Chapter 39
麻紀と迎えた、最期の朝。
俺は、麻紀の右手の薬指から、お揃いの唐草模様の指輪を外した。
それを、自分の首に掛けてある、シルバーのネックレスのチェーンに通した。
「コンコン…」
ドアを軽く叩く音がした後、看護師達と麻紀の両親が病室に入って来た。
「麻紀…。ありがとう。守ってやれなくて、ごめんね…」
俺はそう言って、麻紀の頬に最期のキスをして、立ち上がった。
「静流君…。もう良いのか…?」
心配そうに、麻紀の父親が俺の顔を覗き込む。
「えぇ…。十分です…」
涙を堪えて、そう答えるのが精一杯だった。
俺の心の中には、笑顔の麻紀が映っていた。
「静流…。今まで、ありがとう。一緒にいれなくて…、約束守れなくて…、ごめんね…」
麻紀の声が、確かに耳に響いた。
振り向いて麻紀を見ても、麻紀は、もう動かない。
麻紀の声も、呼吸する音さえも、もう、聞く事が出来ない。
俺は、涙を堪えて病院を飛び出した。
外は、麻紀が悲しんでいるかのように、雨が降っていた。
俺は、涙をごまかす為に、雨に打たれながら、ただ、麻紀が旅立った空を見上げていた。
「麻紀…。ありがとう…。バイバイ…。俺もいつかは、そっちへ行くから…」
俺は、ずぶ濡れになりながら、一人静かに泣いた。
俺が、マンションへ帰った時には、既に昼を回っていた。
「おかえり…。どうしたの?びしょ濡れじゃない…」
姉が心配そうに、俺を見つめた。
姉の顔を見た途端、堪えていた悲しみが、一気に溢れ出す。
「姉ちゃん…。麻紀…、死んじゃった…」
俺は、姉の胸の中で、子供のように声をあげて泣いた。
「うわぁぁぁ…」
「そっか…。麻紀ちゃん…。駄目だったんだ…。ちゃんと、お別れしなきゃね…。明日、一緒に、麻紀ちゃんの所へ行こ?」
姉は、目に涙を溜めて、ずぶ濡れの俺を、優しく抱き締め、そして頭を撫でた。
「うん…」
その日、俺の目からは、枯れる事を知らない程、涙が流れ続けた。
麻紀との、最期のお別れの日。
その日は、前日の雨が嘘のように晴れ渡り、どこまでも青い夏空が広がっていた。
姉に付き添われ、俺は、麻紀に最期のお別れを言った。
「麻紀…。ごめんね…。俺、守ってやれなかった…。ごめんね…」
俺は、まるで眠っているかのような、純白の死装束に着替えた麻紀を見つめた。
今にも、目を覚まして起き上がりそうな麻紀は、とても、死んでいるとは思えなかった。
そんな麻紀を見ていると、余計に悲しみや悔しさが込み上げて来る。
「どうせなら、こんな純白の死装束じゃなくて、純白のドレスを着せてやりたかった…」
俺はそう呟いて、涙を我慢する為に、天井を見上げた。
俺の横で、麻紀の亡骸を見た姉は、声を押し殺し、うつむいたまま、すすり泣いていた。
「なんで、麻紀ちゃんが…?なんで、こんなに良い子が、こんな事にならなきゃいけないの…?おかしいわよ…。なんで…?神様は酷いよ…」
姉は、そう怒りを顕にした後、涙を流しながら麻紀を見つめ、最後に小さく呟いた。
「麻紀ちゃん…。静流の事、良くしてくれてありがとね…。麻紀ちゃんは、あたしの妹みたいで、可愛かった…。あたしも、麻紀ちゃんが大好きだよ?痛かったでしょ…?辛かったでしょ…?でも、もう大丈夫だからね…。今は、ゆっくり休んでね…」
姉は、麻紀の頭を優しく撫でながら、涙声でそう言って立ち上がり、指で涙を拭いながら、口にハンカチを当て、逃げるようにその場を離れた。
多分、姉は、残酷すぎる現実を受け入れたくなかったのだろう。
俺は、流れる涙を指で払い、麻紀の頬を優しく撫でた。
「麻紀…。今まで、ありがとう。幸せだったよ…。俺、麻紀に出会えてホントに良かった。ゆっくり休みなよ?おやすみ…。ずっと、愛してるよ…」
そう言って、麻紀の顔の横に、静かに花束を置いた。
麻紀の左手の薬指には、俺がプレゼントした、ダイヤの指輪が悲しく光っていた。
無情にも、時間は過ぎて行き、とうとう、麻紀と、永遠のお別れの時がやって来た。
麻紀の眠る柩の四隅に、釘が静かに打ち込まれる。
俺は、その様子をただ呆然と見つめていた。
「静流君…」
その様子を見守っている俺に、麻紀の父親が小さな金槌を手渡した。
「…うん。麻紀…。バイバイ…」
俺は、涙で滲む手元の釘を、ゆっくりと、優しく叩き、少しずつ、麻紀の眠る柩に打ち込んで行った。
麻紀の眠る柩が、静かに黒い車に乗せられる。
「麻紀…。嫌だっ!!行かないでくれ…。俺、一人になるの、嫌だ…。約束したじゃん…。ずっと一緒だって…」
俺は、麻紀の父親の制止を振り切るように、麻紀の乗せられた車に向かって、叫びながら追い掛けようとした。
その様子が、見ている者の悲しみを誘った。
「うわぁぁぁぁ…」
俺は声を上げ、その場に崩れるようにうずくまった。
姉が、優しく俺に手を差し出した。
「静流…?麻紀ちゃんの所へ行こう?麻紀ちゃん、きっと、静流を待ってるよ…?」
姉に手を引かれ、俺は泣きながら、送迎用のバスに乗った。
「静流君…。ごめんね…。ホントにごめんね…」
麻紀の母親が、俺と姉が座っている席の所へ来て泣いて謝った。
「お母さんは悪くないよ…。悪いのは、俺だから…。だから、謝らないで…。傍にいたのに、目の前にいたのに…、何も出来なかった…。俺は、麻紀を守ってやれなかった…。お母さん、俺の方こそ、ごめんなさい…」
俺は震える声で、麻紀の母親に謝った。
そのやり取りを姉は、ただ黙って見ていた。
「ホントにありがとね…、静流君…。静流君は、ホントに麻紀の事を大事にしてくれた…。ホントにありがとう…」
麻紀の母親は、泣きながら、俺の手を握り締めていた。
俺は、その場から目線を外すように、窓の外を見た。
青い空には、白い雲が浮かんでいた。
麻紀と過ごした、あの頃のように…。
「麻紀…。今まで、ホントにありがとう。俺、幸せだったよ。麻紀、よく頑張ったね。今は、ゆっくり休みなよ…。俺、麻紀の分も、一生懸命、頑張るから…。ちゃんと見ててくれよ…。いつかまた、俺達が会えるその日まで…」
俺は、胸元にある麻紀の形見の指輪を握り締め、静かに心の中で誓った。
俺の頬を、冷たい雫が伝う…。
バスは、全員が乗った事を確認して、葬儀場から出て行く。
バスの中で、俺は、自分に対する、自責の念でいっぱいになり、今にも押し潰されそうになった。
姉は、うつむいたままの俺を見て、ただ優しく肩を抱き締め、頭を撫でるだけだった。
麻紀との最期が、刻々と近付く。
火葬場で、最期に、麻紀の顔を目に焼き付ける為、俺は、麻紀の顔をずっと見つめた。
麻紀とのお別れの挨拶を済ませ、本当に、これが俺と麻紀の最期の時となった。
暗い長細い穴蔵に、麻紀の柩が納められ、俺達の世界と、死んだ者達の世界とを分けるボタンが、容赦なく押された。
俺達と、麻紀の最期の別れの時…。
俺が、麻紀を見送る、最期の時…。
俺は、それを見ているのが辛くて、今にも逃げ出しそうになった。
そんな弱い俺を、逃げ出さないように、姉は、しっかりと掴んで離さなかった。
一通りの儀式が終わり、俺は、重い足を引き摺るように、フラフラとさまよい歩いていた。
建物の壁際に設置されたベンチに、壁にもたれ掛かるように座る。
俺は、虚ろな目で、麻紀が、一人ぼっちで旅立った空を見上げた。
「静流?麻紀ちゃん、良い顔して眠ってたね…?静流が、ここへ来たから麻紀ちゃん、きっと安心したんだよ。だからね…?泣かないで…?あたしだって辛いけど、泣いてたら、麻紀ちゃん、悲しんじゃうから…。だから、静流も微笑お?麻紀ちゃんを微笑って送ってあげなきゃ…」
姉は、俺の横に座り、俺を元気付けようと必死だった。
「…うん」
俺は、ただ一言、そう言い返しただけだった。
俺が失ったものは、計り知れないくらいに大きかった。
この先、俺は、生きる糧をどのように見つければ良いのか…。
どのように生きて行けば良いのか…。
完全に見失ってしまっていた。
前を見るのが怖くなり、俺は、歩みを止めた。
そして、この世界に残された俺は、麻紀の残した面影に、残り香に、優しさに…。
ずっと、もたれ掛かっている事しか出来なくなってしまった。
大切な思い出と、麻紀の笑顔と面影だけを、ずっと頭の中に思い描いて…。




