コンクリートのお城の中
私は小学校低学年のころ、山で遭難しかけたことがある。
私が住む田舎町には近所に大きな山があって、地元の子供達の格好の遊び場になっていた。あの時私は、確か一人で虫取りをしていて迷ってしまったんだったと思う。
夢中で遊んでいるうちに辺りは全然知らない景色になっていた。ついさっきまで夕焼けだったのに、気がついたら真っ暗闇で、自分がどっちから来たのかも分からなくなっていた。
とにかく山から出なくちゃと思ってひたすらに歩き回っているうちに、地面から出っ張った木の根っこに足を引っ掛けて転んでしまった。すりむいた膝はずきずき痛いし、暗闇が不安だし、歩き続けても一向に見知った景色は現れないしで、そのうち私は歩き続けることを諦めて、その場にへたり込んで泣き出してしまった。
結局しばらくして、私は捜索にきた大人に救助された。
私を見つけた大人の人は安堵の表情で、ここに留まっていてくれて良かったと言った。私が歩こうとしていた方角は町とは逆方向で、このまま進んでいくと谷になっているからひょっとすると見つけられなかったかも知れないと。
暗闇の中、方角も分からないままで無闇に歩き回ってはいけない。
何かをする時は、ちゃんと事前に計画を立てて、方向を決めてから歩き出さなくちゃいけない。そんなことを教訓として、私は学んだ。
それでも現実には、先なんてまるで見えなくたって、進み続けなければいけないことのほうが、ずっとずっと多い。
チャイムの音が聞こえたような気がして、机に伏せていた顔を上げた。
黒板の上に掛けられた時計を確認してみたけれど、二本の針は授業の終了までにはまだ時間があることを知らせていた。
一瞬でも期待した分がっかりも大きかった。ため息をつきながら、なんとは無しに窓の外へと視線を向ける。
窓の外は、それはもう、抜けるような快晴だった。雲ひとつ無い青空と、その下にはグラウンド。大勢の生徒が大きな歓声を上げながら元気に走り回っているのが、かすかに聞こえてくる。地面からちょっとだけ目線を上げてみれば、遠くには空と同じくらい真っ青な海。
さっきからずっと、窓際の私の席にはガラス越しに午後の柔らかな日差しが降り注いでいる。全身がほんのり暖かい。窓側になっている体の左半分なんて、ちょっと暑いくらいだ。
ほどよい満腹感と暖かさから来る眠気のせいで、さっきから欠伸が止まらない。
こんなに気持ちの良い天気だというのに、コンクリートの檻に閉じ込められなければならないなんて、この世にこれ以上の不幸は無いかもしれない。
私は目の端に浮かんだ涙を軽く拭いながら、ノートに向かおうとして、やっぱりすぐに諦めた。
手持ち無沙汰になって教室を見回してみる。部屋の中には窓の外とは反対に、重苦しい空気が満ちていた。
せっかくの自習時間だというのに教室は静まり返っていて、楽しくお喋りをする人なんて一人も居ない。カリカリとペンを走らせる音と紙をめくる音だけが、教室全体に静かに充満していた。
誰もが一心に参考書やノートとにらめっこをしているみたい。ノートは笑わないから人間には勝ち目が
ない。けれど、教科書を読んで笑う人も居ないだろうから、結局この勝負は永遠に引き分けだ。
なんてバカなことを考えながら、私はまた机にうつぶせになる。
ついこの間まではこんなことは無かった。
私はクラスのムードメーカーで人気者で、バカなことをやっては皆で大笑いするのが楽しかった。
クラスメイトは皆仲が良くて笑いが絶えない。かといってバカ騒ぎばかりしているわけでもなくて、この間の文化祭では一致団結して、無事クラス展示を成功させた。夏休みも返上で準備をして、そのおかげで学年賞だって貰ったんだ。
とにかく楽しいクラスで、私はこのクラスが大好きだった。
それなのに、そうだ。
文化祭が終わった途端に、すっかり周りは受験モードで、いつのまにかお互い敵同士みたいな顔をしあっている。多分文化祭の日を境に、私の住む世界のルールがすっかり変わってしまったんだ。騒がしくて楽しい幸せな世界から、静かで苦しい競争の世界に。友達は、ライバルに。
ライバル達はすぐに新しいルールに順応した。人間の集団は、まるで水みたいに形がない。だからコップが変われば、簡単に新しい器に収まる。
けれどその急激な変化についていけない人もいた。変化にただ戸惑うばかりで、知らない間に取り残されてしまったみたいで、そう思ったら全然勉強なんて手につかなくなってしまって、あっという間に落ちこぼれの出来上がり。それが、私。すっかりクラス全体から浮いてしまっている私は、さしずめ油みたいなものかもしれない。
先生にはいい加減大人になれと言われた。このままじゃ高校生になれるかも分からないぞ! と脅されもした。
家ではお母さんにいつもお小言ばかり貰っている。お母さんは怒っているみたいな泣いているみたいな変な表情で、良い高校に行かなくちゃ将来にも響くのよ。と言っていた。
それでも私はどれだけお説教されたって、大人になるってのがどういうことなのかって、良く分からないんだ。多分、私は周りと比べたら、まだまだ子供のままなんだろう。
背は前から数えた方が早いくらいだし、胸のサイズはとても残念。まともに恋だってしたこともないし、もちろん将来の夢なんて決まっていない。
私は不安で立ち止まってしまう。気がついたら後戻りができなくなりそうで、なにかを決断をするのが怖いんだ。
どうして皆は、何も分からないままで歩き出せるんだろう。普通の人は、そんなことなんてとっくに割り切ってしまえるんだろうか。それとも、そうやって不安を抱えながらも進むのが、大人になるってことなのだろうか。
何度時計を確認してみても、休み時間まではまだ三十分近くあった。さっきから針はほとんど動いていない。私が勉強をサボっているのと同じように、あの時計も進むのをサボっているんじゃないかと思うくらいだった。いつもは大嫌いなチャイムの音だけど、今だけは少しだけ恋しくなる。
『時間が流れる』なんて言葉をよく聞くけれど、私にとっての時間はどちらかというと『刻む』のほうがしっくりくる。特に学校にいる間は。
それはまるで未来へのカウントダウンのように、毎日決まったリズムで鳴り続ける。チャイムの音が一つ鳴るたびに、私に残された時間がどんどん切り取られていくみたい。そうして私はいつか、何も分からないままに強制的に大人にされてしまうんだろう。そんな気がして、だから私はチャイムの音が嫌いだ。
嫌な考えを頭から追い出そうとして、私は大きなため息をつく。わざとらしく周りに聞こえるようにしたのに、誰も私のことなんて見向きもしない。
カリカリカリカリ……。
変わらずに聞こえてくるペンの音。なんだか、まるで透明人間にでもなったみたいだった。私は頬杖をついて、ぼんやりと教室を眺める。目蓋は開いていても、焦点が合わないせいで視界がぼやける。誰からも見られないなら、私にだって誰を見る必要もないだろう。
そんな風にしていると、ふと視線を感じて、私はそちらに焦点を合わせる。
私のため息が聞こえたのか、最前列の席に座っていた朝美がいつの間にか私の方を振り返っていた。朝美は一瞬だけ目が合うと、ばつが悪そうに机へ向き直って、またすぐに参考書へと視線を落とす。今度は何も意識しなくても自然とため息が漏れた。
ただ一人だけ、透明人間に気づいた人がいた。
朝美は私の幼馴染だ。幼稚園からの付き合いだからもう十年以上になる。
家が近所で親同士も友達だったので、昔から一緒にいることが多かった。
私はどちらかと言えば快活な性格で、日が暮れるまで外で走り回っているような子供だったのだけれど、朝美は反対に、部屋で絵本を読んでいるのを好むようなおとなしい性格だった。だから自然と私は、いつも朝美を引っ張りまわして遊んでいた。
私が外遊びに誘うと、朝美はパッと嬉しそうな顔をして、そのくせ最初は嫌がって断ろうとするのだった。
「じゃあ良いよ!」と私が諦めて一人で外に行こうとすると、ちょっとだけ涙目になりながら「待ってよぅ」とトコトコと私の後ろをついてくる。
そんな朝美に「しょうがないなぁ、朝美は」と、どっかのネコ型ロボットみたいなことを言いながら、同い年のくせにお姉さん風を吹かせていた。
親友、だと私は思っている。けれど、実際のところ朝美がどう思っているかなんて分からない。無理矢理連れまわす私の事を、内心では迷惑に思っているのかもしれない。
そんな風に考えてしまうのは、近頃私と朝美の関係が、なんだかギクシャクしているように感じているからだ。昔は私にベッタリだったくせに、最近じゃすっかり疎遠になってしまっている。落ちこぼれの私と違って、朝美は優等生だから仕方ないことなのだけれど、今だってちょっと目が合っただけで慌てて目を逸らされているくらいだし。
ここのところの憂鬱の原因の一つがこれだ。雛鳥みたいに私について回っていた朝美が、段々と私から離れていっちゃう。「朝美のくせに生意気だぞ!」なんてどっかのガキ大将みたいなことを思った。
カリカリカリカリ……。
朝美は参考書の英文を一生懸命ノートに書き写しているみたいだった。もう今だって前から数えるくらい成績が良いんだから、そんなに必死にならなくてもいいのにと思う。私はそんな朝美の姿を見なくてすむように、また窓の外へと顔を向けた。
頬杖をつきながらぼんやりとしていると、遠くの方から飛んできた飛行機が、ものすごい音を立てながら視界を横切っていった。思わずその姿を目で追っていた。
誰にも邪魔されずに真っ直ぐ自由で、そんな姿が羨ましかった。孤独だっていうところだけは私と似ているかもしれないけれど。
空と海との境界線を引くように、二本の平行線が真っ直ぐに伸びていく。けれどその白線は、すぐにでも消えてしまいそうだった。
飛行機雲がすぐに消えるのは雨の前触れだったっけ? それとも逆だったかな。そんなことを考えている間に、ぼやけた白線は青色の中に溶けて消えてしまった。
飛行機雲が完全に消えてなくなったのと同時に、いてもたってもいられなくなって私は席を立った。椅子を引く音が思ったより大きくして、隣の席の男子が怪訝な目を向けてくる。
今まで透明人間だったくせに、こんな時だけはこっちに気づかないで欲しい。
私はその視線を無視して、そのまま教室から外に出た。
初投稿です。続きます。