08-初めての会話
「──これは……」
「余計な事は喋るな。無駄に苦しみたくはないだろう?」
震える瞳で首筋に当てられた刃を見詰めるミフィシーリアに、覆面の男──声で男だと判明した──は、冷たい声で告げた。
ミフィシーリアの視線が、首筋の刃から男の瞳へと移動する。
そしてミフィシーリアは、男の瞳に愉快そうな笑みが浮かんでいるのを見る。
だが、その事にミフィシーリアは違和感を感じざるを得なかった。
「──何が目的です?」
「喋るなと言ったはずだが?」
男はミフィシーリアの眼を見詰めたまま、いきなり彼女の胸の片方を掴みあげた。
「きゃ──っ!!」
「ふむ……思ったより大きいな。もっと小さいかと思っていたんだが」
男が零した呟きに、ミフィシーリアは頬を赤く染める。
ひょっとして、この男の目的は自分の純潔では──
ミフィシーリアの脳裏をそんな考えが過る。
確かにここで純潔を失えば、彼女は側妃の資格を失うだろう。ミフィシーリアが後宮入りするのを面白く思わない人物が、それが目的で目の前の男を送り込んで来たと考えれば納得がいく。
だが、それにしては男の目に浮かぶ光がミフィシーリアには気になった。
男の目に浮かぶのは確かに笑み。だが、その笑みは男が女を狙う好色な光ではなく、子供が悪戯をする時のような──
そう考えた時、ミフィシーリアの頭の中を一条の光が走り抜けた。
「──そろそろ悪戯はお終いに致しませんか? 陛下」
途端、それまでミフィシーリアの胸をやわやわと揉みあげていた男の手がぴたりと止まった。
それまで男の瞳に浮かんでいた笑みに代わり、新たに浮かび上がるのは明かに狼狽のそれ。
「やはり陛下でいらしたのですね?」
「ち、違う! 違うぞ! 俺はこの国の王のような究極のナイスガイではない! 俺は単なる通りすがりの暗殺者だ!」
「それで? こんな時間に何用でしょうか? へ い か?」
男の戯言を華麗にスルーし、強調した口調で問いかけるミフィシーリアに、男は観念したかのようにはあと息を吐いた。
「おまえ、思ったより図太いな。もっと取り乱すと思ったんだが……」
男──ユイシークは、観念したのか顔を覆う覆面を外した。
露になった彼の素顔には、再び悪戯小僧のような笑みが浮かんでいた。
「もちろん驚きました。目が覚めればいきなり首筋に刃物があるのですから」
「その割には随分冷静のようだったが?」
「あのような場合、下手に取り乱すのは愚策ですから──と、言いたいところですが、実は怖くて動けなかっただけです」
「そうか。だったら俺の勝ちだな」
「勝ちとか負けとか何に対してですか?」
どこまでも掴み所のないユイシークに、ミフィシーリアは苦笑するしかない。
ユイシークは手にしていた短剣と覆面を纏めてベッド脇のテーブルに置くと、ベッドで身体を起こしていたミフィシーリアの隣に無遠慮に腰を下ろした。
「それで、どうして俺だと判った?」
「眼……ですね」
「眼?」
「はい。陛下の眼に浮かんでいた光が、まるで私に悪戯を仕掛ける時の弟の眼にそっくりでしたから。それにリーナ様が仰っていましたし」
「リィが?」
「はい。陛下は永遠の悪戯小僧だと。そして何かしら仕掛けてくるだろうから相手にせずに適当に流せ、と」
「くそ、リィの奴。今度ベッドの中で思いっ切りいじめてやる」
そっぽを向いて呟くユイシークに、ミフィシーリアは堪えきれずに小さな笑い声を上げた。
「お、ようやく笑ったな」
「あ……し、失礼しました」
「構わんさ。やっぱり女は澄ましているより笑っていた方が可愛いしな」
何気ないユイシークの一言に、ミフィシーリアの心臓はなぜかどきりと一度だけ激しく鼓動した。
「それよりも、本当に暗殺者が来たとは思わなかったのか? 暗殺者とまではいかなくとも、誰かがおまえを汚そうとしたとは考えなかったのか?」
それまでの悪戯小僧のような眼ではなく、ユイシークは真摯な眼でミフィシーリアを見る。
「もちろん、考えました。ですが、それにしては違和感がありましたので」
ほう、と呟き、無言で続きを促すユイシーク。
「仮に部屋に侵入したのが本当に暗殺者だとしたら。わざわざ私が目覚めるまで待たず、そのまま私を殺した方が楽な筈。それに私を汚すのが目的ならば、私の身体を縛るなりなんなり、抵抗しないように自由を奪うのではないですか? ですが、そのような事は一切されませんでした」
「だから違和感を感じた、と。ふむ、おまえ中々頭の回転が早いな」
「い、いえ、それ程の事では……先程も申し上げた通り、怖くて動けなかっただけですから……」
俯いて照れた笑みを浮かべるミフィシーリアを、ユイシークは面白そうに見詰める。
しばらく無言で見詰めていたユイシークが、ミフィシーリアの顎の下に指を伸ばし、彼女の顔をくいっと自分の方へ向けさせる。
「おまえは中々面白い奴だな。どうだ? 正妃に──王妃にならないか?」
「は……い……?」
始めは何を言われていたのか判らなかったミフィシーリア。だが、その言葉の意味するところが理解できてくると、赤かった顔が一瞬で青に染まった。
「む、無理ですっ!! わ、私ごときが正妃など勤まる筈がありませんっ!!」
「いや、おまえは聡い。下手をするとリィと同じぐらいに頭が切れる。俺の私見だが、十分に正妃の器だと思うがな。もう一度言おう。正妃になれ」
「お、お断りしますっ!!」
間髪入れずに否定するミフィシーリア。そんな彼女を見るユイシークの眼が、ますます面白そうに歪められる。
「本当におまえは面白いな。普通、側妃として後宮に入った女が正妃になるのを否定するか? それも即断で。それじゃあ、おまえは何が目的で後宮に入ったんだ?」
「そ、それは……」
ミフィシーリアが後宮に入ったのは、実家であるアマロー男爵家に援助金が入ると聞いたからだ。
今年不作だったアマロー男爵領の領民は、このままでは冬を越せない者たちが大勢出るだろう。そんな彼らを救うために、ミフィシーリアはアルマン子爵との婚姻に同意した。
だがアルマン子爵の悪事が露呈し、アルマン子爵に輿入れする話がなくなり、代わりに降って湧いたのが後宮入りの話だ。
そしてミフィシーリアが後宮入りすれば、王国からアマロー家に援助金が入るという約束になっている。
だが、果たして正直にその事を国王であるユイシークに告げてもいいものだろうか。
そうやって逡巡しているミフィシーリアを見て、ユイシークは言い辛い理由でもかるのかと一瞬首を傾げるが、ケイルやコトリから聞いたアルマン子爵にまつわる一件とアマロー家の現状を思い出した。
「……そうか。おまえは領民のために後宮に入ったんだな?」
「は、はい……も、申し訳ありません」
「なぜ、謝る?」
「あ、あの……陛下の寵を賜りたくて後宮入りしたのではなく、領民のためだとお知りになられて不快に思われたのでは……?」
「ふん、口先だけで寵を求める馬鹿な女よりも、いっそ清々しくて気持ちいいくらいだ」
と、ユイシークは自分の膝を叩いて笑った。そしてかつて後宮にいた彼の言う馬鹿な女たちを思い出したのか、眉を寄せて不快そうな表情になる。
「はっきり言って、俺は貴族の礼儀だとか教養とかとは無関係に育った。生まれこそ伯爵家だったが貧乏でな。贅沢とかとは無縁だったよ」
「そうなのですか?」
「──おまえ、俺の経歴も知らずに後宮に来たのか?」
「も、申し訳ありません! ふ、不勉強な身で……」
本当に面白い奴だな、とユイシークはその大きな掌をぽんとミフィシーリアの頭に載せた。
そしてそのまましばらく、彼女の柔らかな髪の感触を楽しむ。
「まあ、貧乏だからこそ、領民たちとは上手く行っていたよ。おそらくおまえの家のようにな。俺も子供のころは平民の子供たちと混じって遊び回っていたものさ」
自分の髪をゆっくりと撫でるユイシークの手。その手の感触がミフィシーリアには気恥ずかしくもどこか心地よく感じられる。
「ま、その後は馬鹿な貴族連中の権力争いに俺の家も巻き込まれて、結局我が家はお取り潰し。両親は首を斬られたけど、まだ幼かった俺は特別な計らいとやらで命だけは許された。家も財産も家族も勝手に奪っておいて、何が特別な計らいだってんだ」
顔を向けることなく吐き捨てるユイシークの言葉を、ミフィシーリアはただ黙って聞くしかなかった。
「で、その後はお袋の妹さんの嫁ぎ先だったミナセル公爵家──当時は男爵だったけどな──に引き取られて、そこで新しい家族に出会った。ま、それ以外にもジェイクやケイルといったおまけとも出会ったがな」
改めてミフィシーリアへと顔を向けたユイシークは、おどけたように片目を瞑ってみせた。
「ミナセル家も自由な家風でな。貴族なのに市井に混じって一緒に生活していた。どちらかっていうと貴族というより、ちょっと金持ちの庶民って感じの家だったんだ。だから俺には貴族の教養とかは無縁ってわけだ」
「──なんとなくですけど、想像できます」
目の前の一国の王とは思えないような自由奔放な青年。そして今日出会った彼の従兄妹にあたる少女。
彼らの気風は貴族というより庶民のそれに近い。だからだろうか。今目の前にいる青年やその従兄妹の少女に親近感ともいうべきものを感じるのは。
きっと彼らの生活は、自分がアマロー家での送った生活と似ている部分があるのだろう。
「だと言うのにだな、部屋をごてごてと家具や美術品で飾ったり、自分自身を高価な衣服や装飾品で着飾ったり、身綺麗な侍女を何人もこれみよがしに侍らせたり。そんな金と権力にしか目がない連中の口から愛していますだの、寵を受けられて光栄ですとか言われてもちっとも嬉しく思えないね。どうせなら本人と侍女全員が素っ裸になって俺を出迎えてみろってんだ。その方が余程俺は嬉しく思うね」
「それは言外に次に陛下がこの部屋におみえになる時は、私と侍女が裸で待っていろと仰ってます?」
「おう。やってもらえるなら、是非お願いしたいね。そうすればこの部屋に絶対に来たくなるってもんだろ?」
「ふふふ。ですが、お断り致します。リーナ様から陛下の言うことを真面目に聞き受けるなと言われていますので」
「ちくしょう、リィの奴。ことごとく俺の野望の邪魔をしやがって。仕返しに今度あいつを全裸にひん剥いて王城中を引き連れて回ってやる」
「おやめになられた方が賢明かと。リーナ様はあれで陛下のお言葉には絶対に従うでしょう。本当に裸で王城の中を歩いてしまわれますよ?」
「ちっ、仕方ない、おまえに免じて許してやるか。あいつの裸を見ていいのは俺だけだしな」
自然に互いの視線を絡ませる二人。そして同時に声に出して笑い合う。
ひとしきり笑い合うと、ユイシークは自分の頭をぽてんとミフィシーリアの膝の上に落とした。
「きゃっ」
「お、中々気持ちいいな。さっきの胸の感触といい、小柄で痩せぎすかと思ったが結構着痩せする方か?」
「し、知りません!」
ミフィシーリアは真っ赤になってぷいと顔を背けた。
そんなミフィシーリアの態度が面白かったのか、ユイシークは彼女を見上げながら再び笑う。
「やっぱりおまえは面白い奴だ。こうして話をするのは初めてだというのに、何か以前から知り合っていた気がするな」
ユイシークに言われてミフィシーリアも思い出した。
彼の言う通り、こうしてまともに会話するのはこれが初めてなのである。なんせ謁見の時があれだったのだから。
「なあ、改めて聞くぞ。正妃になれ」
「お断りします」
ユイシークの視線がミフィシーリアを見据える。その眼はなぜ正妃になるのを拒むのかと問いかけていた。
「私が正妃になれば……おそらく実家も只では済み ません。我が家は辺境の小貴族でしかないのですから」
「確かにおまえが正妃になれば、権力の亡者どもがアマロー家にも色々と手を伸ばそうとするだろうな」
そしてそれらの手を撥ね除けきるだけの力は、今のアマロー家にはないとミフィシーリアは考えている。
「それにアーシア様やリーナ様といった、本当に陛下を愛しておられる方々がいらっしゃいます。正妃にするなら、彼女たちの中から選ばれるのが本筋だと思いますが」
だが、ユイシークはその言葉に顔を顰めるだけだった。
「──こちらにも色々と事情があってな。アーシィやサリィといった御三家の血筋の側妃を正妃にするわけにはいかないんだ」
「でしたらリーナ様では?」
「あいつの元奴隷という部分が引っかかる」
「つまり、残されたのは私だけ、という事ですか……」
「まあ、そう言えばそうなんだが……怒ったか?」
「いいえ……私にも事情があるように、陛下にも事情がおありなのでしょう? その程度で怒ったり致しません」
そうならいい、とユイシークは呟き、そのまま眼を閉じた。
「──陛下? お眠りになるのですか?」
ミフィシーリアの問いかけに、ユイシークは再び眼を開けた。だが、その顔には明かに不機嫌なものが浮かんでいる。
「陛下?」
「それ、やめろ」
「は?」
「私的な時間で俺を陛下と呼ぶな。俺の事はシークと呼べ」
「は……はあ……」
「アーシィやリィ、ジェイクやケイルも公式な場以外では皆そう呼んでいるんだ。だからおまえもそう呼べ。そうしたら俺もおまえのことをミッフィ……」
「私の愛称はミフィです」
「お、おう……そうか」
きっぱりとそう言いきるミフィシーリアに、ユイシークは僅かにたじろぎながら肯いた。
「今、陛下──し、シーク様が呼ぼうとした名前は、どこか危険な香りがします。どこが危険なのか自分でもよく判りませんが」
「そりゃ奇遇だな。実は自分で言っておいてなんだが、俺もそう思ったんだ」
そして二人は、もう一度見詰め合うとくすくすと静かに笑い合った。
本日はもう一本、『辺境令嬢』も更新します。
ようやくミフィシーリアとユイシークがまともな出会いをしました。
ここまで本当に長かった。
お待たせしてしまった方々(←いるのか?)、本当に申し訳ありません。
これからは二人の絡みも増えてくると思います。そしてミフィシーリア以外の側妃で、未登場の人たちも本格的に出てくるでしょう。
今後もよろしくお願いします。