第5話 隔離の前触れ
"僕の兄さんは、とても優しくて素敵な兄さんだけど、時々僕に意地悪な事をする兄さんだ。"
"その証拠に僕は、猫の姿でゲージの中に入れられている。"
"いつもの兄さんなら、僕が"みゃ~"っと可愛く鳴けば、簡単にゲージから出してくれる単純な兄さんだけど、何故か今日に限って"ダメ"の一点張りであった。"
"そもそも、僕がゲージの中に居る時は、猫の姿で寝ている時か、悪い事をして兄さんに叱られた時くらいだ。"
"うーん、昨日の夜に何か悪い事をしたのかな?"
朝からゲージの中に入れられていたヨリくんは、鳴いても媚びてもゲージから出してもらえない事に、かなりの疑問を感じていた。
昨日の事を振り返っても、お兄さんを怒らせる様な事をした覚えはなく、家中を無造作に走り回って暴れたり、お兄さんの手に噛み付いて"じゃれ"ついた訳でもない……。
そもそも、お仕置きを受ける心当たりが無かった。
しかし、ヨリくんの行動に心当たりはなくても、昨夜のブラッシング中に、お兄さんがこんな意味深な事を言っていた。
兄「んっ、何だこの白いの…、って、うわっ!?毛がめっちゃ抜けた!?」
かなり意味深な言葉であるが、お兄さんのブラッシングを受けていたヨリくんは、ゴロゴロと気持ち良さそうに聞き流していた。
"うーん、ダメな要素が全然分からないよ……。"
"今すぐ猫耳ショタの姿になって、ダメな理由を兄さんから聞き出したいけど、ここで変身しちゃったらゲージが壊れちゃうし…、うぅ、どうしよう〜。"
普段と違うルーティンにヨリくんが悩んでいると、一方のお兄さんは、"オドオド"と落ち着かない様子でスマホと向き合っていた。
兄「どうしよう、どうしよう……。昨夜のあれは何だったんだ。フケ…ダニ、シラミ……えっ、か、カビ……?。」
ヨリ「みゃ~、みゃ~。(兄さん、兄さ~ん。出してよ~。)」
兄「っ、だ、ダメだよヨリ?今日は朝一番に動物病院へ行くからな……、それまで悪いけど、ゲージの中で大人しくしててな。」
ヨリ「みゃう?(ふぇ、お医者さん?どうして??)」
未だに動物病院で怖い思いをした事がいないヨリくんは、落ち着いた様子でお兄さんの言葉に疑問を持った。
兄「い、いいかいヨリ?昨夜ブラッシングをしている時に、右腰辺りに変なのを見つけたんだよ。毛は凄く抜けるし、白い粒みたいな物が出来ていたんだよ?」
ヨリ「みゃうん?(毛が抜ける??白い粒??)」
至って慌てる要素が見当たらないヨリくんに取って、毛が抜けるのはいつもの事であり、白い粒に関してはフケか何かと思っていた。
そのためヨリくんは、お兄さんの焦る気持ちとは裏腹に、今すぐゲージから出たくて仕方がなかった。
ヨリ「みゃ~みゃ~。くぅん。(兄さん出してよ~、出して~。)」
ゲージの網目を掴んではよじ登ったり、三角台に飛び乗っては降りたりと、とにかく落ち着かない出してアピールを始めた。
兄「こ、こらこら暴れるな!?とにかく、動物病院に行って症状を見てもらうまでは、ゲージの中で大人しくしていなさい。」
本当なら出して上げたいお兄さんであるが、詳しい症状が分からない間は、下手にゲージから出す事ができなかった。
そのためお兄さんは、ゲージから出して上げたいと言う優しい思いを押し殺し、ヨリくんの出してアピールを受け付けなかった。
更にお兄さんの脳裏に、とある不安な記憶が蘇った。
それは、ヨリくんを家に迎え入れる前の話。
実はヨリくん。
ペットショップでのお披露目前に、"カビ"に犯されてしまい、他の猫ちゃんに移してしまう程の大元になっていたと、店員さんから聞かされていた。
そのためお兄さんは、今回の"これ"が、カビの再発か、あるいは転移ではないかと思った。
ましてヨリくんは長毛の猫だ。
隠れた小さなカビが、ここへ来て大きくなってしまった可能性だってあった。
現在の時刻は午前七時。
行きつけの動物病院は、午前九時からだ。
その前にヨリくんを入れる籠の用意と、朝ごはんを与えなければならない。
特に朝ごはんを与える時は、ゲージを開けた瞬間に脱走する可能性があるため、注意が必要であった。
ゲージの扉は上下に二つ。
当然、下の扉から朝ごはんを入れ様ものなら確実に脱走されてしまうだろう。
だからと言って、その上にあるもう一つの扉から朝ごはんを入れるにしても、簡単に飛び越えてしまう可能性だってある。
特に今のヨリくんは、やりかねない事であった。
ヨリ「くぅん、みゃ~。(むぅ、兄さんが出してくれないのなら、僕にだって考えがあるんだぞ~。どうせ兄さんは、上の扉から朝ごはんを入れるだろうし、その隙に出てやるからな~!)」
兄「うーん、落ち着かないみたいだな。(どうしよう、このタイミングで朝ごはんを与えれるのは、流石に逃げられるリスクがあるか……。いや、ここは少しでも落ち着いてもらうためにも、ちゅ〜る入りの朝ごはんでも与えるか……。)」
猫姿のヨリくんと意思疎通が取れないお兄さんは、知らぬ間にヨリくんのシナリオ通りに動こうとしていた。
その後お兄さんは、一時的にヨリくんを大人しくさせるために、朝からちゅ〜る入りの朝ごはんを用意した。
兄「よーし、出来た。おーい、ヨリ~、お待たせ…って、こらこらヨリ?上の扉にしがみついていたら、扉を開けられないだろ?」
ヨリ「みゃ~みゃ~!(ここを離れたら脱走のチャンスが無くなるから嫌だ~!)」
器用に両手両足を使って、ゲージの網目に爪を立ているヨリくんは、白くて"ふわふわ"としたお腹を露わにしながら、可愛い鳴き声を武器にして訴え掛けて来る。
兄「…うーん、困ったな。(さて、どうやって朝ごはんを入れたものか……。もし"カビ"による症状だったら、下手にゲージから出す訳には行かないんだよな……。)」
ヨリ「みゃ~みゃ~、(兄さん、兄さん!どうしてこんな意地悪をするの!?)」
兄「うぐっ、そ、そんな弱々しい声で訴えないでくれよ?」
ヨリくんの鳴き声に、心が折れそうになるお兄さんは、取り敢えずヨリくんに今の現状を伝えようとした。
兄「…仕方ない。いいかいヨリ?今から言う事を守れたら出してやるよ。」
ヨリ「っ、みゃ~。(うんうん、聞く聞く~♪)」
兄「……よ、よし、今からゲージを開けるけど、ゲージから出たら直ぐに猫耳ショタになるんだ。いいか?絶対に走り回るなよ?」
ヨリ「みゃぅ~ん♪(はーい♪)」
一応、一方通行ではあるが、お兄さんと意思疎通が取れるヨリくんは、お兄さんの条件を素直に受け入れた。
一方で、猫の姿をしたヨリくんと意思疎通が取れないお兄さんは、取り敢えずヨリくんと話をしない内はどうにもならないため、取り敢えずゲージ下の扉を開けた。
するとヨリくんは、よじ登ったゲージの網目から両手両足を離すと、直ぐにゲージ下の扉から外へと飛び出した。
兄「あっ、こらヨリ!?」
ヨリ「にゃう♪(やった~♪ゲージの外だ~♪)」
ゲージもとい、刑務所から釈放されたヨリくんは、ゲージから出られた喜びのあまり、お兄さんとの約束を早々に破ってしまった。
キャットタワーを始め、テレビの裏や狭い所など、それはもう、ローラーの如く走り回った。
これに対して、普段温厚なお兄さんでも、"グツグツ"と怒髪メーターが上がり始めた。
兄「こ、こら、ヨリ!?大人しくしないか!?」
ヨリ(わぁ~い、楽しい~♪)
お兄さんの注意も聞かず、無邪気に走り回るヨリくんは、捕まえようとして来るお兄さんを"スルリ"と逃げ続けた。
終いには、無意識にお兄さんの手を噛み始める始末、甘噛み程度ならまだしも、未だに加減を知らないヨリくんは、猫じゃらしを噛む時と同じ力でお兄さんの手を少し強く噛んでしまった。
すると、お兄さんの心に大きな雷が落ちた。
"ヨリ!!"っと言う、普段優しいお兄さんからは到底想像がつかない程の一喝に、思わずビクッとさせたヨリくんは、反射的にお兄さんの方を向いた。
するとそこには、不動明王を彷彿とさせる恐ろしい表情をしたお兄さんが、無言の圧をかけながらヨリくんを見下ろしていた。
ヨリ「……ブルブル。(はわわ!?に、兄さんが、お、怒ってる!?)」
おもちゃ以外、強く噛んではいけない。
約束を破ってはいけない。
言う事を聞かない。
これら三つの誤ちにより、お兄さんの怒髪天が目覚めてしまった。
その後、お兄さんを本気で怒らせてしまったヨリくんは、そのままゲージに戻されるのではなく……。
お出かけ用の籠の中に、朝ごはんと共に放り込まれてしまい、動物病院で診察を受けるまで閉じ込められるのであった。