きみのせなか
どれくらいそうしていただろう。空を眺めているうちに、私もいつの間にかウトウトしていたらしい。急に体がビクッと震えて、意識が引き戻された。
私につられたように朝美が身じろぎをする。体の上に朝美の重さを感じた。
気がつくと空はすっかり夕焼けの色になっている。
もうそんなに時間が経っていたのか。そろそろ帰らないとなぁと、私はぼんやりと考えた。
起きたのかと思ったけれど、朝美はまたすぐに夢の世界に戻っていったみたいだった。気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
そういえば、こう見えて朝美って寝起き悪かったんだっけ。そんなことを思い出しながら、私の上に乗っかっている小さな背中をポンポン叩く。
「朝美ー、起きなー」
「……ぅ」
「ほらー、もう夕方だよ。帰るよー」
何度も呼びかけても一向に起きる気配が無い。段々腹が立ってきて、私はめいっぱい息を吸い込んだ。
「起、き、ろーっ!!」
思いっきり叫ぶと、朝美はその声に驚いてパッと飛び起きる。身体を起こすときに、朝美の細い腕にお腹を思いっきり押されて、思わずカエルが潰れるみたいな変な声が出た。
朝美は目をこすりながらキョロキョロと目線を左右に走らせる。
「……あ、れ?」
「やっと起きたか、バカ!」
お腹を押さえながら、足を振り上げてその反動で私も身体を起こす。朝美はようやく寝ぼけ頭が覚めてきたのか、段々と私の顔に焦点が合ってきた。
「えっ? 私、寝ちゃってた?」
「ええ。それはもう、ぐっすりと」
満面の笑みで言ってやったら、朝美は恥ずかしそうに目を伏せる。ほとんど聞き取れないくらいの小さな声で口だけをもごもごさせながら、胸の前で両手を合わせている。
「あの、紗奈ちゃん……ごめんね」
「はぁ、もういいって」
私はさっさと立ち上がって、制服についた砂粒を手で払う。制服はもうすっかり乾いていて、軽く叩いただけで簡単に綺麗になったように見えた。
「それより、帰るよ。もうこんな時間だし」
「う、うん」
片手で空を指差しながら、もう片方の手で朝美を引っ張って立たせる。朝美は大人しく私に従った。
「ほらほら、ぐずぐずしない!」
「ま、待って。靴下、履かないと」
「良いじゃん、裸足のままで。足ジャリジャリして気持ち悪いしー」
靴下を引っつかむと、靴だけを突っかけるようにして歩き出す。堤防を飛び降りて、足早に自転車のもとまで戻った。
自転車のカゴに靴下を放り込んでから後ろを振り返る。朝美は地面を見つめながら、トボトボと歩いてきていた。いつの間に履いたのか、ちゃんと靴下も履いている。
多分、寝てしまう直前のことを思い出しているんだろうけれど、朝美は明らかに元気が無い。俯いて歩いているその姿は、つい数時間前にこの海に来たときとまるっきり同じだった。
外国人みたいに大げさに肩をすくめる。もう、しょうがないなぁ朝美は。
来たときと同じなら元気を出させるのも同じで良いはず。多分だけど。私は肺いっぱいに大きく息を吸い込んだ。
「はーやーくー! 走れーっ!!」
私の声に朝美が慌てて走り出すのを横目で見ながら、こっちに駆けてくるよりも早く自転車の荷台に飛び乗る。朝美は息を切らせながら駆け寄ってきた。
「遅いよ! 帰りは朝美が漕ぐ番だからねー」
「はぁはぁ……、うん……えっ?」
「えっ、じゃないでしょ。早く漕いでよ」
「え、嫌だよ。なんで?」
「行きは私が漕いだんだから、帰りは朝美なのは当然でしょ。それに、あんだけぐっすり寝てたんだから元気は余ってるでしょー?」
「そんなこと……」
朝美が困ったように眉根を寄せた。こんな風に朝美を困らせるのが、多分、私の役目。
私が荷台から降りる気が無いのが分かると、朝美は小さくため息をついてサドルに座る。
「はぁ、しょうがないなぁ」
「ふっふっふっ、運転手さん。さあ出してくれたまえ」
「……もう、しっかり捕まっててね?」
朝美が肩越しに私を振り返る。
「はいはーい」
私が適当に答えると、朝美は呆れながら前に向き直って、思い切り体重をかけてペダルを漕ぎ出した。
そんなに力いっぱい漕ぐほど私は重くないだろ、失礼な! なんてことを思っているうちに自転車はノロノロと動き出す。
私はバランスを崩さないように、朝美の細っこい腰にしっかりと腕を回した。
元々あまり体力が無い朝美には、二人分の体重を乗せて走るのは辛いみたいだった。散々遊び疲れていたこともあるかもしれない。朝美の息はすぐに上がってしまった。
自転車はゆっくりと、左右に大きく揺れながら長い一本道を進んでいく。
私は後ろから「頑張れー」とか「気合だー」とか、適当な声援を送る。けれど、朝美はバランスを取るのに必死で、反応する余裕もなさそうだった。
大きく揺れる朝美の背中を見ていたら、背中越しに鼓動の音が聞こえてきそうな気がして、ちょっとだけ汗ばんでいるその背中に耳を押し付けるようにして強く抱きつく。そうしたら朝美が、カエルの鳴き声みたいな変な悲鳴を上げた。
「ぷっ、変な声ー」
「ちょ、紗奈ちゃん、お腹、くるし……」
朝美の抗議の声に吹き出しながら、私は腕の力を緩めた。押し付けていた頬を朝美の背中から離す。
「朝美はホント弱いなぁ」
「紗奈ちゃんが強く抱きつきすぎなんでしょ!」
ちょっとだけ慣れてきたのか、スピードにのった自転車は左右に揺れることは少なくなった。朝美もようやく余裕が出てきたのか、いつもの調子で私の軽口に反応してくれるようになった。
「だって揺れるんだもーん」
「そんなに怖いなら降りればいいのに」
背中越しに聞く朝美の声は元々が小さいせいもあって、ぼんやりと遠くて聞き取りづらい。
「ちゃんとまっすぐ漕いでくれれば良いだけなんだけど?」
「そんなこと言ったって、二人乗りなんてやったこと無いんだからしょうがないじゃない」
「さすが優等生さんは凄いですねー」
「……はいはい」
朝美が苦笑する、聞きなれた声。背中越しで顔は見えなかったけれど、朝美がどんな表情をしているかは不思議と簡単に想像できた。
私はさっき離した頬を、もう一回朝美の背中に押し付ける。今度は苦しくならないように、お腹に回した手は軽く。そのまま呟くように小さく、目の前の人の名前を呼ぶ。
「ねえ、朝美ー」
「んー、なにー?」
朝美は振り返らずに答える。
「……なんでもない」
「なにそれー」
聞こえてるとは思わなかったから、ちょっと焦って慌てて誤魔化す。私は、なんでかは分からないけれど、なんとなく黙っていたくなかったんだ。
「……優等生なのに怒られちゃうね」
「えっ?」
「自転車の二人乗りは違法だって知ってた?」
「そう思うなら降りてよっ!」
「やーだー」
私がからかうように言うと、朝美も負けないように言い返してくる。一通り口論して、そのあと二人で笑いあう。そんな、慣れ親しんだいつもの会話が心地良かった。
来るときはあんなに長く感じた一本道は、帰りは反対に随分と短く感じた。そんな風にして、自転車が学校についてしまうまでの間、私たちはずっとくだらないお喋りを続けていた。