夕暮れ、講堂にて
無人と思われた夕暮れの薄暗い講堂に、ぽろん、と楽器の音が響いた。
古ぼけた時代物の鍵盤楽器の前に一人立った少年は、まるでそれが仇敵ででもあるかのように険しい顔で、自分の手が置かれた鍵盤を見つめていた。
がっしりとした体躯。意志の強さを示す鋭い目と、一文字に引き結んだ口元。
少年が鍵盤から手を離し、乱暴に椅子を引く。床がきしんだ音を立てた。
椅子もまた、古めかしい時代物だった。
少年がどかりと腰を下ろすと、椅子は踏まれた猫の悲鳴のような音を立てる。
本当は、こんな物の前になど座りたくないのだ、という不満を全身で表現するかのような座り方だった。
ちっ、と舌打ちを一つ。
その音は誰もいない講堂に、やけに大きく響いた。
少年が無造作に手を伸ばす。だが指は思いのほか優しく鍵盤に触れた。
険しいままの顔で、鍵盤を睨む。
しかし次の瞬間、彼の指が、まるで自分の意思など無関係かのように、優雅に、滑らかに動き始めた。
奏で出したのは、穏やかな旋律。
ゆっくりとしたテンポだが、両手の指が複雑な和音を正確に刻んでいく。
少年の纏う粗暴な雰囲気とはひどく不釣り合いな曲だった。
少年の表情はますます険しくなった。
クラス委員の指名で、大舞台でこんなものを弾くことになってしまった。
演奏などしたくもないのだ。ましてやこんな、自分に似合わない曲だ。今すぐにやめてしまいたい。
けれど、彼にはそれよりももっと嫌なことがあった。
それは、逃げたと思われることだ。
あいつは尻尾を巻いたのだと侮られることだ。
そんな屈辱を受けるくらいなら、大勢の前で演奏をするくらいのことは我慢する。
少年の指は、以前学んだ通りに動いた。忘れたくとも、身体は覚えていた。
それは、自分がかつては御曹司であったことの証。無邪気な幼少期の残光。
滑らかな旋律が途切れることなく続く。
やがて、少年は口を開いた。
楽器の音に紛れて、聞こえるか聞こえないかの、ほんの微かな声だった。
内に秘めし勁き心で
伸ばすその手は誰の為ぞ
父祖より受け継ぎし気高き心で
振るう剣は誰の為ぞ
少年の口元が歪む。
その手は、まるで別の生き物のように優しい旋律を奏で続けていたが、彼は皮肉な笑みとともに、吐き捨てた。
「全部、俺の為だ。悪いかよ」
不意に、講堂の扉がきしんだ。
少年は鍵盤から手を下ろし、立ち上がる。
扉が開き、顔を出した長い黒髪の少女が少年の姿を見て目を見張った。
「ごめんなさい。練習の邪魔をしたかしら」
「練習なんて、してねえよ」
少年はぶっきらぼうに答えると、扉に向かって歩き出した。
鍵盤楽器の方は、もう振り返らなかった。