03-三人の密約
「どうやらあれの企みは失敗したようだな」
蝋燭の灯りがぼんやりと照らす薄暗い部屋の中、男は豪華な装飾の施された椅子に座りながら誰にともなくそう呟く。
何が理由であれの計画が上手く行かなかったのかは知らない。だが、昨日の夜会に新たな側妃が紹介された事があれの企みが失敗した何よりの証左だ。
「まあ、いい」
男は傍らのサイドテーブルの上にあった杯を手にとり、その中に満たされていた極上のワインをちびりと舐める。
「あれが派手に動いてくれるおかげで、こちらは目立たずに行動を起こせるというものだ」
男は喉の奥でくつくつと笑いながら、再び杯の中のワインをちびり、と。
実に嬉しそうに、舐めた。
「失敗したではないかっ!?」
手元にあった銀製の杯をやおら手にすると、それを目の前で薄ら笑いを浮かべている男に投げつけた。
だが、男は難なく銀の杯を躱すと、悪びれた風もなく反論する。
「そうは言うがな。所詮はあの豚と繋がっていた連中だ。最初からそれ程期待していたわけじゃないだろう?」
「そ、それもそうだが……それで? 今回使った連中は?」
「今朝方の報告では、侵入した不審者たちは全員その場で取り押さえられ、その後全員処刑されたそうだ」
「そうか。まさか私の事が相手に知られたなんて事は?」
「それはないだろうな。あいつらが知っているのは俺の顔と名前だけだ。後はあの豚との繋がりぐらいか。どれだけ拷問されようが、俺はともかくあんたの事までは喋りようがないさ」
男の言葉に、先程杯を投げた人物はほぅと安堵の溜め息を吐く。
そして、改めて目の前に立つ男へと視線を向ける。
「判っているとは思うが、この屋敷に入るところを誰かに見られたなんてことはあるまいな?」
「もちろん、そんなヘマはしないさ。誰にも見られないよう、隠し通路を使ってここまで来たんだ」
「なら、いい。ところで、今後はどうするつもりだ?」
「最初から全て俺に任せてくれれば良かったのさ。そうすればあの豚を頼る必要なんてなかったんだ」
「仕方あるまい。そもそもあの豚を使おうと言い出したのは私ではないからな」
「ま、その辺は俺の預かり知らぬ事だな。で? その豚は今どうしているんだ?」
男の言葉に、その人物は眉間に深々と皺を刻む。
「相変わらず、うるさく酒と食事と女を注文してきよる。一体自分が何様だと思っているのやら」
心底嫌そうに吐き捨てるその人物を見ながら、男はくくくっとくぐもった笑い声を響かせた。
「仕方ねえだろ? 所詮は豚だ。豚は自分が何なのかなんて考えもしねえもんさ。で? どうする?」
男は何を、とは言わない。聞いている人物も何を、とは聞かない。
そんな事は確認するまでもない事だからだ。
「もう少し生かしておけ。まだまだあの豚には利用価値があるそうだ」
「承知した。じゃあ、俺の方は俺の方で仕込みにかかるぜ?」
男のその言葉に、聞いていた人物はにやりと笑ってそれを是とした。
それを聞いた時、ミフィシーリアは思わず絶句した。
「わ、私が正妃に────っ!?」
その様子がおかしかったのか、リーナはくすくすと本当に楽しそうに笑いながら詳細を説明してくれた。
「ええ、単なる噂だけどね。でも、今の王宮ではあなたが正妃になるのではという噂で持ちきりよ」
「へえ、そんな噂が流れているんだ。ボク、ちっとも知らなかったよ」
「あら、わたくしが侍女たちから聞いた噂では、ミフィさんは既に身篭もっている事になっていましたわ」
「私は既に隠し子がいると聞きましたね」
リーナの言葉に追従して、他の側妃たちもその噂について楽しそうに話し出す。
「ほう。そいつは都合がいいな。せっかくだからその噂に便乗してしまおう」
そして、にやりと笑いながらそう言ってのけるのはもちろんユイシーク。
今、彼らが集っている場所は、後宮にある国王とその家族だけが立ち入ることを許される食堂。
現在この食堂に立ち入る事が許されているのは、国王であるユイシークと彼の五人の側妃、そしてアミリシアとコトリの合計八名のみである。
この八名以外は、例え彼らの専属の侍女や使用人といえども立ち入りは許されない。
ただし、使用人が一切いないので、ここでは給仕などを全て自分たちで行わなければならない。
もっとも、この場にいてそれを苦にするような者は国王であるユイシークを始めとして皆無であり、皆平然と自分のことは自分でする。
食事を作るのは主にアミリシア。以前、ミフィシーリアが「毎日食事の準備をするのは大変ではありませんか?」と尋ねたところ、アミリシアはにっこりと笑って「シークさんたち家族が、私の作った料理を美味しそうに食べてくれている時が私にとって一番幸せな時間ですから。決して大変ではありませんよ」と答えていた。
もちろん、時にはミフィシーリアを始めとした側妃たちも料理を振る舞う時もある。それどころか極稀にではあるものの、ユイシークまでもが包丁をふるう時があるのだ。
ユイシーク曰く、「幼い頃からアミィさんに教え込まれたからな。こう見えてもちょっとは料理の腕に自信があるんだぜ」との事。
確かに彼の料理の腕前はなかなかのもので、以前に夕食として彼が作った料理は、単純なものではあったが味わい深い美味なものだった。
そして彼らの使用人たちにとっては、主であるユイシークたちがこの食堂にいる時は、丁度よい休憩時間となる。
後宮に来てしばらくは自室で食事を摂っていたミフィシーリアだが、四人の側妃たちと親しくなってからはここで皆と一緒に食事をするようになっていた。
ただし、朝食だけは皆の起きる時間がそれぞれ異なるため、各自の部屋で摂るのが通例──最近のユイシークはミフィシーリアの部屋で──となっている。
ミフィシーリアのお披露目から数日。この日の昼食の時間にこの食堂に皆が集まった時、最近王宮で流行っている噂があるとして話題にしたのが、「ミフィシーリア正妃説」であった。
「で、ですが、何故、私が正妃になるなどという噂が……?」
噂に尾ひれが付く事はよくある。事実、サリナやマイリーが耳にした噂にはしっかりと付いていた。しかし、噂とは何らかの切欠がなければ立たないものでもある。
だからミフィシーリアは、何が噂の元となったのかと疑問に思ったのだ。
「噂の原因はあれよ。この前のお披露目の時」
リーナの説明によると先日のお披露目の際、四人の側妃たちが跪き、頭を垂れた中をミフィシーリアがユイシークの元へと歩いた事で、他の四人がミフィシーリアより一歩下がった姿勢を見せたと、あの場に居合わせた者たちは考えたのだ。
つまり。
非公式ではあるが既にミフィシーリアが正妃の座に就く事は内定しており、四人の側妃たちもそれを認めていると思われたのである。
「ちょ、ちょっと待ってください! いいのですか? そんな根も葉もない噂をそのままにしておいて──っ!?」
「構わねえさ。ってか、さっきも言っただろ? この際だからその噂に便乗しようと。な? もう諦めて正妃になれよ、ミフィ」
さあ、俺の胸に飛び込んでこいっ! とばかりにミフィシーリアに向かって両手を広げるユイシーク。
そんなユイシークにミフィシーリアは一瞬だけ視線を向けるが、すぐにアーシアたちへと向き直る。
尚、無視された形になったユイシークは、広げた両腕を下ろすに下ろせず、そのまま視線だけをきょろきょろと寂しそうに動かしていた。
「皆さんはそれでよろしいのですか? そ、その、私が正妃になるという噂が立ってしまっても……?」
「ねえ、ミフィ。この際だからはっきり言っちゃっていい?」
「え? は、はい、言ってください、アーシィ」
ユイシークを愛称で呼び捨てにするようになったミフィシーリアに、側妃たちは「国王を愛称で呼び捨てるのに、どうして自分たちは呼び捨てにしてくれないのか」と詰めかけ、結果今後は愛称で呼び捨てにするという約束を取り付ける事に成功していた。
それ以来、五人の側妃たちは互いを親しく──サリナだけはマイリー以外は「さん」付けだが、それは彼女のなりの親しさの現れ──愛称で呼ぶようになっている。
ミフィシーリアの許可を得たアーシアは、彼女に向かってにっこりと微笑むと、とんでもない言葉を言い放った。
「あのね、ボク……ううん、ボクとサリィとマリィは正妃になるつもりはないよ」
「え、えええっ!?」
思わずぽかんとしてしまうミフィシーリア。いや、彼女以上にびっくりしているのが、正妃になるつもりがないと断言されたユイシークである。
今、彼はミフィシーリアと同じようにぽかんとした表情で、幼馴染みにして従兄妹である女性を眺めていた。
「もちろん、シィくんの奥さんになりたくないってわけじゃないんだよ? でもほら、今のボクたちってシィくんの奥さんみたいなものでしょ?」
アーシアのこの言葉に、サリナとマイリーは一緒になって頷いている。
「ボクたち──ボクとサリィ、そしてマリィは、幼い頃からボクたち三人の内の誰かが、シィくんの奥さんになるんだろうって思っていたんだ。で、実はその時に三人でこっそり約束した事があるんだよ」
ここで一旦言葉を切ったアーシアは、確認するかのようにサリナとマイリーを見詰める。
そして二人が頷いた事を見て、続く言葉を紡ぎ出す。
「それはボクたちの誰がシィくんと結婚しても、絶対にシィくんを独り占めにしないようにっていう約束なんだ」
「わたくしたち三人、誰もが昔からシークさんを愛していていました。ですが、普通に考えればシークさんの正妻になれるのは一人だけ。では、その時残された二人はどうなるのか。そう考えるととても怖くて、悲しくて。それでわたくしたちは三人で相談して決めたのです。誰がシークさんの正妻になっても、決して独り占めはしないと」
「人を愛する形は人それぞれ。これが私たち三人の愛の形なのですよ。確かに、あの当時はリィとミフィという存在が増えるなんて事は想像もしていませんでしたが」
「そうだよねぇ。でも、三人が五人になってもそう大差ないよね」
「それに昔は、まさかシークさんが一国の王になるなんて想像もしていませんでしたしねぇ」
「シークが王になった事は、私たちにとってはとても幸運な事でした。なぜなら、こうして皆で一緒にいられるのですから。確かに、正妻というものに憧れなくもないですが、今の我々の関係を壊してまで正妻に拘るつもりは私にはありませんね」
三人が口々に言い合いながら楽しそうに笑う。
その様子を、ミフィシーリアは呆然と眺めている事しかできない。
「おまえら……俺の知らないところで、そんなとんでもない密約を交わしてやがったのか……。何だよ、独り占めって。俺はモノじゃねえぞ? それに昔は俺が選ぶまでいつまでも待つって言っていたじゃねえか。ありゃ嘘だったのかよ……?」
ぶつぶつと呟くユイシーク。落ち込んでいる様子のユイシークの肩を、席を立ったアーシアがぽんぽんと叩いて慰める。
「もう、何馬鹿な事を言っているのかなぁ。シィくんはモノなんかじゃないよ。ボクの……ボクたちの大切な人だよ? それに待つっていう言葉も嘘じゃない。もしもシィくんがボクたち三人の中から誰かを正妃を選んでくれるのなら、ボクたちは喜んで正妃になるよ」
でも、シィくんが正妃に望んでいるのはボクたちの誰かじゃないよね、と続けたアーシアは、ユイシークの傍らに立ったままリーナへと視線を向けた。
「リィはどう? やっぱり正妃に……シィくんの正妻になりたい?」
アーシアに真っ正面から尋ねられ、リーナは一瞬だけ言葉を詰まらせるが、すぐにいつもの冷静な態度を取り戻して真剣に答える。
「そうね……正直言うと、私はかつて奴隷だった自分が正妃になれるなんて思っていない」
きっぱりとそう断言しながらも、リーナはその続きを口にする。
「確かに正妻になりたくないといえば嘘になるわ。でもそれは、王妃としての権力が欲しいからとか、未来の国母になりたいという自分自身の栄誉のためではなくて、あくまでもシークの……愛するあなたの隣に一人の女として並び立ちたいから」
リーナは顔を朱に染めつつ、ユイシークに向かって真っ正面から告げた。
一度は奴隷に落ちた自分が、一国の王妃になるなどそんな夢物語のような事があるわけがない。
そう思いながらもリーナがユイシークの傍らに居続けるのは、恩人であり想い人でもある彼のために自分ができる事があるからだ。
だがそれは今の側妃の立場でも十分に務まっている。ならば、無理に正妃になる必要などリーナにはない。
「ねえ、ミフィ?」
次にアーシアが目を向けたのがミフィシーリアだった。
「ミフィはシィくんの事、好きじゃないのかな? 彼を愛してはいないのかな?」
『辺境令嬢』更新しました。
今回はユイシークとは最も付き合いの古い三人の側妃の想いについてでした。
三人の心境について納得いただけない方もあるとは思いますが、想いの形は人それぞれという事で(また、男性的願望と言われるかもしれませんが……)。
話は変わりますが、とある方よりユイシークの名前に「1世」とつくのはおかしいのでは? という指摘を受けました。
で、自分なりに調べたところ、「1世」とは同じ血統の中で同じ名前の者が現れた場合、先祖の方を「1世」と呼ぶとの事でした。つまり、まだ子供のいないユイシークには「1世」とは付かないのですね。
そこで彼の名前から「1世」を抜きました。
過去の分も見直して修正しましたが、もし、まだ「1世」が残っている箇所があればお知らせください。適宜修正いたします。
では、次回もよろしくお願いします。