きつねと野ばら
青白い頬に、しなやかな肢体。
可憐で穢れを知らない純白の少女。
けれど、その眼窩は黒く闇に染まり、そこから溢れて落ちる涙は、赤い血の色をしている。
血の涙は、少女の純白の衣を、赤く染めていった。
「すまないな。あんたをこんな姿にしたのは、俺だ。
それなのに、元に戻してやることもできない。」
感情の籠らない冷ややかな声で淡々とそう言ったのは、白銀の妖狐、ソウビだった。
たっぷりと量のある白銀色の髪が、ふさりと背中を覆う。
少女を見据える金色の瞳孔は、すっと縦にすぼまった。
少女の足元からは、鋭い棘を持った黒い蔓が、うねうねと伸びていた。
何度もソウビに襲い掛かっては、妖力で引き千切られた蔓は、今も、襲い掛かる隙を伺って、じりじりと蠢いている。
けれど、ソウビに隙はまったくなかった。
「せめて、一瞬で終わりにしてやる。」
少女の正面に対峙したソウビは、刀印を口元に添え、呪を唱えた。
金色の瞳が輝き、白銀の髪は高まる妖力にふわふわと波を打つ。
呪の完成と同時に、妖力の集中した指先は、眩しい光を放った・・・
***
晴れて、風の強い日の午後だった。
一匹の若い白狐が、草叢のなかを、走るでもなく、歩くでもなく、進んでいた。
一人前になって初めてのお役目を終えて、郷に戻る途中のソウビだった。
急ぐ旅じゃない。というか、急ぎたくない。
急いで帰ったところで、ろくなことはない。
どうせまた、族長に見つかって、厄介なお役目を押し付けられるだけだ。
けれども、巣穴には早く帰り着きたかった。
ぬくぬくしてて、安心で、叶うものなら、もう一生、巣穴にいたい。
巣穴より幸せな場所なんて、世界中探してもどこにもない。
お役目なんて、なけりゃいいのに、と思う。
郷なんて退屈なだけだ。外の世界のほうが刺激的で面白い。
そんなことを言う奴の気が知れない。
帰りたいけど帰りたくない。
相反する気持ちに引き裂かれて、家路を辿る足は、次第に重くなる。
いっそこのままどこかへ行ってしまおうか。
けれども、たとえどこへ逃げたとしても、あの巣穴以上に居心地のいい場所なんて、この世界にあるはずがない。
ため息を吐いて、ふと顔を上げたときだった。
「花、だ。」
草叢のなかに、それはたった一輪、ぽつん、と咲いていた。
花など、珍しくもない。
郷には古今東西の花の咲き乱れる花園もある。
なのに、どうしてか、その花にはひどく心を奪われた。
白く、小さく、可憐な花。
ソウビはするすると人の姿に変化した。
どうしてもその必要のあるとき以外、好んで人の姿をとったことはない。
なのに、何故、そうしたのか、ソウビ自身にも分からなかった。
人に変化したソウビは、その手を、花のほうへと伸ばしていた。
「あいたっ!」
花を手折ろうとした瞬間、ちくりと指を刺した棘に、ソウビは思わず手を引いた。
「っちちちち・・・」
棘は思いのほか深く刺さっている。
きゅっとつかんで引き抜くと、傷痕にみるみる赤い血が盛り上がって、それから滴って落ちた。
「ひぃ~・・・」
可憐だと思った花の思わぬ反撃に、ソウビはすっかり意気消沈した。
花はそんなソウビを素知らぬ顔で見ているようだった。
「ちぇっ。」
ソウビは負け惜しみのように小さく舌打ちをすると、くるっと宙返りをして元の狐の姿に戻った。
それから、花に背を向けて駆け出した。
***
突然の族長からの呼び出しに、ソウビはいやいや族長の館に出向いた。
行きたくはないが、行かなければ、もっと面倒なことになる。
ここ数年の間に、それはいやというほど思い知っていた。
郷一番の古狐である族長の館は、巣穴などとは到底呼べず、もはや、人の子の貴族の屋敷に、勝るとも劣らぬ立派な屋敷だった。
館には、族長の執務室や、郷の重鎮たちが集まって会議をする部屋、郷中の狐が集まれるほどの大広間まであった。
そこは、族長の館という名の、郷の中枢機関となっていた。
ソウビが行くと、族長は表の執務室ではなく、裏の自室で、のんびり茶を啜っていた。
「なんだじいさん、茶飲み友だちなら、俺なんか呼びつけなくても、他にたくさんいるだろ?」
案内も請わず、勝手に奥の部屋へずかずかと踏み込んだソウビは、茶を啜る族長を見下ろして、いきなりそう言った。
「まったく、お前さんはいつもそう落ち着きのない。
茶を馳走しようというのじゃない。
お前さんに行ってもらわねばならぬお役目があるのよ。」
族長はそう言って、ソウビに座るように目で示した。
「まあ、そんなこったろうとは思ってたけどね。」
ソウビは族長の前に行儀悪く胡坐をかくと、それで?と話しを促した。
それに族長は好々爺のようににこにこと話しかけた。
「・・・ところで、ソウビや。
久しぶりに来たのじゃ。水菓子でもどうかな?」
途端にソウビは無表情になると盛大なため息を吐いた。
「水菓子の相手なら、俺でなくてもいいよな?
んじゃ、俺は帰る。」
そう言っていきなり席を立とうとしたソウビを、族長は慌てて引き留めた。
「分かった分かった。
まったく、本当にお前さんはせっかちじゃのう。
ああ、いや、話しじゃ。お役目の件じゃ。」
無言で席を立つソウビの袖をぎりぎりのところでひっつかんだが、族長はそのまま畳の上をずるずると引き摺られた。
「ちょい!待てい!
お前さんでなければ退治ることのできぬ妖物なのじゃ!」
その台詞に、ようやくソウビは足を止めた。
族長は畳に手をついて、ぜいぜいと荒い息を吐いていた。
「・・・もう少し、老い先短い年よりを労わろうという気遣いは・・・
ああ!いや、分かった!
お役目じゃ。
妖花の退治じゃ。」
「妖花?」
それを聞くと、ソウビはくるりと振り返って、その場へ胡坐をかいた。
「・・・それは、もしかして・・・」
「そうじゃ。お前さんが血を与えてしまった花じゃ。」
族長は重々しく頷く。そこにさっきまでの長閑な空気はもはや残っていなかった。
***
初めてのお役目を終えたソウビは、族長の館に報告に行った。
さっさと報告だけして巣穴に帰ろうと思っていた。
その日は、たまたま、族長に用のある狐が多かった。
長い時間、広間で待たされて、いらいらしていたソウビは、ようやく呼び出しを受けて、ずかずかと執務室に乗り込んだ。
「じっちゃん、妖物はちゃんと退治して、封印しといた。」
じゃ!といきなり背を向けたソウビを、族長の声が追ってきた。
「ちょっと、待て、ソウビ。
お前さん、怪我をしておるの?」
はっとしてソウビは背中に手を回した。
帰り道、花を取ろうとして棘を刺したことは、わざわざ言うまでもないと思っていた。
それをこうして指摘されると、なにかひどくまずいことをしたような気になった。
族長はひくひくと鼻を動かして言った。
「お前さんの血の匂いがする。
あの妖物はそこまで強いものではなかったと思ったが・・・」
「当ったり前だ!
あんな小物にこの俺が遅れをとるものかっ!」
威勢のいいソウビを族長は目を細めるようにして見た。
「なら、何に、傷をつけられた?」
「っそ、それは・・・」
気まずかったけれども、ごまかす言い訳も思いつかず、ソウビは正直に話した。
「花に、血を、かけてしまったのか?」
族長はそう聞き返して、眉をひそめた。
「・・・なんか、まずかったか?」
ソウビは不安になって尋ねた。
そうじゃのう、と族長はしばらく考えてから言った。
「まずい、かもしれん。まずくはない、かもしれん。
それは時間が経たんと、分からん。
ただ、お前さんの血は、妖のなかでもかなり強力な血じゃからのう。
なにもない、ということは、ないかもしれんのう。」
「なにがあるんだ?」
「もしかしたら、その花は妖物と化すかもしれん。
なに、妖物と化したところで、必ずしも問題だということはない。
夜中にケケケと笑う程度ならば、放っておけばよい。
しかし、害をなすとなると・・・」
「退治、しないといけないのか?」
「そうじゃの。
しかも、そのときには、お前さんの血を浴びたかなり強い妖花になっておるだろうからの。」
「分かった。
そのときは、俺が責任を持って退治する。」
ソウビは珍しくきっぱりと言った。
***
ソウビは狐の姿のままで、草叢のなかを駆けていた。
郷にいるときには狐の姿をしていても、お役目には人の姿になって出向く妖狐は多い。
人の世は狐の郷にはない享楽に満ちているし、お役目を口実に、人の世の甘い蜜を味わうのは、辛いお役目に向かう妖狐たちの密かな楽しみでもある。
しかし、ソウビは、お役目のときにも、極力、人の姿にはならなかった。
もとより、人の世の享楽になど、まったく関心はない。
そんなことに妖力を使うのは無駄だとすら思っていた。
一度だけ、まだ見習いだったころに、指導狐に言われて、人の里で人の姿になったことがあった。
人の姿になった妖狐というものは、みな美人だと相場は決まっている。
すっと通った鼻筋。つんと涼やかな目元。
すらっとした姿態は妖艶で蠱惑的。
望まずとも、人の目を惹く。
ソウビはまたいちだんと美しい妖狐だった。
銀の髪を背中で揃え、稚児の姿をしたソウビに、道行く人はみな振り返った。
ソウビを連れて歩く指導狐も、どこか誇らし気な顔をしていた。
普通の人間には聞こえないひそひそ声も、狐の耳にはしっかり聞こえていた。
「まあ、なんて可愛らしい。」
「どちらの姫君だろう。」
「俺は、男だっ!」
思わずそう訂正したソウビを、指導狐は慌てて引き戻した。
そのふたりの傍を通りかかった老婆が、目を細めて言った。
「ほう。これは、また、なんて可愛らしい。」
「知ってる。」
ぶすっと答えたソウビに、老婆はほほほと笑いだした。
それから、しわだらけの手を伸ばして、ゆっくりとその髪を撫でた。
「可愛らしい上に面白いお子じゃ。
よい方に出会えて、この婆の寿命も伸びましたのう。」
「そうか、よかったな、婆さん。」
ソウビは大人しく頭を撫でられながら、老婆に言った。
「俺の妖力を分けてやるから、せいぜい長生きしろ。」
「わっ、ちょっ。」
指導狐はあわててソウビを引き戻した。
老婆は、妖力、というのが聞こえなかったのか、それとも、あまり細かいことは気にしない性質だったのか、ほほほと笑いながら、手を振って行ってしまった。
そのふたりの耳に、また別の方向から噂話が聞こえてきた。
「おや、よく見ると、御付きの随身も、なかなかな美形じゃないか。」
「ほう。これは、まるで、狐に化かされているようだな。」
そうだよ、狐に騙されているんだよ、と言いそうになるソウビの口を、今度は指導狐はうまく塞いだ。
「こら、ソウビ。
そういちいち全部正直に反応していては、情報収集もできないだろう?
お手本を見せるから、お前は少し黙って見てろ。」
指導狐に言われて、ソウビはしぶしぶ、黙ってついて行くことにした。
指導狐は道行く娘の集団にいきなり声をかけた。
「そこの綺麗なお姉さん方。
ちょっとお話ししてもいいですか?」
「え?あたしたちに?なにか御用かしら?」
色めき立つ娘たちに、指導狐はとっておきの微笑を向けると、話し始めた・・・
と、しかし、このときは、これ以降のソウビの記憶はない。
気が付くと、夕焼けの街道で、指導狐の背に負われていた。
「あ?あれ?俺、眠ってたのか?」
「ああ。そりゃあ、もう、ぐっすり、とな。」
指導狐の機嫌は悪くはなかった。
ほんのりと酒と脂粉の匂いがしていた。
「眠ったりして、悪かった、のかな?」
「いや、そう悪くはなかったな。」
指導狐はそう言って笑った。
しかし、それ以降、人の里で人の姿になることを強要されることはなくなった。
よほどむいていないと、匙を投げられたのかもしれない。
ひとりでお役目をこなすようになってからも、ソウビはあえて人の姿になろうとはしなかった。
大きなからだは物陰に隠れるにも不便だし、脚力も跳躍力も、狐の姿のほうがずっと上だ。
人の姿でなければ使えない術もあるが、妖物退治ごときにそんなものを繰り出すまでもない。
情報収集も、人に話しかけるより、物陰に隠れて噂話を収集するほうがいい。
だいたい、話しかけたところで、人は余計な話しばかりするし、そいつらから、必要な情報を聞き出すなんて高等技術は、一生できるようになる気がしない。
しかし、狐の姿であっても、ソウビはなかなかに目立つ美狐だった。
白狐というが、たいていは、真っ白というわけじゃない。
なんとなく、白っぽいとか、ほんのり、白みがかっているとか。
けれど、ソウビの白は、まったくの白だ。
白銀といってもいい。
それは、ありとあらゆる光を反射して、きらきら眩しい白だった。
まだ新米だったころ、何度か、狐の姿で走っているところを、人に見られてしまったことがあった。
それはたいてい、幼い子どもであることが多かった。
幼い子どもというものは、まだ、それほど人の気を多く発しないので、うっかり警戒しそこねるのだ。
ほとんどたいていの子どもは、ソウビを指さしてこう言う。
あ、なんか白いのがいる!
狐がいる、と言われたことはない。
狐の姿より、白という色のほうが、自分を表しているのだとソウビは思った。
ソウビの白は、とにかく目立った。
昼間はもちろんのこと、夜でも目立った。
闇に溶け込むことも不可能。
闇とは一番、相容れぬ色だ。
うっかり見つかって騒ぎになるのも面倒だ。
それゆえに、ソウビは移動はいつも草叢のなかだ。
初めてひとりでお役目をこなしたあのときから、それは変わっていない。
草叢のなかを移動していたからこそ、あのとき、あの花とも出会ったのだ。
そう。
あのとき、あんなふうに、自分が、あの花を見つけたりしなければ。
花は、今も、平穏に咲いていたのだろうか・・・
あの花の運命を変えてしまったのは、ソウビ自身だった。
ソウビはあの花にとっては、仇も同然だろうと思う。
なのに、あの花のことは、ずっと心から離れなかった。
あの花にこんなに心を奪われているのは、ソウビというのが花の名だからなのだろうか。
ソウビにソウビと名づけたのは、族長だった。
両親は、郷のなかでも有名な白狐だった。
初孫を見に来た族長は、真珠のように純白で美しい仔狐に、目を奪われたそうだ。
その場で、ソウビには、ソウビという名がつけられた。
どうせなら花の名より、もう少し強そうな名前のほうがよかったのにと、幼いころ、ソウビは思っていた。
しかし、ソウビの花を実際に目にしたときから、この名もそう悪くはないと思うようになった。
郷の花園には、ソウビの花もあった。
ソウビの花をソウビに教えてくれたのも族長だった。
初めて見たとき、綺麗な花だと思った。
この花なら、強そうだとも思った。
周囲の者は、みな、ソウビの美しさを誉めそやした。
幼いころから、ソウビは、自分の美しさを十分に自覚して成長した。
いやそれは、少し、自覚しすぎなところもあった。
ソウビは、この世に自分より美しい者はいないとすら、思ってしまっていた。
何を見ても、ソウビはそれほど感動しない。
水鏡にうつる己の姿のほうが、何倍も美しいと思うからだ。
ソウビの美しさを否定する者は、郷にはひとりとしていなかった。
望まずとも、ソウビの美しさには、有象も無象も魅了された。
しかしそこで、その力で心を操ろうとは思わない辺りが、ソウビのソウビたる所以でもあった。
折角の美しさも、ソウビにとっては煩わしいだけだった。
いっそ誰からも見つけられずに、ひっそりと巣穴に籠っていたい。
美しさに相乗するように、ソウビの妖力は郷でも段違いに強力だった。
けれども、その力を使うのは、族長に無理やり頼まれたときだけだった。
望めば郷を支配することすら可能だろうけれど、ソウビは一切望まないのだった。
***
あの花の場所へは、迷わずに辿り着いた。
この場所を忘れたことはなかった。
夢のなかで、何度も何度も訪れた。
それは、生まれて初めて、ソウビが、自分よりも美しいと思ったものだったから。
妖花は、狂っていた。
狂おしいまでに咲き乱れ、辺りに瘴気をまき散らしていた。
狂いながら、少女は泣いていた。
赤い涙は、あの日、ソウビが零した血の色だった。
少女の前で、ソウビはするすると人の姿になった。
妖物と戦うときにも、人の姿になったことはなかった。
狐の姿のままでも、一度も苦戦したことはなかった。
けど。
これは。
人の姿でなけりゃ、できない呪法だからな。
「すまないな。あんたをこんな姿にしたのは、俺だ。
それなのに、元に戻してやることもできない。」
ソウビは、感情の伺えぬ冷ややかな声で淡々と言った。
少女を見据える金色の瞳孔は、すっと縦にすぼまった。
少女の足元からは、鋭い棘を持った黒い蔓が、うねうねとソウビの隙を伺っている。
禍々しいその蔓に強烈な一撃を受ければ、ソウビとて無事ではいられないだろう。
「せめて、一瞬で終わりにしてやる。」
ソウビは刀印を口元に添えて、呪を唱え始めた。
金色の瞳が輝き、白銀の髪はふわふわと波打った。
やがて、呪は完成し、妖力の集中した指先は、眩しい光を放つ。
指先を光の短刀に変えて、ソウビは一撃で妖花の根を断ち切った。
根を失った妖花は、立っていられずに、くらりと倒れかかる。
それをソウビは全身で受け止めた。
妖花の棘は、容赦なくソウビを襲った。
それにソウビは、ただ耐えた。
抵抗はしなかった。
もうこれ以上、少女に苦しい思いはさせたくなかった。
ソウビの流した血は、その白銀の髪を朱に染めた。
いつの間にか、ソウビは、くくく、と声を漏らして笑っていた。
「もう今さらだからな。
俺の血がほしいなら、いくらでもくれてやる。
だから、お前の気の済むようにしろ。」
あのとき、この血を、零したりしなければ。
いや、あのとき、自分が、この花を見つけたりしなければ。
手を伸ばしたりしなければ・・・
「ごめんな。
苦しいよな。
お前はなんも悪くない。
悪いのは、みんな、俺だ。」
謝りながら、なのに、ソウビは今、幸せだった。
容赦なく棘に突かれ、引き裂かれても、この腕を解く気にはならなかった。
ああ、そうだ。
あのとき、俺は、本当は、こうしたかったんだ。
断末魔の悲鳴を上げる妖花を、血まみれの腕のなかに抱きしめて、ソウビは思った。
お前を連れて帰りたかった。
俺のものにしたかった。
たった一輪、ひっそりと咲いていた花を、手折ろうとしたのはこの俺だ。
痛みは感じない。いや、嘘だ。全身、痛い。
けれど、この痛みすら、今は、甘美に感じてしまう・・・
「すまない。
けど、お前を救う方法はこれしかないんだ。
これからは、お前のことは俺が全力で守るから。
だから、俺と、一緒に来てくれ。」
誰かに何かを望んだのは、これが初めてだ。
ソウビの周りの者はみな、ソウビが何かを望む前に、なんでもソウビに与えてしまうから。
ソウビはずっと、何かをほしいと思うことがなかった。
何かをほしいと思うのは、これが最初で最後。間違いない。
ソウビはひとつ深呼吸をすると、呪法の最後の仕上げにかかった。
「汝に名を授けよう。
ウバラ。
この名を受け取り、我がしもべとなれ。」
声に呪を乗せて、耳元で囁く。
「あ。しもべってのは、一応、そういう呪文だからってだけだから。
心配いらない。俺はべつに、あんたを召使みたいにしたりはしない。」
思わず言い訳を付け足してから、いやでも、彼女が家にいて、料理をしたり、いろいろしてくれたら・・・などと想像してしまう。
脳裏に浮かんだ甘い想像に、思わずだらしない笑顔になりそうになったが、ぎりぎりのところで我に返った。
いつの間にか棘の攻撃は止んでいた。
呪の光を浴びて、少女の赤く染まった衣は、白く、浄化されていた。
真っ黒に塗りつぶされていた眼窩には、青白い瞼が見えた。
けれど、その瞼は固く閉ざされ、少女は呼吸をしていなかった。
「え?
ウバラ?」
少女の青白い頬を叩いて、ソウビは叫んだ。
「目を覚ませ。
頼むから。逝くんじゃない。」
けれど少女の反応はなかった。
妖花になって暴走していた少女のからだは、強い負荷がかかってぼろぼろになっていた。
それはソウビが想像していたより、ずっとひどい状況だった。
「え?俺、余計な攻撃とか、してないよね?
根っこ、切っただけだよね?
あれやらないと、植物が元になった妖物は、持って帰れないからさ?」
尋ねても返事はない。
ソウビは焦った。
生まれて初めて、この上ないくらいに、焦った。
「ちょ、え?
こんな場合、どうしたらいいんだ?
じっちゃん?って、じじいに聞いてどうする・・・
だいたい、今ここに、じじい、いないから。
いや、やっぱ、根っこ、掘り返すべきだった?
って、あの状況じゃ、それ、無理過ぎでしょ?
いや、そうじゃなくて、
あああ、もうっ!」
がばり。
ぐったりした少女のからだを掻き抱き、ソウビはいきなりその唇に口付けた。
それから、息と一緒に、ありったけの妖力を吹き込んだ。
「俺の命をあげる。
だから、君は、死なないで。」
祈りを込めて、少女を抱きしめた。
***
・・・ぽとり。
ぽとり。
ぽたぽたぽた。
じゃあああああ。
「うわっ!」
ソウビはびっくりして飛び起きた。
その瞬間に、鼻から水が入って、盛大に咳き込んだ。
髪がずぶ濡れだ。
ついでに着物もずぶ濡れだった。
「へ?」
我に返って隣を見ると、そこにいたのは、色の白い可憐な少女だった。
「え?」
少女は飛び起きたソウビに驚いたように目を丸くしていた。
けれどすぐににこっとすると、手に持っていた桶を、いきなりソウビの頭の上でさかさまにした。
「うわっ!
えっ?なんで?なんで水、かけんの?」
ずぶ濡れになって抗議するソウビを、少女は不思議そうに首を傾げて見る。
しかし、首を傾げたいのはソウビも同じだった。
「え?ちょっ、なんで?
俺、花じゃないんだけど?
うへっ、つべたっ。
ふぇっ、ふぇっ、ふぇぇえくしょい!」
濡れた着物が気持ち悪くて、肌から引き剥がそうとすると、余計に冷たさを感じる。
思わず盛大なくしゃみが出た。
「ねえ、今ここで、これ、脱いでいい?
って、やっぱ、まずいかな・・・」
ぶつぶつ呟きつつ、あんまり冷たくて、もう一度くしゃみが出た。
「これじゃ、風邪、引いちまう。
って、あ、そっか。風だ。風、風。」
日頃あまり妖術を使っていないのが、こんなところであだになった。
ソウビは風を起こせるのを思い出すと、いきなり妖力全開で風を起こした。
「って、うわっ、やばっ。
ちょ、ウバラ?
って、ウバラだよね?
あああ、もうっ、ウバラっ!
飛んでっちまうから、俺につかまって!!!」
強い風に吹き飛ばされそうになるウバラを、慌ててひっつかんで、ソウビは悲鳴を上げた。
ウバラのほうは、最初は風に驚いたものの、すぐに楽しそうに、きゃきゃきゃきゃきゃと笑い出した。
「えっ?ちょっ?楽しいの?
いや、でも、危ないから。
うばらーーーっ!」
ソウビの悲鳴は、ソウビが自分の妖力を調整することを思い出すまで続いていた。
***
ソウビがウバラを連れて郷に帰ると、族長がにこにこと出迎えてくれた。
「おう。これは愛らしい使い魔じゃ。」
「使い魔とか言うな。
ウバラはウバラだから。」
「ウバラと名づけたのか?
薔薇に薔薇と名づけるとは、なんとまあ、わしの孫は単純明快。」
かかかかか、と笑う族長を、ソウビはわずかに頬を染めてにらみつけた。
「いいだろう?
ずっと考えてた名前なんだ。
それしかないって思ったんだから。」
「そうかそうか。
時間はたっぷりあったのだから、もう少し凝った名前にするかと思ったが。
見た瞬間に思いついた名をつけてしまうのは、血筋かのう?」
「・・・って、それって、あんたのことか?じじい。」
もう一度にらんでから、はっと気づいた。
「てか、じじい、あんた、俺がウバラのこと、連れて帰りたいって思ってたの、気づいてたのか?」
「気づかぬはずはなかろうて。
ばればれじゃ。」
ほっほっほ、と笑う族長に、ソウビは思い切り渋い顔をした。
なんだかこの狸じじいには、昔から掌の上で転がされている気がする。
狐だけど。
「それにしても、ウバラか。可愛いのう。
今度わしの館においで?お菓子もたんとあるぞ?」
「って、じじい、子どもかどわかしてるみたいだから、やめろ。」
ソウビは族長の手からウバラを取り返すと、そのまま、ずいずいと巣穴に戻った。
「ちょっと待ってな。」
巣穴に潜り込もうとするウバラを引き留めて、ぱちん、と指を鳴らす。
すぐに狐の巣穴は、人の子の家のようになった。
「しかしこれじゃふたりには狭いな。
少しずつ拡張するか。」
いやしかし、狭けりゃ狭いで、密着できていいという話しも・・・
そんなことを考えかけて、あわてて打ち消した。
家に戻って安心したソウビは、ようやく人型を解いて、元の狐の姿に戻った。
ウバラは狐の姿のソウビを見ても驚かずに、むしろ喜んで抱き上げると、頬ずりしてくれた。
ちょっと、このままずっと、狐のままでいようかな、と思ったソウビである。
ウバラは疲れたのかそのまま横になると、すやすやと眠ってしまった。
狐の姿になったソウビは、抱き枕よろしく、ウバラの腕にがっしりとつかまっている。
「ちょ、俺、枕じゃないんですけど?
人形でもないんですけど?」
ひとり焦りまくるソウビの声は誰も聞いていなかった。
どうあっても逃げられないと観念したソウビは、そのままそこで眠ることにした。
ウバラの寝息は、すぅすぅ、というより、ぷぅぷぅ、に聞こえる。
安心しきったように眠るウバラの寝顔を見つめながら、そんなことを思った。
「なあ、ウバラ。
俺はお前のこと幸せにしてやる自信はないんだけど。
お前がいれば、俺は世界一幸せになる自信があるよ。」
寝顔にむかってそう言うと、そっと、鼻先を伸ばして、ウバラの鼻にぺたりとくっつけた。
薔薇の鉢植えを蹴倒したら、棘が刺さって血が出まして。
そのときに思いついたお話です。
転んでもただでは起きない、は、こういうときに正しい用法でしょうか?
読んでいただきまして、有難うございました。