ヴィンセントの異常
「マッケイン伯爵家が関わっている可能性がある。部下に詳細調査を依頼している。直に尻尾を出すだろう」
アベルは調査報告書をばさりとクロードの執務机に広げた。
西部地域から隣国に人が不自然に流れていると報告があり、秘密裏に調査していた。
「そうか。引き続き頼む」
大変真面目な話をしているはずなのに、クロードの表情を見てアベルは顔をしかめた。
「殿下。クロード殿下。顔に締まりがありません。正して下さい。気持ち悪いです」
アベルがドン引きするのも無理はない。クロードはにやにやによによした顔をしていた。
目の下にうっすらと隈はできているが、それが気にならないほどのいい事があったのは明白だ。
が、非公式の為まだ一応これでも秘密らしい。
アベルにはその理由が分かっていた。
王太子の護衛として私室や寝室の扉の外に配置された近衛騎士とは別に、天井裏、窓の外、死角が無い様に王国の影を配置しているのは他ならぬアベルの采配である。
部下の話から察するに、何やら妃殿下が医者から、とある診断を受けたらしい。
その話は昨夜夫婦の間で共有された。それ以来クロードが朝からずっと、昼間でもにやにやしている。
そうなると理由は一つしか無い。
安定するまで秘匿する理由にも頷ける。
「すまない。いや、慶事だからな。………あ、やべまだ秘密だった。ちょっとお前達耳を削ぎ落としていいか?」
「影でもやらないような物騒な事言うの止めて下さい!あー、けどおめでとうございます?」
アベルは上司の浮かれっぷりに呆れつつ、祝いの言葉を述べた。
「ありがとうアベル。お前よりは遅くなったけどな。いやぁ、俺もついに……ムフフ」
「うっわこっわー。どこまで知ってんのこの人。ほらヴィンセントも」
そう言われたヴィンセントは、呆然としている。
目の下に隈を作り、アベルとクロードの会話は聞いていたのかいないのか。
最近の彼の様子に二人は戸惑っていた。
「最近、眠れてないのか?」
「……あ、あ…うん。でも大丈夫だ」
歯切れ悪く否定する友人に、アベルはカチンと来た。
「そんな顔してたらリリエルが心配するだろう。何があったんだ」
いつもならあまり気にしないが、この日のヴィンセントは様子がおかしかった。
聞き流すような言葉も、気遣う言葉も、何故か責められているように感じる。
「待て、様子がおかしいぞ」
クロードは冷静に観察し、異常を察知した。
「………あ…リリエ…ル…………俺、おれは……………」
突然頭を抱え崩折れる。
目は虚ろに、身体も震えていた。
「医者を!早く!!」
クロードは侍従に叫び、ヴィンセントに近寄った。
「おれ…は……泣く……な、すまない」
ぶつぶつ言いながら正気を失って行くのを、クロードとアベルは呼び掛けながら見ている。
ただならぬ気配に扉の外で待機していたヴィンセントの護衛であるロイドが入室した。
医者を呼びに行った者に聞いたらしい。
「──失礼、ヴィンセント様!!」
ロイドはヴィンセントの頬を張った。
「──…ッハ!!!?」
虚ろだった瞳に光が宿る。
息をするのも忘れていたのか、正気に戻ったヴィンセントは浅い呼吸を繰り返した。
「これはどういう…」
ヴィンセントの呼吸が落ち着くのを待って、クロードは口を開いた。
「洗脳のようなものだと医者は言っています。
リリエル様の泣き顔を忘れないように、自身をずっと戒めて…」
「ハァ!?なにそれ?」
アベルは大きな声を上げ、呆然とするヴィンセントの代わりに口を開いたロイドに詰め寄った。
愛する人と結婚して一年経過して、幸せいっぱいだと思っていたのだ。
それがどうしてこうなっているのか、憤った。
「何かの記憶を引き出す時婚約破棄時のリリエル様の泣き顔を思い出して自身を戒めていました。それが徐々にヴィンセント様を追い詰めて…。
最近では夢で魘されて夜もあまり眠れないご様子で」
つまり、ヴィンセントの記憶の引き出しを開ける度、彼はまず先にリリエルの泣き顔を思い出していたのだ。
だから引き出す度に呻いていたのか、と二人は苦い顔をした。
「ヴィンセント様はずっとご自身を責めてらっしゃいます。ご自身が一番信用ならないとも仰っていました…」
ロイドが必死に説明をする。
元々ロイドはヴァーナ伯爵家に仕えていた護衛騎士である。
リリエルが輿入れの際にヴァーナ伯に命じられ一緒に付いて来た。そのままフォルス侯爵家預かりとなり、直接の主人はリリエルだ。
ロイドにはヴァーナ伯爵に提案した通り、「自分を見張って欲しい」とお願いした。
忠義はリリエルのまま、護衛はヴィンセントに付き行動を見張る。
そうする事でリリエルの不安を払拭しようとしていたのだ。
ちなみに今回のような事は初めてではなく、「もし自分がおかしくなったら遠慮なく殴れ」と言われていた。
「……バカが。リリエルに心配かけるような事をするなよ…」
アベルは呆れたようにヴィンセントに言った。
「……俺は…最低のクズ野郎だから……。
リリエルの幸せの為に身を引けない身勝手で、傲慢で。
俺が今幸せでいられるのは、リリエルが努力してくれているおかげだ。だからもう裏切りたくない。二度と、馬鹿な真似しないように…」
「…不器用馬鹿だな…」
アベルとクロードは、ヴィンセントの性格や誠実さは知っている。
彼の、妻に対する気持ちも痛いくらいによく分かっていた。
だが自分達の知らない所で自身を追い詰めていた事には気付かなかった。
思い返せば「大丈夫だ」と力無く笑っていたなと、苦い顔をした。
「リリエルは知っているのか?」
アベルが眉をひそめて問うた。
ヴィンセントは力なく首を横に振る。
それを見たアベルは大きく溜め息を吐いた。
「何で言わないんだよ?夫婦だろ?」
「リリエルにはっ」
「心配かけたくない……。こんな、情けない姿……見せたくない……」
その言葉に、二人は肩を竦めた。
アベルは納得いかない顔をしているし、クロードも呆れ顔になった。
「奥方なら全てを包み込んでくれそうな気もするけどな」
クロードの中のリリエルの評判は主にミリアリアからの情報である。
今朝、懐妊の話はリリエルから指摘されて気付いた事を聞いていた。洞察力と物怖じしない彼女に、見た目とは裏腹に頼もしい印象を受けた。
そして、一度は裏切ったヴィンセントと結婚したくらいだし、情けない姿とかどんとこい!と受け止めてくれそうだな、と思ったものだった。
「せめて奥方の泣き顔を別の顔に上書きできたらいいんだがな」
「そうだな。蕩けた顔とかどうだ?お前にしか見せない顔を思い出すとか。
……仕事中に閨事は駄目か」
二人の提案に、ヴィンセントは遠い目をする。
「………閨事は……まだだから………」
その言葉に二人は固まった。
その言葉の意味をしっかり咀嚼して、理解する。
「信頼も無い奴に無防備な姿なんか晒せないだろ…。だから、信用できるようになるまでは手を出さないと言ったんだ」
理解した意味で正解だったと、ごくりと唾を飲み込んだ。
可哀想なものを見るような目をした二人は、先程の浮かれぶりを反省し。
目の前にいる真面目なヘタレに心底同情したのだった。
「あー、うん、ヴィンセント。君に休暇を与えよう。結婚してからろくに取れてなかったろう?なに、仕事は心配するな。アベルが頑張るから」
気まずそうにこほんと咳払いをしてアベルの肩を叩くと、アベルはぴくりと笑顔のまま固まった。
「え……、いや、俺には無理……あ、はい、すみません、ガンバリマス……」
否定しようとしたがクロードに笑顔のまま凄まれ自身の主張を取り下げた。
「君のそれが収まるまで奥方と十分に仲を深めるのだ。そして記憶を上書きして来い」
「なるべく、早めに、頼むよ」
親友二人の気遣いが、ヴィンセントは嬉しかった。
「二人とも、ありがとう……」
自分がどん底にいた時手を差し伸べてくれた二人。
過去も、これからも必要としてくれる人がいる事が有難く、ヴィンセントは己の在り方を改めて見つめ直そうと思った。
「よし、3ヶ月後に夜会を開く。ミリィもその頃には安定してるだろう。夜会用の装いを奥方と買いに行くんだ」
唐突なクロードの発言に、二人はしばし目が点になった。
「部下一人の事でそんな重要な件をぽんと決めないで下さい!」
先に正気に戻ったアベルが窘めた。
「どこかでは発表しないといけないだろう?それに王宮主催の夜会がほら、3ヶ月後にあるからここで…」
元々予定にあるからね?と言われれば二人は否やはこれ以上言わなかった。
だがヴィンセントはリリエルと出掛ける事ができると、気分は少し上向きになっていた。