11-謝罪
「あなたは陛下を愛していますか?」
サリナのその問いに、ミフィシーリアは「愛していない」とはっきりと答えようとした。
昨夜の突然の訪問から今朝の朝食までの時間。その時間はミフィシーリアにとって決して不快なものではなかった。それどころか、今思えばとても楽しい時間だった。
そんな時間を交わした直後に、他の女性を抱くような不節操な男性など、愛していないとはっきりと答えようとしたのだ。
だが、実際は口がまるで凍りついたかのようにその言葉が出る事はなかった。
ミフィシーリアはサリナから視線を逸らし、俯いて何かを堪えるように震える。
そんなミフィシーリアを、サリナは微笑ましそうに見詰めている。
まるで今のミフィシーリアの心の中の葛藤を見抜いているかのように。
「……そうですか。もうあの方に惹かれ始めているのですね」
サリナのその呟きが、ミフィシーリアの心のどこかにすとんと填まり込む。
そして脳裏を横切るのは、ほんの数回しか会った事のない人物。
初めて会った謁見の間。
唐突に現れた昨夜。
そのどちらもが悪戯だった。アーシアを焚き付けた件も会わせれば都合三回。それだけの数の悪戯をされたというのに、なぜか彼に対して腹立たしい気持ちにはならなかった。
もしも、同じ悪戯を弟あたりがやろうものなら、腹立たしさのあまり一、二時間はお説教を喰らわせるだろう。
だが、なぜか彼にはそんな気持ちは沸いてこない。
昨夜の彼との会話を思い出してもそうだ。
どちらかというと見知らぬ他人と接するのが苦手のミフィシーリアだが、彼とはまるで昔からの知人のように自然に振る舞えた。
そして今のサリナの言葉を聞いて、ミフィシーリアは自分の気持ちに気がついた。
出会ってまだ二日目。だけど間違いなく自分は彼──ユイシークに惹かれ始めている、と。
「どうやら自分の気持ちに気がつかれたようですわね?」
その言葉に我に返ったミフィシーリアは、弾かれたようにサリナへと視線を移す。
相変わらず彼女は微笑んでいる。まるで悩む妹を優しく見守る姉のように。
「いいでしょう。わたくしはあなたを側妃として認めます」
「は……はあ……あ、ありがとうございます……?」
相変わらずにこにこと微笑むサリナ。
他の側妃を追い出したという以前に聞いた話から想像していた彼女と、今目の前で穏やかに微笑む彼女との差にミフィシーリアは戸惑いを隠せない。
「あなたは虚栄心や見栄などでシークさんに近づいたわけではなさそうですもの。もし、そのような理由で後宮に来たのでしたら、さっさと追い出して差し上げるところですけど……」
サリナの浮かべる微笑みに、若干だけ今までとは違う色が浮かぶ。
浮かぶその色は好奇心。
「わたくしもあなたの事が気に入りましたわ」
と、サリナは手にした扇を弄びながら、爽やかな笑顔でそう告げた。
一体自分のどこがどう気に入られたのか。
あまりにも掴み所のないサリナに、ミフィシーリアは首を傾げるしかない。
とはいえ、それを面と向かって問いかけるのもなんだかで。
何と言ったものか、とミフィシーリアが困っていた時。
第六の間の扉がどんどんと乱暴に叩かれた。
ミフィシーリアは戸惑いつつも、背後に控えていたメリアに視線を送る。
それに応えたメリアが一つ頷いて扉へと向かう。
この時、ミフィシーリアの対面に座っていたサリナが「来ましたわね」と小さく呟いたが、それは誰の耳にも入る事はなかった。
扉のところで誰何の声をかけるメリア。その声に応えたのは、ミフィシーリアが先程考えていた男性のもの。
びくん、と身体を震わせるミフィシーリアを優しげに見詰めたサリナが、ふと席を立ってそのまま扉へと向かう。
微笑みを浮かべたまま自分の方へとやってくるサリナに戸惑うメリア。
「わたくしに任せなさいな」
と耳元で囁かれ、戸惑いながらもメリアはサリナに場所を譲る。そしてサリナは自ら扉を開いた。
開かれた扉の向こうで、思いもしなかった人物が佇んでいる事に、ユイシークは驚きに目を見開いた。
「サ、サリィ……? ど、どうしておまえがここ──」
ユイシークの言葉をそこで遮ったのは乾いた破裂音。
部屋の中にいたミフィシーリアとメリアを始め、サリナの侍女たちまでもが驚きで固まったままそこを見詰めていた。
サリナに突如平手打ちにされたユイシークの頬を。
「だめですよ、シークさん。こんな可愛らしい娘を悲しませては。それで、目は醒めましたか? まだのようでしたらもう一発行きますよ?」
にこにこと微笑みながら物騒な事を口にするサリナ。対するユイシークは、突然の不意打ちに最初こそ呆然としていたが、すぐに我に返るとにやりとした笑みを浮かべた。
「ああ。目が醒めたよ。サリィと……ジェイクのお陰でな」
「そうですか。では、わたくしはこれで退散いたしますわ。ミフィシーリアさん、突然の来訪ご免なさいね。それから悪いシークさんは懲らしめておきましたから。では、ごきげんよう」
スカートの裾を持ち上げて、優雅に頭をさげると、サリナはそのまま一人ですたすたと第六の間を出て行ってしまった。
後に残された侍女たちも慌てててミフィシーリアに一礼し、先に行ってしまった主人の後を追う。
部屋に残されたのはミフィシーリアとメリア、そしてユイシーク。
三人は誰からも口を開くことはせず、部屋の中は重苦しい沈黙に包まれた。
第六の間を後にしたサリナは、一人つかつかと後宮の廊下を歩く。
やがて彼女の前方に、一人の人物が姿を見せた。その人物は騎士の制服を着込み、腰に剣を佩いている。
「どうでしたか、サリィ? ミフィシーリア嬢の様子は?」
「ええ。どうやらリィさんの心配通り、シークさんが余計な事を口走っていましたわ」
「それじゃあ、やっぱり……」
「ええ、悲しんでいました」
サリナの顔から微笑みが消え、代わりに浮かんだのは心を痛めていた少女に対する心配。
「では、彼女もまた……」
「ええ。相変わらず同性異性を問わず、誰彼構わず惹きつけて止まないのですね、あの人は。ですが、今はまだ惹かれているだけ。それがどう変化するかは──」
「君の異能を以てしても判りませんか?」
「ええ。わたくしの異能はそれ程強力なものではありませんもの。あなたとは違いましてよ、マリィ」
再び微笑みを浮かべたサリナに、マリィ──マイリー・カークライトはぽんと彼女の肩に手を置いた。
「さっき、凄い勢いで走って行くシークを見ました。あの様子ならリィが心配するまでもなかったのではないですか?」
「どうでしょう? あれでなかなか鈍いところがありますからね、シークさんは」
サリナがミフィシーリアの部屋を訪れたのは、彼女の事を気にかけたリーナからの要請だった。
本来なら自分で様子を見に行くのだが、生憎と今彼女は疲労が激しくて動きたくても動けない。
最初はリーナの事を聞きつけて見舞いに来てくれたアーシア──彼女の『治癒』の異能では、疲労を回復する事ができない──が、自分が様子を見に行くと言っていたのだが彼女に「さりげなく」という腹芸ができる筈もなく。
自然、この役目は他者の気持ちを正確に感じ取る事のできるサリナに回ってきた。
結果は案の定、リーナの心配した通りユイシークは言わなくてもいいことを言ってしまい、ミフィシーリアを傷つけてしまった。
「……悲しみを感じるのは惹かれているからこそ。何とも思っていない相手なら、何も感じはしませんからね」
「ええ。しかも彼女が感じたのは嫉妬ではなく悲しみ。あのようなめに合いながらも、リィさんを憎むこともなく、純粋に悲しみのみを感じていました。心根の優しいいい娘ですわね、彼女。わたくし、あの娘の事が気に入りましたわ」
「うん。私も彼女は優しいいい娘だと思いますよ。でなければコトリがあそこまで懐いたりしないでしょう」
二人が微笑み合っていると、背後から人の気配がした。どうやらサリナの侍女たちが追ってきたようだ。
「わたくしの侍女たちも来たようですし、わたくしも一度部屋に……第三の間に戻りますわ。あなたは?」
「私はまだ勤務中です。後宮騎士隊の詰所に戻ります」
「マリィにも心配かけたみたいですわね」
「何を言っているんですか? 私たちは昔からの親友でしょう? 気にしないでください」
背中越しに手を振り、その場を立ち去るマイリー。サリナはそこに留まり、背後から侍女たちが追いつくのを待っていた。
その顔に浮かぶのはいつもの微笑み。その微笑みは、今きっと悩み戸惑っているであろう一人の少女と一人の青年に向けられたものだった。
重く立ち籠める沈黙と緊張感。
ミフィシーリアとユイシークは立ったまま、気不味そうに何度も互いの顔を見やるものの、張り詰めた緊張感に気圧されて何も言えずに再び視線を逸らす。
そんな事を何度か繰り返しているうち、ミフィシーリアはユイシークの片頬の変化に気づいた。
「し、シーク様っ!? どうなされたのですか、その顔は……っ!?」
「あ、これか? これならさっき、サリィに引っ叩かれ……」
「そちらではありません! 反対側です!」
はっとして腫れた頬を手で隠すユイシーク。確かに彼の左頬には先程サリナに平手打ちされた椛模様が張り付いているが、その反対側の右頬は赤く腫れている。先程ジェイクに殴られた箇所が、今頃になって腫れてきたようだった。
「メリア! 何か冷やすものを!」
「は、はい! 承知しました!」
ばたばたと侍女の控え室へと駆け込むメリアをよそに、ミフィシーリアは小走りでユイシークに近寄ると、間近でその頬を見定める。
「これは……もしかして、殴られたのですか?」
「ああ……まあ、な」
気不味そうに視線をそらすユイシークの手を引き、椅子に座らせる。
そこへメリアが桶に水を汲んできたので、持っていたハンカチをその水に浸し、軽く絞って彼の腫れた頬へと当てた。
「一体誰に……」
そこまで考えてミフィシーリアはふと閃く。あの時、執務室にいたのは自分とユイシーク、そしてジェイクだ。
自分が執務室を飛び出した以上、彼を殴ったのはジェイク以外にあり得ないだろう。
「ジェイク様……ですか……?」
「ああ。……でも、悪いのは俺だ。あいつは俺の目を醒まさせてくれたんだ」
昔からお節介な奴なんだよ、と呟くユイシークを見て、ミフィシーリアの顔に微笑が浮かんだ。
「済まなかった」
照れているのか、ユイシークはそっぽを向いたままぽつりと零した。
「ジェイクに言われた……おまえは他の……アーシィやサリィたちとは違うのだと」
彼の頬に濡れたハンカチを押し当てながら、ミフィシーリアはその言葉に耳を傾けた。
「──正直、俺は慣れてしまっていたんだな。アーシィやサリィ、リィたちが傍にいる事が当たり前の事になっていたんだ。自惚れに聞こえるだろうが、あいつらが俺に想いを寄せてくれている事に慣れてしまっていたんだ」
決して視線を合わせる事はなく。だけど途切れる事もなく。
独白に近い彼の言葉を、彼女はただただ黙って聞くばかり。
「だけど、あいつらが俺にとって大切な存在であるのも確かなんだ。幸い──というか何というか、俺は王になった。あいつらを全員傍に置いても誰も文句は言わない。あいつら自身も、互いに互いを認め合った上で納得して俺の傍にいてくれる。だけど、おまえは違うんだよな」
この時、初めてユイシークはミフィシーリアへと振り向いた。
「──つい、おまえをあいつらと同じように扱ってしまった。済まなかった」
ユイシークは居住まいを正すと、ミフィシーリアに向かって深々と頭を下げた。
一国の頂点に君臨する存在に、面と向かって頭を下げられたミフィシーリアは、逆に混乱してしまってあたふたと狼狽える。
「あ、い、いえ、お構いなく──じゃなくて! え、えっと、その……と、取りあえず頭をお上げください!」
頭を下げたまま、ちらっと上目使いでミフィシーリアの様子を伺うユイシーク。あたふたと慌てふためく彼女の姿に、思わず吹き出してしまった。
「し、シーク様っ!? もしかして、また私をからかわれたのですかっ!?」
「違う、違う。本気でおまえに謝罪したんだよ。今のは慌てるおまえが可愛かったからつい──な?」
ぱちりと片目を閉じて見せるユイシーク。
そして面と向かって可愛いと言われたミフィシーリアは、先程のユイシークの片頬以上に真っ赤になった自分の頬を、思わず両手で押さえたまま黙り込んでしまった。
『辺境令嬢』更新しました。
少々時間が空いてしまいまして、申しわけありません。
実はここのところ、この『辺境令嬢』を書くテンションが少々下がり気味だったので……
別に何か身辺であったというわけではなく──
皆さんに読んでいただいているこの『辺境令嬢』。お陰様を持ちまして、お気に入り登録が200を超えて間もなく250に至ろうかとしています。
反面、お気に入り登録から外される方もみえるわけで。
しかも、更新した時にだだーっと登録数が減ったりすると、自信がなくなるというか、凹むというか……
そのため、少々書く意欲が下がっていました。
お気に入り登録などが減るのは仕方ないと思います。期待されていたような話の展開と違ったりもするでしょう。純粋にこの『辺境令嬢』に飽きたという方もみえるでしょう。
その事は理解しているつもりなのですが、それでも更新した途端に減るというのは少々……
もちろん、偶然の一致という可能性もあるわけですが。
それでも、「次の更新はいつですか」とか「楽しみにしています」と言ってくださる方もみえます。
そんな方たちの声を糧に、何とか今回の話を書きました。
愚痴じみた事を零してしまって申し訳ありません。
ただ、途中で投げ出すような事だけはしたくないので、完結だけはさせるつもりです。
いつ頃の完結になるのかなどは全くの未定ですが、気長にお付き合いいただければ幸いです。
今後ともよろしくお願い致します。