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償いと戒めとトラウマ

 

「……う………ん、………っ、っハッ」


 月明かりが照らす真夜中。

 魘されていたヴィンセントは、荒い息のまま飛び起きた。

 そのままベッドから焦るように降り、廊下を隔てた向かいの部屋にそっと入る。


 そこにはすやすやと寝息を立てる、愛しい妻の姿があった。

 逸る心臓を抑えながらほーっと息を吐く。


(大丈夫、大丈夫だ。まだ、大丈夫……)


 鼓動が落ち着くのを待って妻の寝室から自室に戻る。


 すっかり目が冴え、再び眠れるまで時間がかかるな、と窓の外の月明かりを見ながら溜め息を吐いた。


 ♠✦♠✦


「ヴィンセント様、愛人は作りませんの?」


 リリエルは朗らかに聞いた。

 ヴィンセントはひゅごっと喉を鳴らす。

 愛しの、最愛の人が紡いだ言葉はヴィンセントを混乱させた。


 ヴィンセントとリリエルが結婚して1年経った。


 侯爵家の跡取りの結婚である。

 1年経ったしそろそろ子どもを、と言わないまでも周りは期待していた。

 だがその知らせはまだ言えない。

 子どもができないのも仕方が無い。


 二人はまだそういう関係に無いのだから。


 結婚初夜当時、ヴィンセントはリリエルからの信用を得たかと言われれば否であった。

 唇への口付けすら結婚式の時に触れるだけで、それも一瞬だった。


 リリエルを大事に想うあまり手を出せないヴィンセント。

 手を出されないから自分に魅力が無いと落ち込むリリエル。


 二人は大変拗れていた。


 そこへ先程のリリエルの台詞である。

 これには流石に見返りはいらないと思っていたヴィンセントの心を抉った。


 "自分はまた心変わりをすると思われている"


 それは即ち、リリエルはヴィンセントを信用したわけではないと言う事を意味していた。


「リリエル……。私は愛人は作らないよ…」


 ヴィンセントは本当は今にも泣きそうな気持ちを必死に堪えた。自分はそれを許された立場では無いのだからと言い聞かせて。


「…そう、なの…?……でも、それだと跡取りが…」

「私はリリエルとしかしたくないよ」

「えっ」


 どきりとした。

 婚姻して一年経ったがヴィンセントはずっとリリエル最優先に動いて来た。

 リリエルが不安にならないように。


 侯爵家の影を付けて行動を見張らせ、いつでもリリエルに報告できるようにしていた。

 その成果もあってか、次第にリリエルもヴィンセントを少しずつ信用できるようになった。


 それでも、一度裏切られた事実は思い出したかのように燻りリリエルを悩ませる。

 特に婚姻して、そろそろ子どもを、となると子作りできていない自分は必要無いのではとどうしても後ろ向きになってしまう。


 もしかしたら、愛人を作るのでは……


 婚約破棄前なら何も疑わずいれただろう。

 だが今は。

 "かもしれない"という思いが胸の奥に引っ掛かる。

 あの時ヴィンセントの手を取らずに新しい恋を始めていたらこんな思いをせずに済んだのかもしれない。

 けれどもリリエルはもう一度ヴィンセントの手を取った。


 好きだったからだ。

 諦められなかった。


 初めて婚約した時からヴィンセントに恋をした。

 例え最初の婚約時、ヴィンセントから義務的にしか接してもらえなくても、リリエルはヴィンセントが好きだったのだ。


 ♠✦♠✦


 二人の出会いはヴィンセントが8歳、リリエルが6歳まで遡る。


 フォルス侯爵家からの婚約の打診だった。

 一人息子のヴィンセントの相手として選ばれたのがリリエルだ。

 フォルス侯爵夫人とヴァーナ伯爵夫人は学生時代からの友人だった。

 互いの子ども達を結婚させたいね、と交した約束は、フォルス侯爵家に嫡男が、ヴァーナ伯爵家に女の子が産まれ、成就される事になった。


 親に決められた政略結婚。

 リリエルにとっては、初めての恋だった。


『はじめまして。ヴィンセントです。よろしく』

 仕方無く、ぶっきらぼうに差し出された手を、リリエルは恐る恐る取った。

 一瞬びくっと反応されて戸惑ったが、ヴィンセントも顔を赤くしてリリエルの手を少し力を入れて握り返した。

『私、リリエルって言うの。よろしくね!』

『あ、ああ……うん……』


 思い返せば色々積極的だったのはリリエルの方だったかもしれない。



 始めの頃こそヴィンセントは親への反抗心からか『この婚約に同意はしてないぞ』という態度を崩さなかったが、リリエルの屈託無さに次第に打ち解けていき、最終的には自身が安らぎ癒やされている事には気付いていた。

 それは激しい恋情では無かったが、この先何十年も続いていくなら穏やかな方が良いと思っていた。


 真面目なヴィンセントは婚約者としての義務だからと誕生日にプレゼントを贈れば、必ず返ってくるリリエルの笑顔を気に入っていた。

 リリエルもヴィンセントからの贈り物を一番の宝物だと毎年大事に仕舞い、時折眺めてはニコニコとする。

 有名なお店のお菓子の包み紙、髪飾り、ブローチ。

 ヴィンセントに会う時にはいつも身に着けていた。

『よく似合っているよ』と言われればはにかみながら笑う。


 そんな、どこにでもあるような、二人の婚約期間を経て、何事も無く結婚すると。

 周りの誰もが思っていた。



 だが結婚を直前にしてヴィンセントは他の女性に懸想してしまった。

 周りの友人達が気付き、止めはしたが恋に恋して溺れていた彼は頑なに耳を貸さなかった。


 そして、婚約を破棄してしまった。


『すまない、リリエル。君との婚約を無かった事にしてほしい。私の有責での破棄にする』


 そう言われた時のリリエルは、頭が真っ白になりぽたりと一筋の涙を溢した。


『真実、愛する人ができたんだ。すまない……』


 大好きなヴィンセントに愛する人ができた。

 とても喜ばしい事だ。

 それが自分では無かった。ただ、それだけ。


 リリエルは取り乱す事無く受け入れた。


 だが、ヴィンセントはその時のリリエルの絶望に染まった泣き顔が頭から離れなかった。

 泣き叫ぶでも罵倒するでも無く、淑女らしく落ち着いていた。

 ただ、溢れる涙をそのままにしていただけだった。


 ヴァーナ伯爵家をあとにする間も、もやもやしていた。

 何かを決定的に間違えたような。


 だがここまでしたからには戻れない。

 その日のうちに両親に話すと、ヴィンセントは父親から殴られ、母親からなじられた。


 後日両家の話し合いの際にリリエルは居らず、再び母親に叱責された。

 それでも廃嫡とならなかったのは、フォルス侯爵家にはヴィンセントしかいなかったからだ。

 近しい親戚に跡を取れそうな者もいなかった。


 両親は廃嫡はしないが懸想した相手をフォルス侯爵家の嫁として認めないと言い、領地へ越していった。


 そして。

『私愛人にならなりたかったですわ。貴族夫人なんて面倒ですもの。もう近寄らないで下さいませ』

 シェリル・マッケインはアッサリ離れて行った。



『だから散々言っただろう。ミリィだって忠告したはずだ。……バカだよ、君は』


『リリエルすごく落ち込んでいたよ。マリアに会う事もできないくらい』


 全てを失くして絶望の淵にいた彼を救ったのは、学園時代からの親友の王太子クロードと王国の影たるアベルの二人だった。

 ともすれば見捨てられて当然な行いをした彼を、二人は王太子の執務室へ引き入れた。

 ヴィンセントには類稀な記憶力があった。それを利用する為ではあるが、放っておけば消えそうな彼をそのままにもできなかった。


 リリエルが侍女のマーサを始め伯爵家の使用人に慰められて立ち直っていったように、ヴィンセントも二人から与えられる仕事をこなす事で立ち直っていった。

 クロードはミリアリアの忠告を無視したからと最初こそは冷たかったが、ヴィンセントの記憶力が存外便利だったので徐々に態度を軟化させた。


 その後アベルの計らいにより再びリリエルと再婚約できた時には、両親より先に二人に報告した。

 ヴァーナ伯爵との約束事の証人になってもらう為にクロードの元へやって来た時にアベルもいたからだが、呆れたような顔をしながらも祝福した。


『二度とリリエルを傷付けるな』と、アベル。

『次同じ事したらミリィと相談してリリエル嬢に裏切らない誠実な男性を紹介するよ』と、クロード。


 王太子の印を押された証文は、一枚はヴァーナ伯爵家へ、一枚はフォルス侯爵家へ。

 それぞれの両親の元へ届けられ、ヴィンセントは自身の両親にも頭を下げた。


『リリエルちゃんには新しい誠実な男性を紹介しようと思っていたわ』

 と母親に言われれば、間に合って良かったと心底胸を撫で下ろした。

『侯爵家の影を付けて監視して下さい。私が二度と不誠実な真似をしないように』


 こうして両親の信用を何とか取り戻し、リリエルと婚姻後爵位を譲り受ける事となった。



 それからヴィンセントはリリエルに常に誠実であるよう努めた。


 毎日王宮からの帰りにヴァーナ伯爵家へ立ち寄り、短い時間リリエルと面会した。

 リリエルが不安な表情をする度抱き締め、「ここにいる。君の側を離れない」と囁く。


 どうしても仕事が立て込んで行けない時は贈り物と共に手紙を出した。


 徐々に再び二人の仲は縮まって行き、少しずつリリエルの表情も和らいでいった。


 リリエルが自身を好きで再婚約してくれた事は奇跡以外に他なく、今の自分があれるのはリリエルのおかげだと噛みしめる。


 社交界にも二人で出席した。

 一時期婚約破棄された事でリリエルの名誉は傷付いていたが、ヴィンセントの有責である事、再び婚約できたのはリリエルのおかげだとヴィンセントが説明して回ると、「裏切られても夫を愛する健気な妻」と女性陣の同情を買い、「男を見捨てずにいた優しく度量のある妻」として男性陣に見初められリリエルの名誉は回復していった。


 誤算があったのは男性陣からリリエルの株が上がり過ぎてヴィンセントが心配になった事だ。

 元々慎ましく清楚な雰囲気のリリエルは、適齢期を迎えた独身男性から人気だった。

 婚約破棄された後釜を狙う者も少なからずいたのだ。

 それを止めていたのは傷心の娘を気遣うヴァーナ伯爵だ。

 その事に気付かなかったヴィンセントは焦った。

 夜会ではリリエルを片時も離さなかったし、リリエルも離れようとしなかった。


 互いを想い合う二人を見た社交界の貴族達は、「お騒がせ元鞘カップル」として二人を歓迎した。



 ある晴れた日。

 二人は結婚式を挙げた。


 侯爵家の結婚式としては小規模のものではあったが、リリエルの希望で親戚とごく親しい友人のみが参列していた。

 それでも新郎側に王太子夫妻が出席していれば両家は身の引き締まる思いだった。



 迎えた初夜、ヴィンセントはリリエルと向かい合わせで座っていた。


「リリエル、結婚してくれてありがとう。君には感謝しかない。この日を迎えられたのは君のおかげだ。……どうだろうか。私は少しは君に……誠実であれただろうか」


「そうですね。完全に信用したと言われれば分かりませんが、再婚約してからのあなたのは誠実でした」


 柔らかく微笑まれ、ヴィンセントはホッとして。

 膝の上で拳を握り真っ直ぐリリエルを見た。


「……リリエル。初夜ではあるが、私は君の信用を得てからしたいと思っている」


 その言葉にリリエルはハッとしたが、全てを無防備に委ねる事はまだできないと心の何処かで思っていた。

 自分の知らないヴィンセントを見せられた時、その向こう側に“あの女性”の影がチラつかないか不安もあった。

 自分も覚悟ができていないとリリエルは思い、ヴィンセントの言葉を承諾した。


 実際には何事にも発展しないまま………シェリルとの間に手を握る事すらないままヴィンセントの不実は終わっていた。


 だが『不誠実な事実』は事実なので、何の言い訳にもならないとヴィンセントは自身を雁字搦めに戒める。


 リリエルに触れる権利を得るまでは夫婦別々の寝室で眠ることにしていた。


 もう二度と愛する人を傷付けないように。

 悲しい顔をさせないように。



 結婚してからも、ヴィンセントは必死だった。



 ♠✦♠✦


 王太子クロードの執務室。

 今日もクロードは数多の書類を捌いていた。


「アベル、西部の問題はどうなった」

「相変わらずですね。隣国に奴隷として流れてるのは確実ですが、相手の隠し方が巧妙で」


「ヴィンセント、あの辺りに領地があるのは誰がいたかな」


「えー、少しお待ちを………。……ぐ。

 バレルス男爵家、リグモンド子爵家、あとは……ゔ………、…………マッケイン伯爵家です」


「マッケイン伯爵家?あの家は北部が主では」


「数年前にバレルス男爵家の領地を一部買い上げています。そこに別荘も建てられていますね」


 クロードが執務の手を止め顔を上げる。


「あの辺りは別荘を建てるような良い場所か?」


 クロードの疑問は誰もが抱くものである。

 西部は寒暖の差が激しく、別荘を構えるには向かない。気候が穏やかな南部や東部に集中している。

 そんな場所に『別荘』を構えるのはよほどのモノ好きか。


「そこに隠しているとしたら」

「怪しいな」

「しかもマッケイン伯爵家ときた」

「あれか」


 アベルとクロードのやり取りを、ヴィンセントは聞き流していた。

 彼は今、思い出す度に甦る記憶に打ちのめされている。


「ところで。お前思い出す度呻くの何とかならないのか」

 アベルが呆れたようにヴィンセントに問い掛けた。

「……自分の戒めの為なんだ。すまん」


 ヴィンセントは無意識のうちだったのでバツが悪そうに答えた。


「記憶力が良いのも難儀なものだ。未だにこびり着いて離れないんだろう」

 クロードは既に手を動かして書類捌きに集中している。


「いや、忘れないように敢えて記憶を張り付かせている。…すまない。

 マッケインの名前はあまり思い出したくないな…」


「色々制約を付けても足りないのか」


「……自分自身が一番信用出来ない」


 そう言ってヴィンセントは執務に戻り、アベルとクロードは肩を竦めた。


「アベル、とりあえずマッケイン伯爵家を調べてくれ。何か仕出かさないとも限らん」


「承知しました、我が主。やだなー、何か。ゆるーく行きたいのになー」


 ぼやきながら、アベルは執務室を出た。



「…あとでミリィのとこに行こう」

 そう呟いてクロードは今日の執務に再び集中しだした。


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