第2話 泣き虫で悪かったな
タウルス高原に風の音と牛の声が響き渡り、時間だけが静かにどんどん過ぎていった。
毛織物「バッファロー」は今やアルドリアン領の人々の外套になった。セレスティア本国でもヴァインバードと言えば大きな牛の毛皮に毛織物、そして動物園だ。女神様の「ヴァインバード家に特別の富をもたらす」という予言は、こうして現実となった。それもこれも、俺がタウルス高原で右手からバッファローを出せたからだ。
気がつけば、タウルス高原はすっかり豊かになっていた。あれから随分としっかりした防風林のおかげで村の中なら比較的安全に過ごせるようになったし、たくさんの人がバッファローに関わるようになった。
ますます往来は増えて、バッファローの毛皮や毛織物を買いに来る人の他に、バッファローそのものを見学に来たいという人も増えた。そして、風の強いタウルス高原そのものに興味を持ってくれる人も現れた。いつの間にか、タウルス高原は観光地として賑やかになっていた。
村が発展する一方で、俺たちはすっかり年をとってしまった。俺は村長の座をカーラに譲った。そして義理の息子のマイルが副村長になり、ルディもかつてのガレーさんがそうしたように、牧場の運営を息子に譲った。
そうして少し暇になった俺は、前世の知識で土産物屋を作るべきだと提案した。バッファロークッキー、バッファローケーキ。そしてバッファローコーヒー。俺の煎れたコーヒーはいつでも大人気だ。マリィの作ったクッキーに、俺の煎れるコーヒー。ああ、いい商売だ。
そうやって細々と土産物屋を営みながら、俺たちはかつてランドさんやミネルバがそうしたように、牛を見ながらのんびり過ごすことになった。大抵のことは村の若い奴がやってくれる。マリィはクッキーを焼いて、俺はコーヒーを煎れるだけだ。
そして俺がケイトやカイトにあれこれ思うことがあったように、ケイトも自分の子供に対して何だかんだと悩んでいるようだった。あの頃は俺も必死だったけれど、年を取ってみるとそれはそれでいい思い出だったな、と思う。
***
ある年の冬が終わった頃、マリィが寝床から起き上がってこなかった。俺が心配して見に行くと、立ち上がることができなくなっていた。
急いで医者に診てもらったが、もう起き上がることはできないだろうということだった。それからその日の覚悟もしておくように、と言われた。
「旦那様、お医者様はなんと仰っていたのですか?」
「直によくなるってさ」
俺は正直なことを言えなかった。その日がいつかわからないけれど、覚悟をしておいたほうがいいということだった。俺はカイトにすぐ帰ってこいと手紙を書いた。その時、俺は死んだ親父、オズワルド・ヴァインバードを思い出した。彼がすぐに覚悟を決めて俺に知らせを寄越したから、俺は母親の死に目に間に合った。カイトにも、その最期の親孝行をしてもらいたい。
その日から俺はできるだけ、マリィのそばにいることにした。
マリィの病状を聞いて俺以上に動揺したのが、ルディだった。ルディもマリィのことをよく心配してくれた。そして時間があればマリィのところに来て、俺と一緒に昔の話をした。マリィは嬉しそうだった。それが俺にとって、救いだった。
こんなときに、俺は自分の親父のことを考えていた。ああ、妻に先立たれるというのはこんなにも辛いことなんだな。そしてランドさんも、こんな気持ちを俺よりもずっと若い頃に経験していたんだ。しかもまだ大人になっていない子供たちを抱えて。ランドさんの気持ちもわかるし、今なら幼い子供を残していかなければならなかった奥さんの気持ちもわかる。
マリィの手が俺の方に伸びてきた。俺はすかさずマリィの手を握る。
「マリィ、幸せかい?」
「はい、旦那様に会えてとても幸せでした」
そう言うマリィの握り返す手には、ほとんど力が残っていなかった。マリィには医者から何も告げられなかったけれど、もう自分のことはわかっているのだと思う。マリィは精一杯笑っているように見えた。
俺の大好きなマリィ。おばあちゃんになっても、可愛いマリィ。初めて会った日からとても可愛かったマリィ。結婚式の日、とても美しかったマリィ。一生大切にするって誓ったマリベル・ヴァインバード。
神様、どうかお願いします。
もう少しだけ、妻をこの世にとどめてください。
俺は毎日祈った。朝起きる度にマリィが息をしているかを確認した。ケイトも複雑そうな顔で、俺と一緒にマリィの世話をした。マリィが少しでも楽になるよう、俺はなるべくマリィの身体をさすってやった。マリィの苦しそうな声を聞くたび、俺は心が痛んだ。そして、せめてカイトが間に合うよう祈った。
***
カイトが家族を連れて急いで帰ってきたのは、それからすぐだった。カイトが間に合ったことに俺たちは安堵した。マリィは立派になった息子の顔を見て、とても安心したようだった。
その翌々日、マリィは静かに息を引き取った。
風のない、穏やかな夜のことだった。
覚悟はしていたので、俺は葬式の最中は一切泣かなかった。マリィを棺に納めて、あの見晴らしのいい墓地に葬るときも、涙が一粒も出なかった。
多分、信じられなかったんだと思う。
もうこの世にマリィがいないということが、何とも嘘のようにしか感じられない。全ては夢の中の出来事で、朝起きたらマリィが元気にしているのではと思ってしまう。
「マリィ、今日のスープは?」
葬儀の翌朝、台所に声をかけてしまった俺をケイトとカイトが心配そうな顔で覗き込んでいた。
「……大丈夫だよ、ちょっと忘れていただけだよ」
そう、マリィがいないことを忘れていただけなんだ。マリィがもうこの家にいないなんて、そんなこと。
「父さん、大丈夫?」
「無理だけはしないでくれよ」
ああ、娘と息子に心配されてしまった。そう思ったら、何だか情けなくなってきて涙が溢れてきた。マリィがいたら「全く、本当に旦那様は泣き虫ですね」って言われてしまう。困ったな、葬儀の最中は泣かなかったんだから、許してくれよ。
泣き始めた俺に釣られて、ケイトとカイトも涙をこぼした。大切な人がいなくなるということは、本当に心の底が抜けてしまったような気持ちになる。しばらく何を食べても味がしなかったし、空の色も全て同じに見えた。マリィのいない世界って、こんなにもつまらないものだったんだな。
***
俺が抜け殻状態から少し抜け出した頃、今度はルディが倒れた。
なんだよ。俺を置いていくなよ。
俺の残りの人生、どうやって過ごせばいいんだよ。




