目指す場所も無いままで
教室の外はシンと静まり返っていて、さっきまで居た教室よりも一層静かな気がした。目を閉じて耳をすませてみれば、グラウンドからはワーワーと楽しそうな声が聞こえているし、隣の教室からは授業をする先生の声がしているから、実際には教室の中よりもよっぽどうるさいはずなのに、そんな風に感じてしまうのはどうしてだろう。
リノリウムの廊下はちょっとだけ冷たい感じがする。人が居ないせいもあって、実際に教室よりも気温が低いのかもしれない。私は開けていたブレザーのボタンを留めた。
頭の中が急に冷えていく。冷静になって、すぐに自己嫌悪。勢いで飛び出してきたのはいいけれど、行くあてなんてどこにも無かった。
携帯か読みかけのままの雑誌でもあれば時間を潰せただろうけど、どっちもカバンと一緒に教室に置きっぱなしだ。取りに戻るのもなんだか決まりが悪い。何か無いかと思ってポケットを探ってみると、キャンディが三つ出てきた。
「なんでやねん……」
似合わない関西弁でつぶやいてみる。ツッコミ待ちの言葉は、けれど誰にも拾われること無く廊下の向こうに消えていった。
……うん。腹が減っては戦は出来ぬって言うしね。とりあえずこれで飢え死にすることは無くなった。もし遭難しても大丈夫! けれど、戦も無いならこれでどうやって暇を潰せというのか。私はため息をつく。
もういいや、とにかく何処かに行こう。なんだったらこのまま家に帰っちゃおうか。親は二人とも仕事に行ってるからこの時間なら家には誰も居ないし、カバンは明日まで置いておけば良いし。そう考えて、私は三つあるうちの飴玉を一つ、口の中に放り込んで歩き出した。
無人の廊下を先生に見つからないように、足音を立てないように注意しながら、ゆっくりと進んでいく。
気配を殺して抜き足差し足のその姿は、まるでこの前見たスパイ映画に出てくるヒロインみたいじゃない? 妙なハイテンションで無意味に壁に張り付いて曲がり角の先を伺う。もちろんそこには誰も居るはずなんて無くて、すぐにバカらしくなってやめた。
こうやって、すぐに調子に乗っちゃうのが私のダメなところだって、ずいぶん昔に朝美が言ってたっけ。
カラカラカラ……。
口の中のキャンディが歯に当たって澄んだ音をたてている。足音には気を使うくせに、こういうところには無頓着。詰めが甘いのも私の悪い癖。
それに気がついて、口の中で転がる飴玉が歯に当たらないように、奥の方に追いやった。……別にもう、見つかったって構わないんだけどさ。
教室を四つと曲がり角を一つ越えるとようやく階段。そこまでたどり着いて、私は立ち止まる。上るか下るかの分かれ道。
ちょっとだけ考えてすぐに、私には、このまま本当に帰っちゃう気なんて全然無いんだということに気がついた。
そうだ、屋上に行こう! 屋上は、生徒の立ち入りは禁止されているけれど、そんなのは構わない。
たまに昼休みに使っている人もいるくらいだから鍵はかかっていない。階段の途中に張られた立ち入り禁止のロープを越えれば、誰だって簡単に屋上に出ることが出来る。
屋上に寝転がってお昼寝でもしたら、きっと気持ち良いに決まっている。そんな名案に、私は自分で自分に頷く。
そうして私が階段に足をかけた、そのときだった。
「コラッ! どこに行くんだ!!」
「っ!!」
後ろから急に声が聞こえて、私は息が止まるかと思うくらい驚いた。というか、あまりにビックリしたせいで口の中の飴玉を思わず飲み込んでしまって、それが喉につっかえて、本当に息が止まった。
私が苦しそうに悶えていると、声の主が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
私は顔を上げる。そこに居たのは、やっぱりというか何というか、朝美だった。
「……あんたねぇ」
ようやくキャンディを飲み込むと、私はやっとの思いでそれだけを言った。
「ごめんね。そんなに驚くと思わなかったから」
私は相手が朝美と分かった途端に強気になって、驚いた顔を見られた気恥ずかしさを誤魔化すために、ちょっとだけ語気を強める。
「いきなり後ろで叫ばれたらビックリするに決まってんでしょ!」
「先生の真似。似てた?」
「……全然」
出来るだけ不機嫌に聞こえるように気をつけたのだけれど、朝美はそんな反応はとっくに予想していたのか、平然としている。
「教室から出て行くのが見えたから追いかけてきたの。紗奈ちゃん、どこ行こうとしてたの?」
「あー、……トイレ行こうとしてたんだけど」
「嘘。ならなんで階段にいるの?」
「一階のトイレ行こうと思って」
「階段上ろうとしてなかった?」
「……気のせいじゃない?」
「はぁ……じゃあ私もついて行くからね」
朝美は諦めて、ため息をつきながら私の制服の袖を軽く掴んだ。こうなってしまったら、朝美はもう意地でも手を離さない。
もちろんトイレに行く気なんて無かったので私は困ってしまう。
「制服、しわになるんだけどー」
もちろん言葉でいくら言ったって、朝美は私の腕を離してくれない。無理矢理引き離すことも出来たけれど、私はそうしなかった。私は鬱陶しそうにしていたけれど、本当は気づいてくれたことが少しだけ嬉しかった。そんな気持ちを知られたくなくて、誤魔化そうとすればするほど余計に不機嫌そうになってしまう。
朝美は抗議の言葉を無視したまま、ジッと私の目を見つめてくる。その目が、早く教室に戻ろうよ。と言っているのが分かって、思わず目を逸らした。
取り繕うように、私は慌てて話題を変える。
「朝美、チャリ通だよね」
「えっ、……うん、そうだけど」
朝美が戸惑ったように曖昧に頷く。
「鍵、今持ってる?」
「持ってるよ。ほらっ」
朝美は私の制服を掴んでいるのとは逆の手でポケットをゴソゴソと漁って、やたらメルヘンな黒猫のストラップが付いた小さな鍵を取り出すと、誇らしげに私の目の前に掲げた。ただ鍵を取り出しただけで、どうしてそんなに得意げなんだろう。
「隙ありっ!」
隙をみてその鍵を素早く奪い取ると、朝美が「あっ!」と短い悲鳴を上げた。
絶対に教室になんて戻るもんか!
朝美が私の手を離さないなら、一緒に連れて行くまでだ!
「ちょっと、返してよ!」
眉を八の字にしながら抗議する声を、私は無視する。
「よし、行くよ。朝美!」
「……え?」
「ほらほら、何してんの。早くしないと置いてくよ!」
「行くって、どこに?」
「内緒っ!」
というか何にも考えなんて無いし。
呆けたようにしている朝美の手を逆に引いて、私たちはズンズンと階段を下りていく。朝美は抵抗することも忘れて、黙って私の後ろを付いてきている。
「んー……どこに行こうかなぁ……」
そう呟きながら、私はついさっきまで教室の窓から見ていた風景を思い出していた。
気持ちよさそうな空だった。けれど、どんなに頑張っても空に行くことは出来そうに無い。
それなら……。
「よし、海に行こう!」
私は後ろにいる朝美に向かって、満面の笑顔を向けた。
単なる思い付きだったのだけれど、実際に口に出してみると、それは実に名案だという気がした。