夜会
一部、流血を思わせる表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
会場の出入り口でヴィンセントはリリエルを見付けた。
柔らかな黄色のドレスを身に纏い、エメラルドグリーンのアクセサリを身に着けたリリエルにしばし見惚れる。
侯爵夫人として凛と佇むその姿は、ヴィンセントに誇らしげな気持ちを与えた。
「すまない、待たせたな」
「ちっとも。先程着いたばかりでしたの」
リリエルの笑みが眩しくて、ヴィンセントは顔を赤らめた。
「リリエル……綺麗だ」
本当ならスマートに褒め称えたいが、胸が詰まりそれ以上言葉が出て来ない。
そんな夫にくすりと笑い、リリエルはヴィンセントの腕に手を添えた。
「貴方も、誰よりも素敵よ」
小さな、だがヴィンセントに聞こえた微かな声。
お互いに微笑みあって、二人は会場へと入って行った。
♠✦♠✦
会場内は既に沢山の人で賑わっていた。
二人は顔見知りに挨拶しながら奥へ進んで行く。
やがて王族が入場する時間になり、人々の視線はそちらに注がれた。
リリエルは王太子クロードのエスコートで入場した王太子妃ミリアリアに注目した。
ゆったりしたドレスを身に纏い、ゆっくりとした歩調で壇上に上がる妃殿下を見て、思わず笑みが溢れた。
国王が手を上げると、辺りはしんと静まり返った。
「皆の者。今日は多忙の折こうして集まってくれた事に感謝する。
早速だが、王太子クロードから皆に知らせがある」
国王が振り返ると、クロードはミリアリアを伴い一歩前へ歩み出た。
「今日は皆に報告がある。我が愛する妃であるミリアリアが、めでたく懐妊した。
安定期に入るまで慎重にしたかった為この日まで伏せていた事を詫びる。
産まれてくる子はゼノン王国を担う大事な子である。
これからも我々をどうか支えて欲しい」
クロードは胸に手を当て、一礼する。
ミリアリアもドレスの裾を摘みカーテシーをした。
それからはわっと歓声が上がり、辺りは拍手で包まれた。
「執務室では全く隠せてなかったけどな。毎日にやにやにやにやしてたよ」
拍手をしながらヴィンセントはリリエルに耳打ちした。
耳にかかる吐息と、低音ボイスにリリエルはどきりとする。
「さぁ、王太子殿下と妃殿下に挨拶して帰ろう」
柔らかな笑みを浮かべ、ヴィンセントは手を差し伸べた。
「国王陛下もですよ。もう、せっかちですわ。
まだご挨拶してない方もいらっしゃいます。辞するのはきちんとご挨拶してからです」
「そうだったかな?……早く帰ってリリエルを補給したいよ」
再び耳元で囁かれ、リリエルは心臓が飛び跳ねた。
「も、もう!ご挨拶は大事な社交なんですからね!冗談言わないで行きますよ!」
「すまないすまない。では行こうか、奥さん」
軽く言いながら歩きだした二人は、自分達を見ている人物がいる事に気付かなかった。
♠✦♠✦
一通り挨拶を終える頃にはダンスが開始される頃になっていた。
「美しき我が妻よ、お手をどうぞ」
ヴィンセントが恭しく手を差し出すと、リリエルはそっと手を重ねた。
二曲続けて踊った後、ダンスフロアから抜け出し一息つく。
「リリエル、喉渇いてないかい?何か飲み物を取って来よう」
リリエルを壁際のソファに座らせると、ヴィンセントは果実水を取りに行った。
その先で出会った人物は、嬉しくない人だった。
「お会いしたかったですわ、ヴィンセント様」
媚びた声に肌が粟立つ。
それは真っ赤なドレスを着たシェリル・マッケインだった。
「私に何か用ですか?」
ヴィンセントは紳士の笑顔を貼り付ける。
最大限に警戒し、雰囲気で威嚇したがシェリルは構わずヴィンセントに近寄って来た。
「ヴィンセント様、私を愛人にして下さらない?
あのときは断ってしまったけれど、あなた結婚なさったでしょう?
だからあなたの愛人になってあげるわ」
うふふふと不気味に笑いとんでもない事を言い出す女──シェリル・マッケインにヴィンセントは背筋がゾッとした。
自分はこんな得体の知れないモノに懸想していたのかと吐きそうになった。
「あの時は断ってくれてありがとう。今の私には妻以外に時間を取る余裕が無くてね。
愛人希望なら他をあたってくれ」
身体を寄せて来たシェリルに貼り付けた笑顔で答える。
思わず避けるとシェリルは一瞬苦々しい顔をした。が、すぐににっこりと笑った。
「そう。残念だわ」
意外にアッサリ引いて行ったが、何とも形容しがたい不気味さを残していった。
一度リリエルの元へ戻ると、リリエルはマリアと談笑をしていた。
果実水を渡すと「ありがとう」と微笑まれ、ホッとする。
先程の嫌な気持ちが一気に幸福に上書きされていくのを感じていた。
リリエルは暫くマリアと集まって来た友人と談笑していると言った為、ヴィンセントは一人社交へ赴いた。
先程の事もあるし、片時も離れたくなかったが「マリアもいるから大丈夫よ」と送り出されたのだ。
しぶしぶではあったが、挨拶は大事と言われれば引くしかない。くれぐれもよろしく頼むとマリアに託した。
予想以上に友人達との歓談が盛り上がり、そろそろ戻ろうとするヴィンセントを使用人が呼び止めた。
「フォルス侯爵、アベル・フェーヴル様から内密な話があるので休憩室へ来て欲しいと伝言を預かりました」
「アベルが?……どちらに?」
アベルにしては珍しいとは思いながら使用人に着いて行く。
案内された扉をノックして中に入った。
途端に甘い匂いがヴィンセントを包み込む。
しまった、とすぐに鼻と口を塞いで扉の外に出ようとしたが力が入らずその場に座り込んだ。
それはいわゆる媚薬の類だった。
「……ぐっ……ふ…」
香として焚かれ、その効果は瞬く間にヴィンセントの身体中を駆け巡る。
呼吸は荒くなり身体中が熱を持つ。
ふと、部屋の中の気配に気付けば誰かいる。
背中につぅ、と汗が伝った。
本能的にもこの状況はかなりマズイと心臓が早鐘を打った。
誰かはゆっくり近付いてきた。
時折抗い難い衝動が襲って来て、ヴィンセントを誘惑するがそれに負けたら未来が終わる。
ヴィンセントは理性を総動員させて荒い呼吸をしながら辺りを見回し、見付けた花瓶を床に叩き付けた。
ガシャン!という音に立ち止まった相手の隙を突き、欠片を握り締めると、自身の大腿に突き刺した。
「ぐ……あああ」
痛みにより少しずつ頭が覚醒していく。
暗くて誰かは結局分からないままだが、目の端に映る真っ赤なドレスの裾を確認しながら肩で息をする。
怯んでいるのか、相手はこれ以上近寄って来ないのを見ると、よろよろと立ち上がって部屋を出た。
「──っ、影、いるんだろう…!?
アベルに報告しろ!それとうちの護衛のロイドを呼んでくれ」
その声に動いた気配を感じる。
ヴィンセントはアベルから今日の配置を聞いていたし、マリアからの偵察兵がいたのも気付いていた。
もう一人いる気配を認め、先程の部屋から離れた廊下で一人衝動をやり過ごす事にする。
「リリエル……心配するかな…」
礼装を真っ赤に染め、荒く息をするヴィンセントの顔色は悪い。
痛みと媚薬の衝動から気を逸らす為、懐からハンカチを取り出しぎゅっと握った。
それは、再婚約をした時に誕生日プレゼントとしてリリエルから貰ったヴィンセントのイニシャルと侯爵家のモチーフが入った刺繍入りのハンカチだった。
あの日以来どんな時でも肌身離さず持っている。
もっとも汚すのは嫌だった為お守りのようなものだ。
「迂闊だった……」
初歩的な罠に引っ掛かるとは情けないと、己を責め立てる。
自分には影が着いているからと慢心してしまった。
幸い部屋の中にいた人物はヴィンセントを追って来ない。
休憩室での事なので噂にはなりにくいが、影達の動向には口を挟めないだろう。
想定できる最悪の結末を想像して、ヴィンセントは呻いた。
少しして、影に呼ばれたロイドが廊下を走って来た。
「ヴィンセント様!?………これはっ…!」
大腿から血を流し、荒く息をする主を見てただならぬ事態だと察知したロイドは、一緒に連れて来た部下に指示して周囲を見張らせ自身はヴィンセントを担いで馬車に乗せた。
応急処置で止血はしたがヴィンセントは短く息をして苦しそうにしている。
「ロイド!ヴィンセント様は……っ!ヴィンセント様は大丈夫なの!?」
「奥様、いけません。今旦那様の近くに行くのは危険です!」
「でもっ!怪我してるって!ヴィンセント様!」
影が探し出して途中で合流したリリエルは取り乱しヴィンセントの側にいたがったが、リリエルの名誉を守る為ロイドは反対し、自身が同乗した。
「ロイド卿、行って!リリエルは私が引き受けます!」
「すみません!お願いします!」
慌ただしくヴィンセントを乗せた馬車が出発しても、リリエルは動転したままだった。
「マリア!マリア、どうしよう!ヴィンセント様が!!」
「リリエル、落ち着いて。深呼吸、そう、いいわよ。
大丈夫よ、フォルス侯爵はヤワな男じゃないわ。
しっかりしなさい、侯爵夫人」
マリアは泣きじゃくるリリエルを叱咤し、フェーヴル家の馬車に乗せ、侯爵邸に着くまで親友を励まし続けた。
侯爵邸に着くとばたばたと使用人たちが走り回っていた。
ロイドが支え、ヴィンセントの部屋に連れて行くと、予め部下が呼んでくれていた侍医が待機していた。
「ほっほ、こりゃ媚薬でも盛られたかのー」
と笑いながら慣れた手付きでまず大腿の傷の処置をする。
「ほれ、気付薬じゃ。無理でも飲みなされ」
「うぐぇっ……がはっ……」
見るからに苦そうな薬を無理矢理突っ込まれ水を飲ませられる。
「げほっ……相変わらず荒療治だな…」
「嫌なら媚薬なんぞに引っ掛からんことです」
ひょっひょっと笑いながら侍医は医療道具を仕舞っていく。
「これから熱が出るだで。しっかり寝る事ですぞ」
「大人しくしておくよ」
侍医が部屋を出ると、ロイドも一礼して辞した。
はぁ、と大きく溜め息をつき、ベッドに横になった。
侍医お手製の気付薬の効き目は抜群で、媚薬の効果はもう無い。
窓の外をぼんやりと見ていると、ロイドと入れ違いにしてリリエルが入って来た。
「ヴィンセント様…」
ヴィンセントの無事を確認したリリエルは、はらはらと涙を流した。
「リリエル……泣くな……」
「泣くなと言うならこんな無茶しないでください」
目を真っ赤にした彼女の頬に伝う涙を指先で拭う。
「……君を…泣かせてしまったな……。すまない……リリエル…」
「これはっ、目から出てる汗です!泣いたわけではないです…」
「お父上との約束一つ守れない…。
見え透いた罠に引っ掛かって…。
………はは、情けないクズだよ、俺は……」
ヴィンセントは己の不甲斐なさに奥歯を噛みしめた。
「大丈夫です!守れてます。そんなに自分を責めないで……」
リリエルの瞳から溢れるものを、震える指で拭いながらヴィンセントは目を細めた。
やがてその手は頬を撫でる。
「リリエル……
俺は赦されていいのか…?
本当の夫婦になると言ったけど、こんなになってしまったのも、誰かが赦さないからじゃないか、って…」
リリエルは戸惑うヴィンセントの手に自身の手を重ねた。
もうリリエルは過去の過ちなんて気にしていなかった。
思い返す度痛むものはあるけれど、彼の一途な行動を見てきていつまでも責めたく無いし、ヴィンセントにも自分を責めてほしくない。
それよりも今と、これから先過ちを繰り返さないようにしてくれたらそれで良いと思った。
「バカね…。私はもうとっくに赦しているのよ?」
「リリエル……」
「私はあなたと一緒にいたい。今日も、明日も、その先も。
過去は変える事はできない。でも反省してるなら赦します。
誰が赦さないと言っても、私は貴方を赦します。
だから……この先二度と他の女性に行かないで……」
とうとうリリエルは、両の眦から止めどなく雫を溢れさせた。
「行かないよ。君だけを見てる。触れたいのも、触れて欲しいのもリリエルだけだ」
上半身を起こしたヴィンセントは、リリエルを抱き寄せた。
その頬に伝うものを拭い、瞼に口付けを落とす。
それから二人は見つめ合い、どちらからともなく唇を寄せ合った。
それは胸の奥から湧き上がる多幸感で二人を包む。
唇を離したあとは顔を赤くして微笑み合う二人がいた。
そして、リリエルは何度か目を泳がせ、意を決してヴィンセントの耳元で何かを囁くと、ヴィンセントは顔を真っ赤にして破顔した。




