あの海まで
嫌がっている朝美を無理矢理荷台に座らせて、私は自転車を漕ぎ出した。どんなに抵抗したって、最終的には私について来ることになるんだから早く諦めれば良いのに、自転車が動き出してからも朝美は飽きもせずに、ずっと抗議を続けている。
そんなに嫌なら飛び降りれば良いし、問答無用で自転車を止める事だって出来るだろう。それでも、朝美は絶対にそんなことはしないって事は分かっていた。
「ちょっと静かにしててよ。先生に見つかっちゃうじゃん!」
少しきつめにそう言うと、朝美は慌てて口をつぐんだ。
学校を抜け出すまでは息を潜めながら、敷地の外に出たらそこからは全速力でペダルを回した。朝美は振り落とされそうになって、私の身体に回した手に力を込めた。
「痛いんだけどー」
と言ったら、
「だって、紗奈ちゃんが急に漕ぐから」
パッと手を離す。けれどすぐにバランスを崩して、おずおずと私の制服の端を掴んだ。
学校から離れるにつれて道路はどんどん狭くなっていく。そのかわり畑や田んぼが増えて見通しはずいぶん良くなった。
遠くを眺めていなければ気づかないほど微妙にカーブした道。私はペダルから足を離して、ゆっくりと、惰性のままで進んでいく。
道の先には視界いっぱいに大きな海が見える。この道の行き止まりが私たちの目的地。このまま進めば、あと五分もしないうちに海にたどり着くことが出来るだろう。
しばらくして、民家の影に学校の姿が隠れてしまうと、ようやく朝美は諦めたようだった。それまで黙ったままだった口を開いて、
「もう……知らないからね」
と恨めしげに呟いた。
「はいはい」
「こんな……、授業を抜け出すなんて……」
「すいませんねー」
「後で絶対先生に怒られるからね!」
「一緒に来てるから朝美も共犯者だけどね」
すぐむきになる様子が面白くて、私はついつい朝美をからかってしまう。
「紗奈ちゃんが連れてきたんでしょ!」
「先生にそんな言い訳が通じるかなー?」
「わ、私は優等生だから大丈夫よ!!」
朝美はそう叫んだ後、すぐに小さく「あっ……」と息を漏らす。それきりまた黙り込む。私は聞こえなかったフリをして、ただひたすらペダルを回す。
しばらくの静寂の後、朝美は消え入りそうなくらい小さな声で「ごめん」とだけ言って、また私の身体に腕をきつく回した。
謝るなよ、とは言えなかった。
本当は強く締め付けられたお腹が痛かったけれど、それも言わなかった。
「その優等生も、今日で廃業ってことだねー」
精一杯茶化してみても、朝美はクスリともしなかった。
そうして海に着くまでの間、私達はどちらも口を開かないまま、ひたすら自転車を漕ぎ続けた。
防波堤の隅に自転車を停めると、自転車を降りて防波堤に登る。朝美は私の後ろを、ちょっと遅れてついてきていた。
防波堤の上から眺めた海は、時期はずれなことや平日ということもあって、やっぱり誰も居なかった。もっとも、この町は観光地でもないので真夏にだって地元の人間くらいしか居ないのだけれど。
海面には、教室から見ていたときは分からなかったけれど、クラゲがぷかぷかと浮いていた。
「あちゃー。こりゃ泳ぐのは無理そうだなぁ」
私がそう呟くと、朝美は驚いたように私の方を見た。
「えっ?! 泳ぐつもりだったの?」
「まぁ……一応は」
「はぁ……」
朝美が大げさに肩を落として、呆れたような目を私に向ける。
「い、良いでしょ別に! 教室から見たら気持ちよさそうだったんだから! ほら、早く靴と靴下脱ぐっ!!」
誤魔化すように、自分も靴下とブレザーを脱ぎながら朝美を急かした。私は、片足立ちになってノロノロと靴下を脱ぐ朝美を見ながら、今押したらコケるかなー? とかそんな事を考えていた。
朝美が裸足になるのを待って、
「脱ぎ終わったね。よし、行くよ!」
朝美の手を引いた。朝美はやっぱり嫌がって抵抗する。
「ちょ、ちょっと紗奈ちゃん!」
「ん?」
「まさか、海入るの?」
「せっかく来たんだから、足だけでも入っとかないとでしょ?」
「風邪引いちゃうよ」
「ちょっとだけなら大丈夫だよ」
「く、クラゲもいるし……」
「……そんなに嫌ならもう良いよ!」
拗ねたようにそう言って、掴んでいた朝美の手を乱暴に離す。こう言えば、朝美は絶対ついてくることは分かっていた。
私はスカートのウェストを折り曲げてたくし上げながら、わざと振り返らずに歩いていく。もうすぐ波打ち際というところまで来た時、後ろのほうからはサクッサクッと砂を踏む足音が聞こえた。
私はそのまま、躊躇することなく海に入る。海水は予想していたよりもずっと冷たくて、思わず声が出そうになったけれど我慢した。
足の冷たさに慣れて後ろを振り返ると、朝美は波打ち際に立ち止まったままだった。行ったり来たりする波をじっと見ていた朝美は、私の視線に気づくと顔を上げた。目が合うとまたすぐに俯く。
「何してんの? 早くおいでよー」
私の呼びかけにも朝美はなにも答えないままで、ノロノロとこちらに向かって歩き出した。私のすぐ前まであと三歩くらいの所まで来て足を止める。
「なんで元気無くなってんのよ」
「…………」
「元気だしなよー。足冷たくて気持ち良くない?」
「…………」
「無視すんなよっ!!」
「あのね、紗奈ちゃ──ひゃっ!」
私が足元の海水を掬ってかけると、ちょうど何かを言いかけてこちらを向いた朝美の顔に思い切り直撃した。朝美は何が起こったのかわかっていないみたいに、呆然と私の顔を見つめる。
その顔が可笑しくて、私は思わず吹き出してしまった。
私の笑い声に我に返った朝美の目に、一瞬にして怒りの色が浮かんだ。
「なっ、なに、するのよっ!!」
「あっははは」
「何笑ってるのよ! もう怒ったからね!! 今すぐそこに直りなさい!!」
「ふっ、おことわりしま──うわっ!」
朝美が身を屈めて水を両手で掬うのが見えた。私は全速力で逃げ出そうとして後ろを向いたところで、タイミング良くきた波に足をとられて思いっきり正面から転んでしまった。
勢いよく水面に突っ込んだので、大きな水しぶきが上がる。屈んでいた朝美は、もろに水を被って悲鳴をあげた。
私は慌てて立ち上がって、口の中にまで入ってきた海水と砂利を吐き出す。子犬みたいに首をブルブルと振って、髪と顔についた水を払っていると、同じように手で顔を拭っている朝美と目が合った。
「…………」
「…………」
「……ぷっ」
「あっはっははははは」
二人同時に、顔を見合わせて大笑い。笑いすぎておなかが痛くなって、私はもうどうでも良いやと思ってその場にしゃがみ込んだ。
朝美も私の真似をしてしゃがんだら、ちょうど寄せてきた波に押されてそのままコテンと横倒しになった。そんな間抜けな姿が面白くて、二人してまたバカみたいに笑う。
「上着までびしょ濡れなんだけど」
「もう……誰のせいだと思ってるのよー」
朝美が非難めいた口調で言った。唇は尖らせているけれど、目はもう全然怒っていない。
「はぁ、なんかもう気が抜けた。さっきまで色々考えてたこと、どうでも良くなっちゃったじゃない」
朝美はため息をつきながら、それでも、その顔には見慣れた優しい微笑みが浮かんでいた。
そんな朝美の顔を見ていたら、私は急に懐かしい気持ちになった。そんな風に思ったことが妙に気恥ずかしくて、私は朝美の目線から逃れるように立ち上がってゆっくり朝美の方に歩いていく。
「朝美さぁ」
「……なに?」
「ようやく笑ったね」
「…………ばーか」
照れたようにそう言って、朝美が私の顔にまた水を掛ける。
なんだか私は、随分久しぶりに朝美と話をしたような気がしたんだ。
結局その後はもう開き直ってしまって、水を掛け合ったり、制服のまま泳いだりして、すっかり日が暮れるまで二人で遊んだ。




