第6話 武術
曇天続きだった空が、久しぶりに晴れていた。
低く垂れ込めていた雲は影を潜め、淡い青が遠くまで広がっている。
雲の切れ間から差し込む陽光は柔らかく、頬に触れるだけでわずかな温度を伝えてきた。冷え切った空気の中に、かすかな春の気配を錯覚するほどだ。
――こんな日は、外でゆっくり過ごしたい。
そう思ってしまうのは、自然なことだろう。
だが、現実はそう甘くない。
今日も、戦闘訓練だ。
斗黎はマウンテンバイクに跨り、ゆっくりとペダルを踏み込む。
乾いたチェーンの音が一定のリズムを刻み、住宅街を抜け、会社へと続く道を進んでいく。
九篠警備保障株式会社に入社して、もうすぐ一週間。
たったそれだけの時間のはずなのに、頭と身体に刻まれたものはあまりにも多い。
護身術。
逮捕術。
座学。
実戦を想定した反復。
時間の流れそのものが、世間一般の高校生とは別物のようだった。
****
「矢車。今日からは、護身術と逮捕術だけじゃない」
訓練場に足を踏み入れた途端、兼高はそう切り出した。
いつもの落ち着いた声だが、どこか含みがある。
「先に教えた二つも引き続き磨くが、それとは別に――武術を学んでもらう」
「武術……?」
斗黎は思わず聞き返した。
言葉の重さが、想像よりもずっと大きかったからだ。
「兼高さんって、護身術と逮捕術以外にも何かできるんですか?」
ふと湧いた、素朴な疑問。
だが、返ってきた答えは想像の斜め上だった。
「剣道、柔道、修斗、ジークンドー、カリ、クラヴ・マガ、サンボ、ブラジリアン柔術。それと狙撃だな。この中のいくつかは師範資格もある」
……多い。
武術マニアじゃねぇか、という言葉が喉元までせり上がり、斗黎は慌てて飲み込んだ。
「お前には、武器と相性のいいカリとサンボを覚えてもらう」
「は、はぁ……」
名前を聞いただけでは、正直ピンとこない。
蓮華はボクシング、想と櫻子は銃主体。
櫻子は、確か近接戦闘が苦手だと言っていたはずで――
……ん?
「そういえば、想も近接戦闘が得意なんですよね?」
「想か。あいつは何でも我流に変えてしまうからな」
兼高は肩をすくめる。
「喧嘩じみた戦い方だが、教えたことはちゃんと吸収して、自分のものに昇華している」
型に縛られないスタイル。
それを聞いて、斗黎は素直に「かっこいいな」と思った。
「よし、じゃあ始めるか」
「はい!」
****
警棒に似た長さの木棒を手に、斗黎は兼高と向かい合った。
――カン。
乾いた音が、訓練場に響く。
木棒同士が触れ合い、軽い衝撃が手のひらへ伝わってくる。
硬質ではない。
遅れて返ってくる、しなりのある振動。
「遠慮はいらん」
兼高は二本。斗黎は一本。
数だけ見れば圧倒的な差だが、斗黎の視線は不思議なほど落ち着いていた。
先に仕掛けたのは兼高。
右から鋭く――だが、振り切らない。
斗黎は棒を合わせ、受け流す。
木棒がしなり、力が逃げる。
だが、間はない。
左、右。
連打。
打つというより、刻む。
「止めるな。流れろ」
声と同時に、棒先が肩線をなぞる。
斗黎は一歩踏み込み、棒を縦に返した。
受け流しから、手首への打ち返し。
――カン。
軽い音。
だが、当たりは浅い。
兼高は半身でかわし、間合いを外す。
木棒が、互いの間を縫うように走った。
斗黎は持ち替える。短く。
軽さを利用し、振りではなく突きへ。
一瞬、兼高の左が止まった。
――だが、すぐに繋がる。
絡め取るように棒を重ね、跳ね上げる。
木棒が弾かれ、斗黎の手が浮いた。
「軽い棒ほど、誤魔化しが利かん」
肩。前腕。腿。
触れるだけの距離で、三度。
「今のは、全部もらってる」
斗黎は下がらない。
棒を下げず、視線を兼高に固定する。
「……でも」
間合いが、張り詰める。
「流れは、切れました」
兼高は一瞬、動きを止めた。
「……確かに」
「次は、もう少し速く来い」
斗黎は木棒を握り直した。
****
兼高は息を整える素振りすら見せなかった。
ただ、両手の木棒をわずかに下げる。
それだけで、空気が変わる。
「――来るぞ」
次の瞬間。
右、左。
否――同時。
二本の棒が、線ではなく“面”として迫る。
視界いっぱいに、攻撃の気配が広がった。
受ける。流す。弾く。
判断よりも先に、身体が動いていた。
カン、カン、カン。
乾いた音が連続する。
衝撃は確かに逃げているはずなのに、腕が重い。
じわじわと、削られていく感覚。
兼高は止まらない。
一打ごとに、半歩ずつ距離を詰めてくる。
打ちながら、距離を殺す。
完全な攻め。
「……っ!」
斗黎は踏み込んだ。
流れを切るために。
棒を縦に返し、中心へ――
だが、それは誘いだった。
右で外し、左で打つ。
打点は、棒ではない。
手首。
衝撃。
木棒が跳ね、握りが緩む。
続けて、肩。腿。肋。
すべて、当てない距離。
だが、逃げ場はなかった。
斗黎は歯を食いしばり、棒を短く持ち替える。
近い。
ここまで来れば、二本は邪魔になる――
――踏み込む。
突き。
一瞬、兼高の動きが止まった。
その刹那。
両手の棒が交差する。
絡め取られ、下へ落とされる。
木棒が床に転がる音。
同時に、喉元へ――
止まった棒先。
完全な静止。
「……終了だ」
兼高は棒を引いた。
「よく持った。本気なら、最初の五秒で終わってる」
斗黎は荒い息のまま、床に転がる木棒を見下ろした。
「……速すぎます」
「違う」
正面から、視線がぶつかる。
「繋がってる。一打ごとに、次が決まっている」
斗黎は、ゆっくりと頷いた。
「でも……」
木棒を拾い、握り直す。
「繋がりは、切れる」
兼高の口角が、わずかに上がった。
「その通りだ。休憩。次は“切り方”を教える」
気づけば、訓練開始から五時間が経っていた。
****
再び、間合いに立つ。
今度は言葉がない。
合図もない。
――来る。
斗黎は、そう確信していた。
右。左。連打。
さっきよりも、明らかに速い。
カン、カン、カン。
木棒が触れ合う音が重なり、訓練場に反響する。
流す。外す。合わせる。
腕が熱を帯び、感覚が少しずつ鈍っていく。
――このままじゃ、また飲まれる。
斗黎は、打ち返さなかった。
一拍、遅らせる。
わざと、半テンポずらす。
兼高の右が来る。
来るはずだった左が――空を切った。
その瞬間、音が途切れる。
斗黎は踏み込んだ。
大きくではない。
半歩だけ。
距離が変わる。
二本の木棒が、同時に機能しなくなる位置。
斗黎は振らない。
押し出す。
相手の右の木棒を、自分の体の外へ。
中心線を奪う。
――止まった。
一瞬。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
斗黎の木棒は、兼高の喉元を捉えていた。
触れてはいない。
だが、そこにある。
静寂。
兼高は動かなかった。
数秒後、ゆっくりと棒を下ろす。
「……今のだ」
低い声。
「今、切った」
斗黎は息を吐いた。
気づけば、胸が大きく上下している。
「打ってません」
「打つ必要はない」
兼高は斗黎の立ち位置を指で示す。
「距離。テンポ。中心線」
まっすぐな視線。
「三つ同時に崩した。だから、流れが死んだ」
斗黎は木棒を握り直す。
「……もう一回、できますか」
兼高は、ほんの少しだけ笑った。
「いいだろう」
構え直す。
「次は――切った“後”を見せてみろ」
****
斗黎の木棒が、再び兼高の喉元を捉えた。
――切った。
確信が、胸を走る。
その瞬間だった。
「……甘い」
声が、近い。
木棒が動く。
下から、巻き上げるように。
絡め取られる。
力ではない。
角度と、タイミング。
――カンッ。
弾かれた。
斗黎の手首が浮く。
同時に、もう一本が来る。
喉ではない。
鎖骨の内側。
――そこで、動きが止まった。
触れない距離。
だが、完全に制圧されている。
斗黎は、動けなかった。
「切った後、考えたな」
兼高は棒を下ろさない。
「切れた瞬間、人は“勝った”と思う」
わずかに、間合いが詰まる。
「だから、止まる」
兼高は、ゆっくりと木棒を引いた。
「カリはな――」
一拍。
「切られた後から、もう一回始まる」
斗黎は奥歯を噛み締める。
「……じゃあ、どうすれば」
「切った“まま”動け」
床を指す。
「次の一歩を、もう決めておく」
鋭い視線。
「切るのは、目的じゃない。入口だ」
――沈黙。
「今日はここまでだ。また来週にしよう」
「はい……」
体力の限界だった。
****
着替えを終え、訓練場の休憩スペースで腰を下ろす。
全身が重い。
筋肉が、まだ微かに震えている。
そこへ、想がやってきた。
「よっ。やってるか?」
軽い調子で声をかけながら、炭酸飲料を差し出してくる。
「ありがとう……」
一口含むと、喉がひりつくように冷えた。
「きついな。でも……楽しいよ」
「だろ!」
想はニヤリと笑う。
「あ、そうそう。お前、異能力で自分の技とか作ったか?」
「いや……」
「作ったら、必ず名前を付けろ」
「名前……? なんで?」
マンガやアニメなら分かる。
だが、現実で必要なのか。
「事象変換はな、イメージが命だろ?」
想は指を立てる。
「技のイメージとリンクさせるために、名前を付ける。で、小さくてもいいから口に出す」
――なるほど。
言われてみれば、合理的だった。
「俺たち異能力者の戦いじゃ、それが一応、推奨されてる」
「そうなのか……」
「なぁ、この後暇か?」
正直、今すぐ帰って倒れたい。
だが――
「マックでも行かねぇ?」
腹も減っている。
明日はオフだ。
それに、仲間付き合いも大切だ。
「……あぁ、いいよ」
「よし。決まり!」
想は立ち上がる。
斗黎は重たい体に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がった。
――今日も、学ぶことだらけだ。
いや。今日も、自分が何者になれるかを、少しだけ知った日だった。
そんな感覚を胸に、斗黎は想と並んで訓練場を後にした。




