表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

白妖狐奇譚

きつねと野ばら

作者: 村野夜市

青白い頬に、しなやかな肢体。

可憐で穢れを知らない純白の少女。

けれど、その眼窩は黒く闇に染まり、そこから溢れて落ちる涙は、赤い血の色をしている。

血の涙は、少女の純白の衣を、赤く染めていった。


「すまないな。あんたをこんな姿にしたのは、俺だ。

 それなのに、元に戻してやることもできない。」


感情の籠らない冷ややかな声で淡々とそう言ったのは、白銀の妖狐、ソウビだった。

たっぷりと量のある白銀色の髪が、ふさりと背中を覆う。

少女を見据える金色の瞳孔は、すっと縦にすぼまった。


少女の足元からは、鋭い棘を持った黒い蔓が、うねうねと伸びていた。

何度もソウビに襲い掛かっては、妖力で引き千切られた蔓は、今も、襲い掛かる隙を伺って、じりじりと蠢いている。


けれど、ソウビに隙はまったくなかった。


「せめて、一瞬で終わりにしてやる。」


少女の正面に対峙したソウビは、刀印を口元に添え、呪を唱えた。

金色の瞳が輝き、白銀の髪は高まる妖力にふわふわと波を打つ。

呪の完成と同時に、妖力の集中した指先は、眩しい光を放った・・・


***


晴れて、風の強い日の午後だった。

一匹の若い白狐が、草叢のなかを、走るでもなく、歩くでもなく、進んでいた。

一人前になって初めてのお役目を終えて、郷に戻る途中のソウビだった。


急ぐ旅じゃない。というか、急ぎたくない。

急いで帰ったところで、ろくなことはない。

どうせまた、族長に見つかって、厄介なお役目を押し付けられるだけだ。


けれども、巣穴には早く帰り着きたかった。

ぬくぬくしてて、安心で、叶うものなら、もう一生、巣穴にいたい。

巣穴より幸せな場所なんて、世界中探してもどこにもない。


お役目なんて、なけりゃいいのに、と思う。

郷なんて退屈なだけだ。外の世界のほうが刺激的で面白い。

そんなことを言う奴の気が知れない。


帰りたいけど帰りたくない。

相反する気持ちに引き裂かれて、家路を辿る足は、次第に重くなる。

いっそこのままどこかへ行ってしまおうか。

けれども、たとえどこへ逃げたとしても、あの巣穴以上に居心地のいい場所なんて、この世界にあるはずがない。


ため息を吐いて、ふと顔を上げたときだった。


「花、だ。」


草叢のなかに、それはたった一輪、ぽつん、と咲いていた。


花など、珍しくもない。

郷には古今東西の花の咲き乱れる花園もある。


なのに、どうしてか、その花にはひどく心を奪われた。

白く、小さく、可憐な花。


ソウビはするすると人の姿に変化した。

どうしてもその必要のあるとき以外、好んで人の姿をとったことはない。

なのに、何故、そうしたのか、ソウビ自身にも分からなかった。

人に変化したソウビは、その手を、花のほうへと伸ばしていた。


「あいたっ!」


花を手折ろうとした瞬間、ちくりと指を刺した棘に、ソウビは思わず手を引いた。


「っちちちち・・・」


棘は思いのほか深く刺さっている。

きゅっとつかんで引き抜くと、傷痕にみるみる赤い血が盛り上がって、それから滴って落ちた。


「ひぃ~・・・」


可憐だと思った花の思わぬ反撃に、ソウビはすっかり意気消沈した。

花はそんなソウビを素知らぬ顔で見ているようだった。


「ちぇっ。」


ソウビは負け惜しみのように小さく舌打ちをすると、くるっと宙返りをして元の狐の姿に戻った。

それから、花に背を向けて駆け出した。


***


突然の族長からの呼び出しに、ソウビはいやいや族長の館に出向いた。

行きたくはないが、行かなければ、もっと面倒なことになる。

ここ数年の間に、それはいやというほど思い知っていた。


郷一番の古狐である族長の館は、巣穴などとは到底呼べず、もはや、人の子の貴族の屋敷に、勝るとも劣らぬ立派な屋敷だった。

館には、族長の執務室や、郷の重鎮たちが集まって会議をする部屋、郷中の狐が集まれるほどの大広間まであった。

そこは、族長の館という名の、郷の中枢機関となっていた。


ソウビが行くと、族長は表の執務室ではなく、裏の自室で、のんびり茶を啜っていた。


「なんだじいさん、茶飲み友だちなら、俺なんか呼びつけなくても、他にたくさんいるだろ?」


案内も請わず、勝手に奥の部屋へずかずかと踏み込んだソウビは、茶を啜る族長を見下ろして、いきなりそう言った。


「まったく、お前さんはいつもそう落ち着きのない。

 茶を馳走しようというのじゃない。

 お前さんに行ってもらわねばならぬお役目があるのよ。」


族長はそう言って、ソウビに座るように目で示した。


「まあ、そんなこったろうとは思ってたけどね。」


ソウビは族長の前に行儀悪く胡坐をかくと、それで?と話しを促した。

それに族長は好々爺のようににこにこと話しかけた。


「・・・ところで、ソウビや。

 久しぶりに来たのじゃ。水菓子でもどうかな?」


途端にソウビは無表情になると盛大なため息を吐いた。


「水菓子の相手なら、俺でなくてもいいよな?

 んじゃ、俺は帰る。」


そう言っていきなり席を立とうとしたソウビを、族長は慌てて引き留めた。


「分かった分かった。

 まったく、本当にお前さんはせっかちじゃのう。

 ああ、いや、話しじゃ。お役目の件じゃ。」


無言で席を立つソウビの袖をぎりぎりのところでひっつかんだが、族長はそのまま畳の上をずるずると引き摺られた。


「ちょい!待てい!

 お前さんでなければ退治ることのできぬ妖物なのじゃ!」


その台詞に、ようやくソウビは足を止めた。

族長は畳に手をついて、ぜいぜいと荒い息を吐いていた。


「・・・もう少し、老い先短い年よりを労わろうという気遣いは・・・

 ああ!いや、分かった!

 お役目じゃ。

 妖花の退治じゃ。」


「妖花?」


それを聞くと、ソウビはくるりと振り返って、その場へ胡坐をかいた。


「・・・それは、もしかして・・・」


「そうじゃ。お前さんが血を与えてしまった花じゃ。」


族長は重々しく頷く。そこにさっきまでの長閑な空気はもはや残っていなかった。


***


初めてのお役目を終えたソウビは、族長の館に報告に行った。

さっさと報告だけして巣穴に帰ろうと思っていた。


その日は、たまたま、族長に用のある狐が多かった。

長い時間、広間で待たされて、いらいらしていたソウビは、ようやく呼び出しを受けて、ずかずかと執務室に乗り込んだ。


「じっちゃん、妖物はちゃんと退治して、封印しといた。」


じゃ!といきなり背を向けたソウビを、族長の声が追ってきた。


「ちょっと、待て、ソウビ。

 お前さん、怪我をしておるの?」


はっとしてソウビは背中に手を回した。

帰り道、花を取ろうとして棘を刺したことは、わざわざ言うまでもないと思っていた。

それをこうして指摘されると、なにかひどくまずいことをしたような気になった。


族長はひくひくと鼻を動かして言った。


「お前さんの血の匂いがする。

 あの妖物はそこまで強いものではなかったと思ったが・・・」


「当ったり前だ!

 あんな小物にこの俺が遅れをとるものかっ!」


威勢のいいソウビを族長は目を細めるようにして見た。


「なら、何に、傷をつけられた?」


「っそ、それは・・・」


気まずかったけれども、ごまかす言い訳も思いつかず、ソウビは正直に話した。


「花に、血を、かけてしまったのか?」


族長はそう聞き返して、眉をひそめた。


「・・・なんか、まずかったか?」


ソウビは不安になって尋ねた。


そうじゃのう、と族長はしばらく考えてから言った。


「まずい、かもしれん。まずくはない、かもしれん。

 それは時間が経たんと、分からん。

 ただ、お前さんの血は、妖のなかでもかなり強力な血じゃからのう。

 なにもない、ということは、ないかもしれんのう。」


「なにがあるんだ?」


「もしかしたら、その花は妖物と化すかもしれん。

 なに、妖物と化したところで、必ずしも問題だということはない。

 夜中にケケケと笑う程度ならば、放っておけばよい。

 しかし、害をなすとなると・・・」


「退治、しないといけないのか?」


「そうじゃの。

 しかも、そのときには、お前さんの血を浴びたかなり強い妖花になっておるだろうからの。」


「分かった。

 そのときは、俺が責任を持って退治する。」


ソウビは珍しくきっぱりと言った。


***


ソウビは狐の姿のままで、草叢のなかを駆けていた。


郷にいるときには狐の姿をしていても、お役目には人の姿になって出向く妖狐は多い。

人の世は狐の郷にはない享楽に満ちているし、お役目を口実に、人の世の甘い蜜を味わうのは、辛いお役目に向かう妖狐たちの密かな楽しみでもある。


しかし、ソウビは、お役目のときにも、極力、人の姿にはならなかった。

もとより、人の世の享楽になど、まったく関心はない。

そんなことに妖力を使うのは無駄だとすら思っていた。


一度だけ、まだ見習いだったころに、指導狐に言われて、人の里で人の姿になったことがあった。

人の姿になった妖狐というものは、みな美人だと相場は決まっている。

すっと通った鼻筋。つんと涼やかな目元。

すらっとした姿態は妖艶で蠱惑的。

望まずとも、人の目を惹く。


ソウビはまたいちだんと美しい妖狐だった。

銀の髪を背中で揃え、稚児の姿をしたソウビに、道行く人はみな振り返った。

ソウビを連れて歩く指導狐も、どこか誇らし気な顔をしていた。


普通の人間には聞こえないひそひそ声も、狐の耳にはしっかり聞こえていた。


「まあ、なんて可愛らしい。」

「どちらの姫君だろう。」


「俺は、男だっ!」


思わずそう訂正したソウビを、指導狐は慌てて引き戻した。

そのふたりの傍を通りかかった老婆が、目を細めて言った。


「ほう。これは、また、なんて可愛らしい。」


「知ってる。」


ぶすっと答えたソウビに、老婆はほほほと笑いだした。

それから、しわだらけの手を伸ばして、ゆっくりとその髪を撫でた。


「可愛らしい上に面白いお子じゃ。

 よい方に出会えて、この婆の寿命も伸びましたのう。」


「そうか、よかったな、婆さん。」


ソウビは大人しく頭を撫でられながら、老婆に言った。


「俺の妖力を分けてやるから、せいぜい長生きしろ。」


「わっ、ちょっ。」


指導狐はあわててソウビを引き戻した。

老婆は、妖力、というのが聞こえなかったのか、それとも、あまり細かいことは気にしない性質だったのか、ほほほと笑いながら、手を振って行ってしまった。


そのふたりの耳に、また別の方向から噂話が聞こえてきた。


「おや、よく見ると、御付きの随身も、なかなかな美形じゃないか。」

「ほう。これは、まるで、狐に化かされているようだな。」


そうだよ、狐に騙されているんだよ、と言いそうになるソウビの口を、今度は指導狐はうまく塞いだ。


「こら、ソウビ。

 そういちいち全部正直に反応していては、情報収集もできないだろう?

 お手本を見せるから、お前は少し黙って見てろ。」


指導狐に言われて、ソウビはしぶしぶ、黙ってついて行くことにした。


指導狐は道行く娘の集団にいきなり声をかけた。


「そこの綺麗なお姉さん方。

 ちょっとお話ししてもいいですか?」


「え?あたしたちに?なにか御用かしら?」


色めき立つ娘たちに、指導狐はとっておきの微笑を向けると、話し始めた・・・


と、しかし、このときは、これ以降のソウビの記憶はない。

気が付くと、夕焼けの街道で、指導狐の背に負われていた。


「あ?あれ?俺、眠ってたのか?」


「ああ。そりゃあ、もう、ぐっすり、とな。」


指導狐の機嫌は悪くはなかった。

ほんのりと酒と脂粉の匂いがしていた。


「眠ったりして、悪かった、のかな?」


「いや、そう悪くはなかったな。」


指導狐はそう言って笑った。


しかし、それ以降、人の里で人の姿になることを強要されることはなくなった。

よほどむいていないと、匙を投げられたのかもしれない。


ひとりでお役目をこなすようになってからも、ソウビはあえて人の姿になろうとはしなかった。

大きなからだは物陰に隠れるにも不便だし、脚力も跳躍力も、狐の姿のほうがずっと上だ。

人の姿でなければ使えない術もあるが、妖物退治ごときにそんなものを繰り出すまでもない。

情報収集も、人に話しかけるより、物陰に隠れて噂話を収集するほうがいい。

だいたい、話しかけたところで、人は余計な話しばかりするし、そいつらから、必要な情報を聞き出すなんて高等技術は、一生できるようになる気がしない。


しかし、狐の姿であっても、ソウビはなかなかに目立つ美狐だった。

白狐というが、たいていは、真っ白というわけじゃない。

なんとなく、白っぽいとか、ほんのり、白みがかっているとか。

けれど、ソウビの白は、まったくの白だ。

白銀といってもいい。

それは、ありとあらゆる光を反射して、きらきら眩しい白だった。


まだ新米だったころ、何度か、狐の姿で走っているところを、人に見られてしまったことがあった。

それはたいてい、幼い子どもであることが多かった。

幼い子どもというものは、まだ、それほど人の気を多く発しないので、うっかり警戒しそこねるのだ。


ほとんどたいていの子どもは、ソウビを指さしてこう言う。

あ、なんか白いのがいる!

狐がいる、と言われたことはない。

狐の姿より、白という色のほうが、自分を表しているのだとソウビは思った。


ソウビの白は、とにかく目立った。

昼間はもちろんのこと、夜でも目立った。

闇に溶け込むことも不可能。

闇とは一番、相容れぬ色だ。


うっかり見つかって騒ぎになるのも面倒だ。

それゆえに、ソウビは移動はいつも草叢のなかだ。

初めてひとりでお役目をこなしたあのときから、それは変わっていない。

草叢のなかを移動していたからこそ、あのとき、あの花とも出会ったのだ。


そう。

あのとき、あんなふうに、自分が、あの花を見つけたりしなければ。

花は、今も、平穏に咲いていたのだろうか・・・


あの花の運命を変えてしまったのは、ソウビ自身だった。

ソウビはあの花にとっては、仇も同然だろうと思う。

なのに、あの花のことは、ずっと心から離れなかった。

あの花にこんなに心を奪われているのは、ソウビというのが花の名だからなのだろうか。


ソウビにソウビと名づけたのは、族長だった。

両親は、郷のなかでも有名な白狐だった。

初孫を見に来た族長は、真珠のように純白で美しい仔狐に、目を奪われたそうだ。

その場で、ソウビには、ソウビという名がつけられた。


どうせなら花の名より、もう少し強そうな名前のほうがよかったのにと、幼いころ、ソウビは思っていた。

しかし、ソウビの花を実際に目にしたときから、この名もそう悪くはないと思うようになった。


郷の花園には、ソウビの花もあった。

ソウビの花をソウビに教えてくれたのも族長だった。

初めて見たとき、綺麗な花だと思った。

この花なら、強そうだとも思った。


周囲の者は、みな、ソウビの美しさを誉めそやした。

幼いころから、ソウビは、自分の美しさを十分に自覚して成長した。

いやそれは、少し、自覚しすぎなところもあった。

ソウビは、この世に自分より美しい者はいないとすら、思ってしまっていた。


何を見ても、ソウビはそれほど感動しない。

水鏡にうつる己の姿のほうが、何倍も美しいと思うからだ。

ソウビの美しさを否定する者は、郷にはひとりとしていなかった。

望まずとも、ソウビの美しさには、有象も無象も魅了された。


しかしそこで、その力で心を操ろうとは思わない辺りが、ソウビのソウビたる所以でもあった。

折角の美しさも、ソウビにとっては煩わしいだけだった。

いっそ誰からも見つけられずに、ひっそりと巣穴に籠っていたい。

美しさに相乗するように、ソウビの妖力は郷でも段違いに強力だった。

けれども、その力を使うのは、族長に無理やり頼まれたときだけだった。

望めば郷を支配することすら可能だろうけれど、ソウビは一切望まないのだった。


***


あの花の場所へは、迷わずに辿り着いた。

この場所を忘れたことはなかった。

夢のなかで、何度も何度も訪れた。


それは、生まれて初めて、ソウビが、自分よりも美しいと思ったものだったから。


妖花は、狂っていた。

狂おしいまでに咲き乱れ、辺りに瘴気をまき散らしていた。


狂いながら、少女は泣いていた。

赤い涙は、あの日、ソウビが零した血の色だった。


少女の前で、ソウビはするすると人の姿になった。

妖物と戦うときにも、人の姿になったことはなかった。

狐の姿のままでも、一度も苦戦したことはなかった。


けど。

これは。

人の姿でなけりゃ、できない呪法だからな。


「すまないな。あんたをこんな姿にしたのは、俺だ。

 それなのに、元に戻してやることもできない。」


ソウビは、感情の伺えぬ冷ややかな声で淡々と言った。

少女を見据える金色の瞳孔は、すっと縦にすぼまった。


少女の足元からは、鋭い棘を持った黒い蔓が、うねうねとソウビの隙を伺っている。

禍々しいその蔓に強烈な一撃を受ければ、ソウビとて無事ではいられないだろう。


「せめて、一瞬で終わりにしてやる。」


ソウビは刀印を口元に添えて、呪を唱え始めた。

金色の瞳が輝き、白銀の髪はふわふわと波打った。

やがて、呪は完成し、妖力の集中した指先は、眩しい光を放つ。


指先を光の短刀に変えて、ソウビは一撃で妖花の根を断ち切った。

根を失った妖花は、立っていられずに、くらりと倒れかかる。

それをソウビは全身で受け止めた。


妖花の棘は、容赦なくソウビを襲った。

それにソウビは、ただ耐えた。

抵抗はしなかった。

もうこれ以上、少女に苦しい思いはさせたくなかった。


ソウビの流した血は、その白銀の髪を朱に染めた。

いつの間にか、ソウビは、くくく、と声を漏らして笑っていた。


「もう今さらだからな。

 俺の血がほしいなら、いくらでもくれてやる。

 だから、お前の気の済むようにしろ。」


あのとき、この血を、零したりしなければ。

いや、あのとき、自分が、この花を見つけたりしなければ。

手を伸ばしたりしなければ・・・


「ごめんな。

 苦しいよな。

 お前はなんも悪くない。

 悪いのは、みんな、俺だ。」


謝りながら、なのに、ソウビは今、幸せだった。

容赦なく棘に突かれ、引き裂かれても、この腕を解く気にはならなかった。


ああ、そうだ。

あのとき、俺は、本当は、こうしたかったんだ。


断末魔の悲鳴を上げる妖花を、血まみれの腕のなかに抱きしめて、ソウビは思った。


お前を連れて帰りたかった。

俺のものにしたかった。


たった一輪、ひっそりと咲いていた花を、手折ろうとしたのはこの俺だ。


痛みは感じない。いや、嘘だ。全身、痛い。

けれど、この痛みすら、今は、甘美に感じてしまう・・・


「すまない。

 けど、お前を救う方法はこれしかないんだ。

 これからは、お前のことは俺が全力で守るから。

 だから、俺と、一緒に来てくれ。」


誰かに何かを望んだのは、これが初めてだ。

ソウビの周りの者はみな、ソウビが何かを望む前に、なんでもソウビに与えてしまうから。

ソウビはずっと、何かをほしいと思うことがなかった。


何かをほしいと思うのは、これが最初で最後。間違いない。


ソウビはひとつ深呼吸をすると、呪法の最後の仕上げにかかった。


「汝に名を授けよう。

 ウバラ。

 この名を受け取り、我がしもべとなれ。」


声に呪を乗せて、耳元で囁く。


「あ。しもべってのは、一応、そういう呪文だからってだけだから。

 心配いらない。俺はべつに、あんたを召使みたいにしたりはしない。」


思わず言い訳を付け足してから、いやでも、彼女が家にいて、料理をしたり、いろいろしてくれたら・・・などと想像してしまう。

脳裏に浮かんだ甘い想像に、思わずだらしない笑顔になりそうになったが、ぎりぎりのところで我に返った。


いつの間にか棘の攻撃は止んでいた。


呪の光を浴びて、少女の赤く染まった衣は、白く、浄化されていた。

真っ黒に塗りつぶされていた眼窩には、青白い瞼が見えた。

けれど、その瞼は固く閉ざされ、少女は呼吸をしていなかった。


「え?

 ウバラ?」


少女の青白い頬を叩いて、ソウビは叫んだ。


「目を覚ませ。

 頼むから。逝くんじゃない。」


けれど少女の反応はなかった。

妖花になって暴走していた少女のからだは、強い負荷がかかってぼろぼろになっていた。

それはソウビが想像していたより、ずっとひどい状況だった。


「え?俺、余計な攻撃とか、してないよね?

 根っこ、切っただけだよね?

 あれやらないと、植物が元になった妖物は、持って帰れないからさ?」


尋ねても返事はない。

ソウビは焦った。

生まれて初めて、この上ないくらいに、焦った。


「ちょ、え?

 こんな場合、どうしたらいいんだ?

 じっちゃん?って、じじいに聞いてどうする・・・

 だいたい、今ここに、じじい、いないから。

 いや、やっぱ、根っこ、掘り返すべきだった?

 って、あの状況じゃ、それ、無理過ぎでしょ?

 いや、そうじゃなくて、

 あああ、もうっ!」


がばり。

ぐったりした少女のからだを掻き抱き、ソウビはいきなりその唇に口付けた。

それから、息と一緒に、ありったけの妖力を吹き込んだ。


「俺の命をあげる。

 だから、君は、死なないで。」


祈りを込めて、少女を抱きしめた。


***


・・・ぽとり。

ぽとり。

ぽたぽたぽた。

じゃあああああ。


「うわっ!」


ソウビはびっくりして飛び起きた。

その瞬間に、鼻から水が入って、盛大に咳き込んだ。

髪がずぶ濡れだ。

ついでに着物もずぶ濡れだった。


「へ?」


我に返って隣を見ると、そこにいたのは、色の白い可憐な少女だった。


「え?」


少女は飛び起きたソウビに驚いたように目を丸くしていた。

けれどすぐににこっとすると、手に持っていた桶を、いきなりソウビの頭の上でさかさまにした。


「うわっ!

 えっ?なんで?なんで水、かけんの?」


ずぶ濡れになって抗議するソウビを、少女は不思議そうに首を傾げて見る。

しかし、首を傾げたいのはソウビも同じだった。


「え?ちょっ、なんで?

 俺、花じゃないんだけど?

 うへっ、つべたっ。

 ふぇっ、ふぇっ、ふぇぇえくしょい!」


濡れた着物が気持ち悪くて、肌から引き剥がそうとすると、余計に冷たさを感じる。

思わず盛大なくしゃみが出た。


「ねえ、今ここで、これ、脱いでいい?

 って、やっぱ、まずいかな・・・」


ぶつぶつ呟きつつ、あんまり冷たくて、もう一度くしゃみが出た。


「これじゃ、風邪、引いちまう。

 って、あ、そっか。風だ。風、風。」


日頃あまり妖術を使っていないのが、こんなところであだになった。

ソウビは風を起こせるのを思い出すと、いきなり妖力全開で風を起こした。


「って、うわっ、やばっ。

 ちょ、ウバラ?

 って、ウバラだよね?

 あああ、もうっ、ウバラっ!

 飛んでっちまうから、俺につかまって!!!」


強い風に吹き飛ばされそうになるウバラを、慌ててひっつかんで、ソウビは悲鳴を上げた。

ウバラのほうは、最初は風に驚いたものの、すぐに楽しそうに、きゃきゃきゃきゃきゃと笑い出した。


「えっ?ちょっ?楽しいの?

 いや、でも、危ないから。

 うばらーーーっ!」


ソウビの悲鳴は、ソウビが自分の妖力を調整することを思い出すまで続いていた。


***


ソウビがウバラを連れて郷に帰ると、族長がにこにこと出迎えてくれた。


「おう。これは愛らしい使い魔じゃ。」


「使い魔とか言うな。

 ウバラはウバラだから。」


「ウバラと名づけたのか?

 薔薇に薔薇と名づけるとは、なんとまあ、わしの孫は単純明快。」


かかかかか、と笑う族長を、ソウビはわずかに頬を染めてにらみつけた。


「いいだろう?

 ずっと考えてた名前なんだ。

 それしかないって思ったんだから。」


「そうかそうか。

 時間はたっぷりあったのだから、もう少し凝った名前にするかと思ったが。

 見た瞬間に思いついた名をつけてしまうのは、血筋かのう?」


「・・・って、それって、あんたのことか?じじい。」


もう一度にらんでから、はっと気づいた。


「てか、じじい、あんた、俺がウバラのこと、連れて帰りたいって思ってたの、気づいてたのか?」


「気づかぬはずはなかろうて。

 ばればれじゃ。」


ほっほっほ、と笑う族長に、ソウビは思い切り渋い顔をした。


なんだかこの狸じじいには、昔から掌の上で転がされている気がする。

狐だけど。


「それにしても、ウバラか。可愛いのう。

 今度わしの館においで?お菓子もたんとあるぞ?」


「って、じじい、子どもかどわかしてるみたいだから、やめろ。」


ソウビは族長の手からウバラを取り返すと、そのまま、ずいずいと巣穴に戻った。


「ちょっと待ってな。」


巣穴に潜り込もうとするウバラを引き留めて、ぱちん、と指を鳴らす。

すぐに狐の巣穴は、人の子の家のようになった。


「しかしこれじゃふたりには狭いな。

 少しずつ拡張するか。」


いやしかし、狭けりゃ狭いで、密着できていいという話しも・・・

そんなことを考えかけて、あわてて打ち消した。


家に戻って安心したソウビは、ようやく人型を解いて、元の狐の姿に戻った。

ウバラは狐の姿のソウビを見ても驚かずに、むしろ喜んで抱き上げると、頬ずりしてくれた。

ちょっと、このままずっと、狐のままでいようかな、と思ったソウビである。


ウバラは疲れたのかそのまま横になると、すやすやと眠ってしまった。

狐の姿になったソウビは、抱き枕よろしく、ウバラの腕にがっしりとつかまっている。


「ちょ、俺、枕じゃないんですけど?

 人形でもないんですけど?」


ひとり焦りまくるソウビの声は誰も聞いていなかった。


どうあっても逃げられないと観念したソウビは、そのままそこで眠ることにした。

ウバラの寝息は、すぅすぅ、というより、ぷぅぷぅ、に聞こえる。

安心しきったように眠るウバラの寝顔を見つめながら、そんなことを思った。


「なあ、ウバラ。

 俺はお前のこと幸せにしてやる自信はないんだけど。

 お前がいれば、俺は世界一幸せになる自信があるよ。」


寝顔にむかってそう言うと、そっと、鼻先を伸ばして、ウバラの鼻にぺたりとくっつけた。






薔薇の鉢植えを蹴倒したら、棘が刺さって血が出まして。

そのときに思いついたお話です。

転んでもただでは起きない、は、こういうときに正しい用法でしょうか?


読んでいただきまして、有難うございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ