青い空、白い雲
チャイムの音が遠くから聞こえてきて、私達は六時間目の授業が始まったことを知った。いつの間にそんなに時間がたっていたのかと驚いたけれど、改めて気がついてみると確かに、遊びつかれた体は随分と重く感じた。
私達は海から上がることにして、砂浜を突っ切って防波堤に向かう。
全身ずぶ濡れで海から上がるその姿は、まるで無人島にたどり着いたみたい遭難者みたい? と思ったけれど、遭難していたにしては私たちは楽しげだった。
足の裏に砂粒が張り付いて、歩くたびにちょっとだけくすぐったい。朝美は私を追い抜かして階段を上っていくと、そのまま防波堤に腰掛けた。私も追いかけてその隣に並んで座る。濡れた体が冷えてしまって、自然と距離が近くなった。
「……そろそろ帰らないとだね」
朝美は海を眺めながら、独り言のようにそう呟く。その声はなんだか寂しげに聞こえたけれど、それは私自身が寂しいと思っていたからそう感じただけかも知れない。
「あー、疲れたぁーー!」
大きく伸びをすると、朝美はこっちをチラッと見て、それからすぐに視線を戻した。
「ホント、呑気なんだから……。もう、制服どうしよう。こんなびしょ濡れじゃ、帰れないし」
「乾くまで待ってればいいじゃん?」
「まぁ、それしかないかぁ」
「うーーっ、シャワー浴びたーーい!!」
大声で叫ぶ。その勢いのまま後ろに倒れるようにして、仰向けに寝転がる。髪に砂がつくんじゃないかと思ったけど、そんなこと今更気にしてもしょうがない。
「……そんなのあるわけ無いでしょ」
朝美は海を見つめたまま呆れ声。顔は見えなかったけれど、苦笑しているのが簡単に想像できた。
仰向けになって空を流れて行く雲を見ていた。今まで、雲は全部同じ速さで流れていくのだと思っていたけれど、そうじゃないみたいだった。いびつな雲たちが、形を変えながらゆっくりと流されていく。
視界に映る空の中でも一番大きな白い塊が、パン生地をこねたみたいに縦に伸ばされていく。一番後ろの部分は、今にも千切れてしまいそうだ。
「紗奈ちゃん」
頭の上から声が聞こえて、私は朝美の方に目線を向ける。
「……なに?」
久しぶりに聞いた朝美の真剣な声。自然と私の声も硬くなる。
「紗奈ちゃんは、どうしてこんなことするの?」
「こんなことって?」
「それは……、こうやって授業をサボったりだとか、全然勉強しないこととか」
朝美はいつの間にか私の顔をジッと見つめていた。その目が潤んでいるみたいに見えて、思わず目を逸らした。
「別に理由なんて無いよ。もともと不真面目なの、私は。朝美も知ってるでしょ?」
「……っ、そんなことない!」
朝美が私の言葉を強く否定する。急に大声を出されたこともだけれど、それ以上に、大人しい性格の朝美がこんなに大きな声を出したことに私は驚いた。
「三年生になった頃は……そりゃ、真面目ではなかったけど、それでもちゃんと勉強もしてたでしょ。授業だってサボらなかったし。夏休みが終わった位からだよね? 急にサボりだしたのって」
なんで知ってるんだ。どんだけ私のこと見てるんだよ! と思ったけれど、それはさすがに言えなかった。
「そのころに、何かあったんじゃないの? 悩みがあるなら、私でよければ話してよ」
「……優等生には、分かんない」
「何で私には何も言ってくれないの? 親友……だと思ってるのは私だけなの? それに、優等生は廃業だって、そう言ったのは紗奈ちゃんだよ?」
朝美はそれだけ言うと、顔を伏せてしまった。普段ならあまり自己主張しない朝美が、こんなに一気に話しているのは珍しい。多分それだけ真剣だということなんだろうけど。
鼻をすする音が聞こえた。すぐに髪に隠れてしまったので分からないけれど、やっぱり泣いていたのかもしれない。
私がどんなことを考えているかなんて、今まで、誰にも話したことなんて無かった。言ったところで、きっと誰にも理解してもらえるはずないとも感じていた。
でもどうしてかな。いま、朝美になら、話してみても良いかもしれないと、そう思ったんだ。
多分私は嬉しかったんだろう。朝美も私と同じように親友って思ってくれていたことが。ちゃんと私を見ていてくれたことが。
「朝美はさ……将来の、夢とかって、ある?」
私がポツリポツリ話し始めると、朝美は慌てて顔を上げて私の顔を振り返った。よく見ると朝美の鼻の頭はちょっと赤くなっているみたいだった。
自分の中でも上手く説明できないことを、ゆっくりと整理しながら発した私の言葉は、自然と途切れ途切れになってしまう。
朝美は一瞬呆気にとられたみたいだったけど、すぐに気を取り直して私の質問に答える。
「……ううん? まだ決まってないけど。紗奈ちゃんの悩みって将来のこと?」
「そう、なのかな。じゃあさ、志望校ってもう決めたよね? それってさ、どうやって決めたの?」
「うーんと、普通に一番偏差値高いところを選んだだけだけど」
「普通はそうだよね。他には、家から近いとか制服が可愛い、とかかな?」
「そういう人、結構多いと思うよ。……それで、それがどうしたの?」
朝美が怪訝な顔をする。確かにこれで分かれって言うのが無理な話だ。でも何て説明すれば良いんだろう。一つずつ、順番に伝えていくしかない。
「えっと、例えばだけど、朝美が、山登りをするとするじゃない。登山道とかがある山じゃなくて、獣道しかないような、野山ね」
「それって、昔の遭難したときの話?」
「まぁ……そうだけど、今は昔のことは関係ないの。例えばの話」
「う、うん」
朝美が頷くのを確認して言葉を続ける。
「そしたらさ、地図はもちろん持ってくでしょ? コンパスもあった方がいいかも。歩きやすい靴履いて、……えーっと後は、飲み物と非常食に、とにかく、そうやってちゃんと準備しないと出発なんてできないでしょ?」
「紗奈ちゃんはその、準備が出来てないから動けないってこと?」
「うーん……違う、気がする。なんだか上手く言えないけど、地図は多分、誰でも持ってるんだよ。学校に行ったり勉強したり、そういうことが、地図なんじゃないかな。私は、その、地図の使い方が分かんないんだと思う。だって、その、目的地が分からないんだもん」
朝美は私の無茶苦茶な話を黙って聞いて、時折頷いたり、首をかしげて考え込むような仕草をする。私の下手な説明じゃ、きっと半分も伝わらない。誰かに何かを伝えるというのは、どうしてこんなに難しいのだろう。
伝えたいと強く想うほど、逆に気持ちは伝わらなくなるのかも知れないと思った。
いっそのこと、テレパシーか何かで私と朝美の頭を直接繋げられれば良い。そうしたら、こうやって言葉を選ぶことも、やっぱり伝わらなくてもどかしい思いをすることもなくなるんだから。
それでも朝美は、バカにしたりしないでちゃんと私の話を聞いてくれている。それだけで、私は少しだけ救われるような気がした。
「でも、それって、朝美達も同じことだと思うんだ。朝美も将来の夢は決まってないって、そう言ってたよね。それって、目的地が分からないってことじゃないのかなって」
「そう……かも?」
朝美が自信なさげに首をかしげる。
私の方は逆に、話していて段々気持ちが整理されてきたような気がした。
「どうして、朝美たちは目指す場所も無いままで歩き出せるの? もし進んだ先が崖になってたら? どんどん進んでって後戻りも出来なくなって、遭難しちゃうかもしれないのに」
「……」
「そうやって思ったらもうダメで。文化祭が終わったと思ったら急に皆は、もう別人みたいに勉強し始めてて、なんでなのって思ったら、私だけ置いてかれてるみたいに感じるし……」
朝美が私の目を覗き込んでいる。ちょっとだけ不安げな瞳の中に、仰向けに寝転んだ私の姿が映っていた。
「だからって、立ち止まってるわけにはいかないでしょ。遭難したときとは違うんだから、待ってたって誰も助けに来てくれないんだよ?」
そんな事自分でも分かってるんだ。でも、理屈じゃない。私だって、これは私が自分で整理をつけなきゃいけない問題だってこと、ホントは分かってるんだ。
「私だって、目的地なんて分かってないよ。でも例えば、山の頂上まで登ってみれば、目的地だって見つかるかもしれないでしょ? だから私はとにかく登ってみるの。他のみんなだって、多分そうだよ?」
「そんなこと……分かってるよ」
さっきまでは、きっと朝美には伝わるって思っていたのに。別に同意して欲しかったわけじゃないけれど、それでもやっぱり悲しかった。
朝美の真っ直ぐな瞳から逃げるように私はそっぽを向く。頬が堤防のコンクリートに擦れて、砂粒が刺さって痛い。すぐ目の前、弧を描いた堤防は遠く山の向こうに隠れて見えなくなっていた。
「だったら、何で?」
「…………」
振り返ることも、答えることもしなかった。私が答えないでいると朝美はもう一度、小さく私の名前を呼ぶ。朝美の声は、少し震えているような気がした。
「朝美には、私の気持ちなんて分かんないんだ」
そう吐き捨てると、朝美が息を呑むみたいな音が聞こえた。そのまま二人とも押し黙る。
私が気まずさを感じ始めたころ、後ろから、搾り出すような朝美の声が聞こえてきた。
「紗奈ちゃんだって……紗奈ちゃんだって、私の気持ち、分かんないくせに!」
その声は大きく震えていて、私は慌てて振り返る。
「……朝美?」
朝美はもう涙を隠そうとはしなかった。大きく見開かれた目に、いっぱいに涙を貯めたまま私を見下ろす。
「一番の親友が、落ちこぼれだって、劣等生だって、周りの友達に言われていて、平気な訳、ない。付き合いをやめろって、お母さんや、先生に言われて私がどんな気持ちか。違うよって、今はちょっと色々悩んでるだけなんだって、そう言いたくて、でも、言えなくて。その時の、私の気持ちが、紗奈ちゃんに分かるの!?」
朝美は時折声を詰まらせて、大きくしゃくりあげた。そのたびに朝美の目から涙がこぼれて、私の頬に落ちる。
私はただ呆然と、落下してくる水滴を見つめていた。
「私がどれだけ紗奈ちゃんのこと心配してるか、紗奈ちゃんは知らないでしょ。このままだと、春になったら、私は居なくなっちゃうんだよ? 今のままじゃ、紗奈ちゃんは一人ぼっちになっちゃうんだよ? 紗奈ちゃんは、すぐ調子に乗っちゃうし、はしゃぎすぎるし……でも一人でちゃんとやっていけるのかって、そう思ったら不安で、心配で! そんな全部全部、紗奈ちゃんは、知らないくせにっ!」
朝美はそこまで一気にまくし立てると、とうとう堪え切れなくなったのか、私の体の上に倒れこんできた。そのまま殆ど抱きつくように、胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らしはじめた。
私はどうすることも出来ないまま、朝美の重みを感じていた。くぐもったすすり泣きの声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
ハンマーで殴られたみたいに頭が痺れていた。ボーっとして何も考えられないのに、何故だか目の奥が熱い。頭の中にあるのは、ただ驚きだけだった。
ショックだった。朝美の気持ちにも、それに気づかなかった自分自身にも。
朝美は私のことを親友だと言ってくれた。私だってそうだと思っていた。それなのに私は、自分のことばかりで、朝美のことなんてまるで考えもしていなかった。
朝美は私のことを心配して悩んでいたのに、私は距離を置かれたって勝手に勘違いして、子供みたいに反発していただけなんだろうか。髪も制服も濡れた頬もひんやりと冷たい。それなのにお腹の上だけがじんわりと重くて、温かかった。
気がつくと朝美は泣きつかれて寝てしまったみたいで、泣き声が聞こえなくなったかわりに穏やかな寝息が聞こえてきていた。
言うだけ言って寝逃げかよ! と思ったけれど、今の私は朝美にどう接すれば良いか分からなかったので、逆にホッとする気持ちもあった。
起こさないようにそっと朝美の髪を撫でた。海水に濡れた髪はキシキシと指に引っかかってくる。
私は今までずっと、私が朝美の世話を焼いているんだって、私が居なきゃ朝美はダメなんだって、そう思っていた。
けれど今は、もしかしたら世話を焼かれていたのは私のほうだったのかもしれないって思い始めている。朝美はもうとっくに大人で、知らないうちにそんな朝美に助けられていた私は、あまりにも子供のままだったんだって。
それはなんだかちょっとだけ優しくて、でもやっぱり、それ以上に居心地が悪い。
同じようなことがぐるぐると頭の中を回って、全然考えがまとまらない。
こんな時に限って、視界いっぱいに広がる空はいつの間にか雲ひとつ無く真っ青で。そのせいか、さっきまでよりも、もっともっと遠くなったみたいに感じた。
そうして朝美が目を覚ますまで、私はずっと空をぼんやり眺め続けていた。
感想や評価ありがとうございます!
見切り発車ですけど頑張りますw




