鳴と男たちの下卑た声を確認して、男は残された女の腕を掴むと、無理矢理その場から連れ出した。
突然、しがみついていたメリアの温もりが消え去り、次いで腕が乱暴に引かれた。
わけが判らず引かれるまま、縺れるように走っていると徐々に霧が薄くなり、ミフィシーリアは自分の腕を引いて走る者の姿を確認する事ができた。
男だ。中肉中背で、着ている物も王都の住人が着ている一般的なもの。
先程まで自分たちを取り囲んでいた、薄汚れ下卑た笑いを浮かべる男たちとは違ったその姿に、ミフィシーリアはほっと安堵の溜め息を吐く。
だが、ふと沸き上がった思いに、再び緊張感を高める。まだ、この男が自分にとって味方であるとは限らないのだ。
だが、男の手はしっかりと自分の腕を捕まえており、とても振りほどくことはできそうもない。
かといって立ち止まろうとしても、力で男に敵うはずもなく、ミフィシーリアは引き摺られるように走り続けた。
やがて男の走りが緩やかになり、男はミフィシーリアの手を引いたまま近くの木造の掘っ建て小屋へと入っていった。
この時、初めて男はミフィシーリアへと振り返った。容貌的にも特に目立ったところのない、ごく普通の男だ。そして同時に、この男がこれまで顔を合わせた事がない相手である事に気づき、ミフィシーリアは緊張で身体を強張らせる。
「なあ、あんた。あんた、側妃様だろ?」
突然核心を突いた男の問いに、ミフィシーリアの身体が思わずびくりと震える。
「な、なんの事ですか? 私のような者が側妃様のわけがないでしょう?」
「ふ、あんた嘘が下手だな。そんな如何にも嘘を付いていますって顔で何言っても無駄ってモンだぜ?」
男は侮蔑の笑みを浮かべると、ミフィシーリアを改めてじっくりと眺めた。
目の前の女は決して豊満な身体つきをしているわけではない。だが、野に凛と咲く一輪の花のように、清楚でありながらもどこか惹かれるものを感じて、男は更に大きく笑いながら彼女の身体を粗末な板でできた小屋の壁へと乱暴に押さえつけた。
「な、何をするのですかっ!?」
「何をするって、そんな事ぐらい判るだろ? あんたも側妃様だ。となれば、男を知らない生娘ってわけでもねえだろうに。へへへ、一国の王様が抱くような極上の女だ。こんな時でもなければ味わうことなどできるわけもねえからな。ちょっとばかり味見させてもらうぜ?」
そう言った男の手がミフィシーリアの胸元へと伸ばされる。
これから起こる事への恐怖心から、ミフィシーリアは思わず眼を閉じる。だが、いつまで経っても男の手が彼女の身体に触れる事もなければ、着ている服を引き裂かれる事もなかった。
代わりに彼女の耳に届いたのは、小さな風鳴りの音と、男の喉から出たであろう悲鳴だった。
「ふむ。間一髪って奴だな」
「何偉そうに言っているのよっ!? 間違えてあの娘に当たったらどうするつもりっ!?」
「俺がこの距離で外すわけがないだろう?」
そして続けて、何やら言い合いをする年若い女性の声が聞こえた。
恐る恐る開かれたミフィシーリアの眼に映ったのは、手の甲を一本の矢で射抜かれ、血と絶叫を撒き散らす男と。
小屋の戸口の所に立っている、魔獣鎧を身につけた剣と弓を持った二人の女性の姿だった。
『辺境令嬢』本日二度目の更新です。
変なところで切ってしまったのがどうしても気になって、一気に続きを書き上げてしまいました。本当なら前回はここまで書く予定だったんだよ、うん。
いやー、人間やればできるものだね!(笑)
さて、次の更新は『魔獣使い』を予定しております。この一件の裏であっちではどのような動きがあったのか。そして、あの二人がどうしてこのタイミングで介入できたのかなどをあっちで描写しようと思います。
残されたメリアがどうなるのかも書かないといけないので、『魔獣使い』の次は再びこちらを更新したいと思っております。
では、次回もよろしくお願いします。