生贄っ娘、名前のせいで喰われない
「────神を討ちましょう」
少女の言葉に謁見の間にいた者達はどよめいた。
いくら王女とてあまりにも不遜すぎる言葉。取り消せ、と誰かが叫んだ。
「私たちは神に怯えています」
「何故、怯えなければならないのでしょうか?」
「言われるがままに生贄を用意し、媚びへつらう」
「本来、人間とはもっと自由な存在ではないですか」
「立ち上がりましょう、立ち向かいましょう」
「神の支配を終わらせ、人の支配へ」
「しがらみをこの手で払い除けるのです」
嗚呼、と誰かが呟いた。
王女の瞳は燃えていた。炎のように。
彼女の言葉は鋭いナイフのようなものだった。
誰もが一度は思い至るが、胸の隅へと追いやっていた希望。
そんな夢物語、と嘲笑おうとした者は彼女の表情を見て息を呑む。
そうだ、彼女は。
彼女の妹は生贄だった。
妹はもう間に合わなかった。
それでも、それでも。
繰り返さぬように。最愛の妹を喪う苦しみを他の誰にも味あわせぬように。
王女は立ち上がったのだ。
炎は伝播する。
今、ここに神を討たんとする者たちが咆哮をあげたのだった。
♢♢♢
「あぁぁ、酔う」
女はガラガラ揺れる馬車のなかで呻いた。とても観光用などではないこの乗り物は陽の光ひとつも通さない。その上、話し相手という同乗者も生憎兼ね備えておらず。ただ尻が痛い。
とうとう尻が限界になり寝転がった女────ゲジと呼ばれていた────は、いま運送されている。
Q.何処へ?
A.神の元へ。
何を隠そう、ゲジの職業は生贄だ。
0歳から英才教育を受けたプロの生贄である。
あれは、国王の娘、双子として生を受けた日。
姉は王女として教育を受けることが決まり、妹のゲジは生贄として地下牢へと閉じ込められた。
むかしむかしの何百年も前から、この御国では代々生贄を神へと捧げ、願いを祈る文化があった。言わば国家プロジェクト。娘一人が抗える訳もなく、ゲジは16歳になるこの年まで地下牢ライフを送っていたのだった。
地下牢のボロっちいベッドで眠り、たいして美味しくもない食事を取る。
たまに外に連れ出され日光を浴びる。
簡単な文字しか読めないから穴ぽこ空きまくった本を眺める。
神父みたいな男に「お前はお国のために捧げられるのだ」「名誉の元に死ぬのだ」と復唱させられる。
常人なら気が狂う一日のルーティンも、多少変人の気があるゲジにとっては大した苦痛ではなかった。たしかに、同じ顔の姉がチヤホヤされているのを見ると何となくお腹がじわっと熱くなる気がしたが、まァそれだけだ。
むしろ、理想の生贄像を持ち日々努力している時間の方が多かった。気まぐれに与えられた絵本のなかで彼女が見たのはモンスターに捕まり、ぶるぶる震える姫。目に入った瞬間稲妻が落ちたようだった。
この女……出来る!
物語の悲壮感を掻き立てる哀れな姿に生贄とはこうあるべきだ、とゲジは強く思った。そんな訳で、彼女は生贄に対する美学を日々磨き上げながら生きていた。
しかしながら、そんな彼女が一つだけ御国に物申したいことと言えば、己の名だった。ゲジ────地下牢で、うぞうぞ這っていた虫。虫から名前を付けるのはいかがなものか。
百歩譲って。あんなに気持ち悪いのに自分と同じ名前だからなんだか愛着が湧いてしまったことは良い。
だが、神はどうなのか。ゲジ、という存在を喰らう神は嫌ではないのか。生贄の健康に気をつかうのならば名前まで配慮したほうが良かったのではなかろうか。
己が神だとしよう。ささ、どうぞ。と差し出された生贄がゲジという名前をしていたら。脳裏に蠢く奴がよぎって喰うのに支障が出そうだ。
クッキー。クッキーなんて名前だったらお紅茶と一緒に美味しく喰べて貰えそうなものを。
神はそんな些末なことなど気にしないのかもしれないが……。
16年の生贄としてのプロ意識。
要らんものを育てた彼女はひっそりと肩を落としたのだった。
「アムシデネ様、此方が生贄でございます。名をゲジ。ゲジと申します。これで何卒」
ゲジは見落とさなかった。ゲジ、という名前を聞いた瞬間に目の前の美丈夫が顔を歪めたことを。
「………………」
「………………」
だだ広い更地。
使者は光の勢いで馬車に乗り込み、既に帰ってしまった。だから、今はここにゲジとアムシデネと呼ばれていた神しかいない。
何も言われないことをいいことにゲジは岩に腰掛ける神を眺めた。人間ではちょっとお目にかかれないような美しい顔を持った男。目も魂も吸われるほど美麗とはこのことを言うのだ。
だが、しかし
「私を喰わないのですか」
使者が帰ってから三十分は経ったと思われる。
そろそろ喰われるか……と目を閉じたり、寝転がったりしてみるのだが一向に喰われる気配がない。それどころか、神は目元を押さえて俯くばかりだ。
「喰って貰わねば困ります。餓死よりお役目を果たして死にたいのですが」
返事が返ってこないので、ゲジは問いかけた。こっちは身体を小刻みに揺らしたり、涙がこぼれ落ちない塩梅を維持したりと忙しいというのに。残業代を申し出たいほどだ。
「…………少し、待って」
はあ、と神がため息を吐いた。神の言葉にゲジは驚いた。もっと、こう。人間畜生には理解できない言語を操っているのだと思ったが、そうではないらしい。
それに、やっぱり名前が良くないようだ。
そら見たことか! 御国は稀代の馬鹿だ! ケーキだとか……クッキーだとかにしたらよかったのに。
これに気分を良くしたゲジはもう一度口を開いた。
「やっぱり、この名前がいけませんか。確かに思い出しますよね。あのうねるさまを」
「………………」
ゲジとしては自分の予想が当たったことを喜ぶつもりだった。そうでしょう、そうでしょうと。御国のネーミングセンスの悪さに共感してもらいたいだけだった。
別に、神を追い詰める気は毛頭なかったのだが。
「う……おえっ、ぐっ」
神は吐いた。それはもうキラキラ光る吐瀉物だった。
神も嘔吐するのだなぁ。齢16歳。ゲジは知りたくもない発見をした。
困ったことになった。アムシデネは目の前でパンをあむあむ食べている娘をグロッキーな気持ちで眺めた。
ここは神殿。とはいえ、存在するのはアムシデネと薄汚い少女だけだ。
本来ならば、ここには連れては来ない。捧げられた地で人間を喰らうのがいつもだった。
しかしながら、どうにも、アムシデネには苦手なものがあった。それが虫である。神も虫は嫌だ。生理的に無理なのだ。
ゲジ、という名前を聞いた瞬間。一番苦手な虫が脳裏をよぎった。うん百年生きても一等苦手なあの虫だ。
一度、娘とかの虫を結びつけて仕舞えばダメだった。気分的に虫を喰う気持ちになってしまう。生意気な娘がそら喰わんのか、と煽ってくるものだから喰おうとしたが吐いた。
嘔吐したのは神として生まれて初の経験だった。
「これ美味しいです」
「……さっさと食べて帰ってよ」
兎にも角にも、己はこの娘を食えなくなってしまった。次に生贄が連れて来られるのは五年後。五年も人間を食わずに生きることができるのか。
何もかもが想定外だった。
喰って、人間どもの願いを叶え、また喰う。
そのサイクルで彼のゴッド・ライフはずっと成り立っていたので想定外に弱いのだ。
「帰れ、と言われましても帰る場所がありません」
「喰われないだけマシだと思いな」
そう吐き捨てて、娘を摘みだそうとした時だった。む。と立ち上がった娘がアムシデネの手を掴む。それから大声で叫んだ。
「いえ、喰ってください!!! 私は喰われたいのです。いいですか、喰われないのはマシではありません。私にとっては最悪の事態。早く喰ってください、さあ、さあ、さあ!」
詰め寄られ、アムシデネは顔を蒼くした。
そうして押し負けて、「あと一か月」とへろへろの声で告げたのだった。
ぱたぱたと走り回る少女を目で追いながらアムシデネは、どうしてこうなっちゃったかな……と思った。娘がここに来てから三か月が経った。まだ、彼は娘を喰うことができていない。
月に一度、喰おうと頑張ってみるのだが嘔吐してしまう。それどころか娘に「いけます! いけます! がんばれ!」と応援されてしまう始末だ。人間を喰らって生きる神としてあまりに情けない。
娘はどうやら喰われることに対する恐怖がない。
今までの生贄と言えば、ブルブル震え惨めったらしく命乞いをして逃げ出そうとする者が多くを占めていたのだがまったくもってニュータイプ。一応、生贄らしい姿を見せようと頑張ってはいるようだが、大根役者。忘れっぽい。阿呆。
今も、すっかり取り繕うことを忘れて神殿の中を掃除して回っている。
アムシデネは家政婦を呼んだわけではない。
「ねえ、娘」
「ゲジですが」
雑巾がけをしていた娘が駆け寄ってくる。この妙に馴れ馴れしい態度にも慣れてしまった自分が嫌だった。
一度、名前を変えさせてみたことがある。なんの虫ならば好きですか、と問われたので「蝶」と答えた。「じゃあ、今からわたしの名前はちょうちょうです!」鼻息荒く宣言した娘の奮闘虚しく、魂にこびりついたゲジという名はそのまま残る。要は失敗だった。それ以降、上手い手を思いつかない。
「お前も何か考えてみなよ。俺に喰われたいんでしょ」
「そう言われましても……。たかが十数年生きた小童に思いつくことなど何もないといいますか」
「一々お前は癪に触る言い方をするね」
喰わないのなら殺してしまってもいい。
しかしながら……どうも、会話する相手がいるという事実が物珍しくて躊躇ってしまうのが現状だった。それに、喰うために殺すのは仕方ないが喰わないのに殺すのも己の主義に反する。
それにしても、この娘は非常に肝が据わっている。
少しでも己の機嫌を損ねれば殺される可能性があるこの神殿に我が物顔で居座っているのだ。
この前は勝手に書庫に入り込み、読書を楽しんでいた。テーマパーク扱いだ。
「パクッといってしまえばいいのですよ。目でもつぶったらどうですか」
「視界を閉ざしても脳裏に焼き付いているから無理」
「わがままですね」
やれやれ、と首を振る娘にこめかみのあたりがビキビキと鳴るがどうもできない。
人を喰わないからと言って死ぬ訳ではない。しかしながら、力が弱る。アムシデネはもう一度大きなため息を吐いて、もういやだなと生娘のように顔を伏せたのだった。
「デネさま」
「神の名を略すな」
今日とて、アムシデネはこの娘を喰えない。チャレンジはもう十を超えた。十月も神殿にいる娘はますます態度がでかくなった。最悪だ。
娘の食べ物はアムシデネが嫌々調達してやっている。餓死で死なせるのは神としてのプライドが許さなかったからだ。神殿に転がる金塊を巷で売って、市場で人間用の食い物を買ってきている。
「どうですか、わたしのハンバーグは。今回は上手くできました」
ふふん、と鼻の下をこする娘は肉塊のような何かを携えていた。時たま動く。これでも、マシになった方だ。初めの方は炭だったうえに不協和音が聞こえてきたので。
アムシデネは人間を喰らうことで力を得る。しかしながら、人間の食べ物を喰らうことができないわけではなかった。
酒程度ならこれまでも多少嗜んでいたし、味もわかる。
だからといって、娘が料理を始め出した上に己に食わせようとして来るのは驚いた。いつだってこの娘は予想の範疇を超えてくる。それでいて、不味そうな食い物を無理やり口に捩じ込んでくるのだから頭が痛い。
「……そうだね。お前が食いなよ」
「好き嫌いはダメですよ」
「…………」
何なのだろう、この娘は。
あまりにも不遜すぎないか。アムシデネはこめかみを揉み込んだ。それから、今日こそはお灸を据えてやろうと思った。
そう、力ではこの娘は敵わない。声帯でも潰してやろうか。そうしたら静かになるに違いない。
「ちゃんと、栄養のバランスを考えたんですよ。ほら、デネさまってタンパク質多めじゃないですか。人間喰うから。だから野菜多めのハンバーグですよ」
そうだ。潰してしまえ。殺すのは主義に反するが声帯くらいならば。
「?」
娘の首元に手を当てる。このままアムシデネが力を加えれば、金輪際この煩い声を聞かずに済む。
「………………擽ったいのですが?」
「はぁ…………」
この間抜けな面。
アムシデネが喰う以外で自分を害することなどないと信じて疑わない瞳。全くもって度し難い。
今日も口の中にハンバーグのような肉塊をねじ込まれ、アムシデネは敗北した。
一年と半年が経った。
デネさま、デネさま、とあいも変わらず略称で呼んでくる娘は喰えないままだ。ここまで来ると意地なので、なんとか喰ってやろうと思うのだが。先日市場に行った際に本物のゲジを見てしまったので暫くは無理そうだった。
「デネさま、これは何ですか」
「麦を取るための道具」
「魔法で刈り取るのでは?」
「昔は魔法などなかったからね」
「へえ」
娘が広げているのは巻物だ。神殿の書庫から持ち出してきたのだろう。暫くは一人で読み進めているのだが、分からない単語があるとこうしてアムシデネに聞いてくる。ロマンス小説を持ち出してきて、「愛とは何か」と問われたときは大変困った。
神を百科事典扱いとはいい御身分だ。
まァ、それはいい。譲ろう。それはいいのだが。
この娘は常識というものが所々欠けている。距離感だとか、距離感だとか、距離感だとか。パーソナルスペースというものを分かっていない。いや、それは分からなくてもいい。でも、ゴッドスペースは理解させたい。
つい先日、走り回る娘がうざったらしかったものだから片腕で固定したことがあった。
それを遊んでもらっていると勘違いしたのか、何なのか。簡単に触れてくるようになった。
今とて娘が座っているのはアムシデネの膝だ。おかしい。こんな……父と娘のような微笑ましい風景を認めたくない。己は神でコレは生贄だ。
それに、着々と料理の腕を上げているのも憎たらしい。この娘の料理の腕が上がるほどに己は喰らうことができていない、という訳だ。
「デネさま、この人は誰ですか」
「さぁ。この時代は俺も生きてはいないよ」
「はは、神でも知らないことあるんですね」
そこはかとなく腹が立ったので娘のこめかみを拳で抉る。痛い、痛いと喚くのをみて溜飲が下がった。
「デネさまは何歳なのですか?」
本を閉じた娘がこちらを見上げて聞いてくる。アムシデネは首を捻った。何歳、何歳だったか。黙ってしまった神にあわわ、と娘が慌てる。
「神に年齢を聞くと失礼だったりしますか。そんな若い女性のような感覚を持っているとは知らず失礼しま……イダダダダダダッ痛いです!」
口を開けば失礼な文言しか産まないのか。一つため息を吐いてから拳を下ろす。
「多分、三百と少し」
「この国が生まれるよりもあとなのですね。てっきり、この国を創ったのがデネさまかと」
「それはそうだろうね」
冷たさを帯びた声に今度はゲジが首を傾げる番だった。神は酷薄とした笑みを浮かべて吐き捨てる。
「逆だ」
「逆?」
「お前たち人間が俺を創った。────対価さえ与えれば願いを叶える神を」
沈黙が場を支配する。
人間は如何なる時代も変わらない。己が創り出したものに縋り、やがてその存在に怯え出す。そうして、いつか自分が創り出したその事実さえ忘れて自然のせいにするのだ。くだらない。俯いた娘にアムシデネはとびきり優しく声をかけてやった。
「可哀想だね、お前」
「え?」
「喰って貰いたかったんだろ、神に。実際は人間が創り出した不完全な化け物だ」
────可哀想に。
見てみたいと思った。神に喰われるために育てられ、それを生きる意味として縋った娘が"神ではないものに喰われる"事実に直面したその姿、その表情を。
「いいえ」
泣くだろうか。苦しむだろうか。そんなアムシデネの期待を裏切って娘はあっさり答えた。
「わたしにとっては貴方が神です。例え、貴方自身が否定したとて」
「事実は違っても?」
「まあ、正直貴方が神だろうが獣だろうがどうだってよいのですよ。生贄の代わりに国の願いを叶える存在、それにわたしは捧げられると決まっていました」
「ふぅん」
つまらなそうにアムシデネは娘の顔を見た。そこには怯えもましてや嘘の気配もしない。
「ところで、人間が創ったってことは人間のお母さんから産まれたってことですか? お母さん、相当な美人だったんですね」
「……違うよ、お前は本当に馬鹿だね」
◼️
アムシデネは人間から生まれた。とはいえ、偶々おんぎゃあこんにちはと股から産まれた訳ではない。人間の信仰から、思念から生まれたモノだ。
アムシデネがゲジや虫を嫌うのはこれに由来している。人間が苦手にしている気持ち悪いモノは人間から生まれた彼にとっても無意識に嫌悪するものなのだ。
────誰かこの国を救ってください。
────この国を守って、神様。
────供物は捧げます、どうか。
数えきれないほどの思念がアムシデネを創り上げた。生まれた神は人間たちの思う通りに生贄を対価として願いを叶えてやった。
さて、彼の存在意義は人間を喰らうことだ。願いを叶えてやることだ。どちらも、彼にとっては欠かせないことである。
────しかしながら今、彼は願いを叶えてやった一方で生贄を喰らっていない。では、その歪さはどこへと向かうのだろうか。
「デネさま?」
ゲジが此処へ来てから四年と少しが経った。
もうそろそろ次の生贄が来るのではないかしら、と気が気ではないので喰え喰えアピールを頑張っているものの依然として神が自分を喰らう様子はない。
美味しいものも食べさせてもらったし、綺麗な洋服も着させてもらった。ゲジとしてはこれ以上ない幸せな気持ちであるから、それに報いたいのだが。
柱にもたれかかって眠るアムシデネを見つめる。……最近、こうして眠っていることが多くなったように思える。最初は神にも寝不足という概念があるんだなァとほけほけしていたゲジだが、こうも続くとなるとおかしい。
「起きてください」
揺するとゆっくりとまなこが開かれる。
ああ、よかった。何に対しての安堵か分からないままホッとする。
「────え」
ぐい、と引っ張られそのまま身体を拘束される。痛い、と感じる間も無く首筋に鋭い歯が突きつけられた。
驚いたゲジだったが、どこか冷静な自分が「ああ、今日なのか」と囁く。やっと、やっと喰べてもらえる。抵抗もせず目を閉じてその時を待った。
「…………?」
いつまで経ってもやって来ない死。
アムシデネが動く気配がして、目を開けた。
「デネさま……?」
目の前の神は呆然としていた。唇にゲジの血をつけたまま蒼い顔している。どうして、そんな顔をするんだろう。ゲジは不思議に思って問いかけた。
「喰べないのですか? 今、いけそうでしたよ」
声をかけられたことによって目を瞬かせたアムシデネが取り繕うように嘲笑を浮かべる。
「お前がここに来て、五年の日に喰べるよ」
初めてだった。アムシデネが具体的な日時を決めるのは。
「なるほど、じゃあ今のは味見だったんですね」
「…………」
「美味しかったですか?」
「そうだね、多分神気を帯びたからか今までのどの人間よりも」
「なるほど! 熟成みたいなものですね、だから五年かぁ」
嬉しい。今までアムシデネが喰べたどの人間よりも美味しいと思ってもらえたことが。
「その時は骨も、血の一滴も残さず残酷な方法で喰べてあげる」
低い声でそう言われたゲジは目一杯微笑んだ。
神が、迷子の子供のような顔をしていることにも気づかずにその日を想像して喜んでいた。
その日は晴天だった。
此処に来てからゲジは外に出たことがない。窓から見える景色を眺めて天気を判断している。
「デネさま、喰べられる前に一つお願いしてもいいですか」
「叶えるかどうかは置いておいて、言ってみなよ」
「外国に行ってみたいです」
本でしか読んだことのない世界。外国には知らないものが沢山あるらしい。それを一目見てみたいと思った。そこに、アムシデネが共にいたらもっと楽しいだろう。
そんな気持ちで話し出したゲジの期待と裏腹に神は頭を振った。
「無理」
「……すみません、生贄のくせに生意気でした……」
「その健気さをいつも発揮してくれたらいいんだけどね。そもそも無理なんだよ、俺もこの国から出られない」
「え?」
「縛り付けられているんだ」
神のくせに、と思うだろ? とアムシデネは唇の端を持ち上げた。
「じゃあ、デネさまとお揃いですね」
「は?」
「外国に行ったことのない箱入りですよ、私たち」
「ほんとに馬鹿で阿呆だね……」
嬉しそうに笑うゲジを、よく分からない生物を見るようにアムシデネが眺める。
そんな昼下がりもあったのに。
「アムシデネ、貴様に支配されるのはもううんざりだ……!」
五年の約束の前日。
あっさりと日常は崩れ落ちた。
「人間でも神が殺せることを証明してやる」
その襲撃は急だった。
この日もアムシデネは眠っていて、ゲジはその隣で本を読んでいた。最近は起きている時間の方が少なくてなんだか寂しい。
だからだろうか、アムシデネが迫り来る大軍に気づかなかったのは。
神殿が燃やされていくさまを呆然とゲジは眺める。
彼処で彼と料理をした。
彼処で本を読んでもらった。
彼処でたわいもない話をした。
轟々と燃えている。
ゲジの前には広い背中があった。凄惨な場から隠すように神が立ち塞がっている。
「デネさま……」
思わず彼の服を掴む。
ちらりと見えた横顔は余裕とは程遠いものだった。
そんななかでゆっくりと女が現れる。二人の前に立つとキッ、とこちらを睨みつけた。
「貴方がアムシデネですね?」
「……そうだけど、何?」
「妹を返してください。なんの気紛れかは知りませんが、生きていると分かった以上奪わせやしません!」
妹? ゲジは背中から顔を出して女の顔を見た。
ああ、確かに。双子の姉だ。
ゲジが生贄として育てられているあいだに、王女として育てられた姉だった。
地下牢に入れられたゲジを"本物のゲジ"のように眺めていた姉だ。
「これ以上、私たち人間から何も奪うな!」
その声にゲジのお腹が痛いくらいに熱くなる。どう表現したらいいか分からぬ。泣きたいような喚き散らしたいような気分。だが、ゲジがそれを言葉にする前に口を開いたのはアムシデネだ。
「奪う? お前たちが望んだことなのに?」
その冷たい視線に王女が一瞬怯む。しかし、後ろにいる兵士たちの熱を受けてその瞳にまた強い炎を宿した。
「戯言を……! 皆、行きなさい! 私たちが人間らしくあるために!」
「人間らしく、ね」
俺を殺しても、何百年かあとに次の俺が創られるよ。
王女は怪訝そうに眉を顰めた。しかし、その指揮は止まらない。
「デ、デネさま。大丈夫ですよね、デネさまの方が強いですよね……?」
兵士の咆哮の強さに不安になったゲジが問いかける。返事はなかった。
次々と迫り来る攻撃にアムシデネは迎撃していたが、やがて疲れが見え始める。
どうして、反撃しないのですか。
そう言おうとしてハッと気づく。
彼は人間を喰らい、願いを叶える存在。この国に生涯縛られる存在。
それ以外、何も出来ないのではないか。
自分の意思で人間を殺すことも、喰らうこともできない。存在を固定された神。
アムシデネの額に玉のような汗が滲む。
どうしよう、どうしよう。ゲジは戦えない。戦う術など持っていない。何か、ないのか。ゲジにできることは。
「可哀想に、ゲジ。今、姉が助けますからね」
────────ああ、あった。
苦痛を堪えるアムシデネの手を握る。彼の視線がこちらを向いた。
「喰べてください」
「嫌だ」
「……喰べてないから、力が弱いのでしょう? そうでなければ人を殺せなくとも、貴方ならここから逃げることくらい容易なはずです」
息を呑んだ男に分かりやすい神だな、とゲジは可笑しい気分になった。
「まだ、五年は」
「わたしには神気が宿っているのでしょう。もしかしたら、貴方を自由にできるかもしれない」
「そ、れは」
「自由になった貴方の元に、必ずまた会いに行きます。たとえ、輪廻を千度繰り返したとて」
その時は一緒に外国にいきましょうね。
アムシデネがはくり、と何かを言おうとして……それから目を瞑る。ゆっくりと娘の方に顔を寄せ、耳元で呟いた五文字にゲジは一等嬉しそうに────。
王女はああ、と意味のない声を出した。
喰われてしまった。妹が。
生贄という言葉に似合わず、美しささえ感じるその光景に息を呑んだ間。その一瞬に、相対する神の力が膨れ上がるのがわかった。
「妹をそばに置いておいたのはそのためですか」
神は答えない。
ただ、此方をゾッとするような目で見つめている。兵士たちの士気が下がり怯えるように後退りする音が耳に入った。
「いつの時代もお前たちは傲慢だよ」
息も詰まるような怒気に足が震える。これが、神。覚悟していたはずだった。超越した存在と戦うことを。
「……今、ここでお前たちを殺したらきっと楽しいだろうけれど、」
「な、にを」
ついにへたりこむ。それでも、せめて顔だけはと気丈に上げ続けた。
「いつかお前たちの欲深さを知るといい」
気づいた時には神はもういなかった。
はあ、はあ、と乱れた息を整える。だらだらと冷や汗が身体中を覆っている。己の首が胴体と繋がっていることを確認してようやく頭を動かすことができた。
────この日以降、神は現れなくなった。彼らは勝ったのだ。生贄を捧げる苦痛に耐えなくていい。神の機嫌を取ろうと媚びへつらわなくてもいい。神の力がいつ国を襲うかと怯えなくてもいい。
真の自由を勝ち取った。そのはずだった。
◼️
アムシデネは岩陰に座って湖を眺めていた。あれからどれほどの月日が流れたのか。そうは言えども、両手で足りる年数のはずだ。最近、めっきり時が流れるのが遅くなったから。
かつて彼を縛り付けたあの国はどうもうまくいっていないらしい。それはそうだろう。今まで神に頼り続けていたのだ。今更、その支えを失ってどうにか出来るほど人間は賢明じゃない。そんな人間だからアムシデネを生み出したのだ。
あの国が建て直されるかどうかはわからない。今後百年は苦しみ続けるだろう。神に願えば簡単に叶ったのに、と。一度味わった甘い蜜から離れ、真っ当に両足で立てるかは彼等次第だ。
森の中は静かで、少しだけ呼吸がしやすい。
それでも目を閉じればいつだってあの娘が瞼の裏に存在していた。
あいしてる。
所詮人間の真似事だ。男は愛の言葉を持たなかった。それでも、何か伝えなければならなくて。形容できない想いを無理やり押し込めた。その言葉に最期、娘は花が咲くように笑った。
「……会いに、」
約束した。会いに来ると。
ずっとアムシデネは待っている。律儀に、彼一人だけで外国などには行かずこの国で。その方が見つけやすいだろうから。
ふと、目を開ければひらひらと蝶が舞っていた。
いつの日か好きな虫として娘に話したのを思い出した。
ひらひら、ひらひら。
蝶は彼の周りを飛び続ける。
おもむろに指を差し出せば、羽根を休めるように止まった。
ああ、
「……ここにいたの? お前はやっぱり馬鹿だね」
わざわざ俺の好きな虫になったのか。
本当に馬鹿な娘だ。きっとこれから千度輪廻を繰り返して、いつかアムシデネと同じ存在になるのだろう。
「永久の時を共にいよう、ゲジ」
ゲジ、と呼ぶ嗚咽を堪えたその声はどこまでも優しい。
生贄として育てられた少女は、今や神から愛を捧げられている。