ルージュの伝言 Lipstick Message
返事をするとドアがスライドして貴美が入って来た。
「いったいどうしたの~?大声を出して。大丈夫?」
匠は姉の顔を見てほっと肩の力が抜けるのを感じた。
両親が貿易会社を経営している関係で二人は幼い頃から日本と海外を行ったり来たり。度々環境が変わったが貴美は養子の匠をいつも支えてくれた。両親は今も海外を飛び回り、匠は四年前、貴美は一年前からシティで暮らしている。
色白で癒し系の優しげな顔にグラマラスな体型も手伝いおっとりした印象を与える。けれども貴美には独特の冷静さが備わっている。脳心理カウンセラーという職業柄、外観からは想像できないほど洞察力も直感も鋭いのだ。
「昨夜九時過ぎに帰ったら、もうぐっすり眠っていたわ。夕食も食べてないんでしょ?よっぽど疲れたのね」
昨日?そうだ!フィールドトリップとアルバイトで汚染地帯に入って山岳地帯までエアバイクで行ったんだと匠は思い出した。
「あっ!」
と叫んでベッドから飛び起きた。誰だったんだあの子・・・?いや、あれは夢だと思い直す。
昨日は初めて危険な山脈の麓まで飛んだ。緊張したせいか家に着くと異様な眠気に襲われた。ひと休みのつもりがそのまま眠りこんでしまった。
奇妙な夢を立て続けに見た。最初の夢には白金のような髪の女性が現れた。年の頃は十七、八歳。食い入るように匠を見つめる青い瞳から不意に涙が溢れ出す。唇を震わせ両手を伸ばして匠の防護手袋に覆われた手をしっかり掴む・・・
弓矢の女性の夢を見たのはその後だ。
「そんなに焦って、何があったの?」
と貴美が不審そうに匠の顔をのぞきこむ。
「何でもないよ。眠り過ぎちゃったみたいだ。今、何時?」
匠は我に返った。
「七時半よ。そうそう、社長さんから部品交換のお礼を伝えて欲しいってさっき電話があったわ」
「えっ?それじゃ、部品はもう先方に届いたの?」
「昨夜届いて、会社のラボで故障原因を調べるって。シティの配送ロボは早いわね~」
匠は頭をひねった。シティに戻った時に部品を係官に渡したかどうか覚えていないのだ。
フィールドワークで土壌サンプルを採取した後、貴美のクライアントから頼まれた仕事で北上して、凄まじい汚染が蓄積する山麓に分け入った。
山火事監視装置の部品交換が終わり森林の上に浮上した時、この山麓に入る機会はもうなさそうだから土壌サンプルを取ろうと思いついた。辺りを旋回して開けた草地に着陸したところまでははっきり覚えている。
ところが、その後の出来事は断片的にしか思い出せない。考えこんでいた匠は不意にくしゃみを連発した。貴美はびっくりして眉を上げた。
「あらっ、風邪でもひいた?」
「防護服のせいだよ。洗浄液の成分が残ってたらしいや」
「どれどれ?」
貴美は匠のそばに顔を寄せて臭いを嗅いだ。
「わっ、よせよ、汗臭いだろう?シャワーも浴びないで寝ちゃったから」
「大丈夫。これなら匂いに敏感な女子も気づかないわ!ね、コーヒーを入れたから飲みましょ。それから朝食。お腹空いてるでしょ?」
匠の肩に手を回して笑顔を見せた。
「あ~、急にお腹が減ってきたよ。本当に姉貴はカミ様だ!」
「そうよ、飛騨乃タクみのカミ!」
と貴美も二人の名前をもじって冗談で切り返す。
「ちょっと違うんじゃない?赤穂浪士の殿様は浅野じゃなかったっけ?」
「へ~、感心ね。日本史の勉強いつやったの?いったい誰と勉強したのかな~?」
「えっ?・・・だって、図書館だからみんなと一緒に決まってるじゃん」
大学女子と一緒に勉強したってなぜわかるのか?いつもながら貴美には隠しごとができない。
「のどが渇いたから水を飲んでくる」
追及される前に部屋から出ようとすると貴美が声をかけた。
「タク、首から少し血が出てるわ」
血だって?手首にIDを装着してスコープを起動、首の辺りにかざして卓上ホログラムで映像を拡大するとうっすらと細く血が滲んでいる。
「ほんとだ!」
両側に同じように浅い二センチほどの真新しい切り傷。さっきの夢が原因だろうか?そう思うと恐怖の余韻が蘇る。
だが、そんな馬鹿げたことがあるはずはないと気を取り直して、ダイニングキッチンでミネラルウォーターを飲むと、ランドリールームで濡れたTシャツと短パンを着替えた。
貴美と他愛のない話を交わすうちに、昨日のあやふやな記憶も気にならなくなりいつものペースが戻ってきた。朝食を食べ終わると貴美が口を開いた。
「タク、ニミュエって誰なの?」
「えッ?誰?」
「起きがけに叫んだ声が聞こえたの」
「ああ、あれ?変な夢を見たんだよ。中世のヨーロッパかどこかの。あんなリアルな夢は初めてだよ!」
かいつまんで今朝の夢について話すと、貴美は黙って耳を傾けていた。
「なぜ、あの女の言葉がわかったんだろう?たぶんイタリア語。それも中世の・・・」
匠はふと言葉を切って首を傾げる。
「じゃ、僕は日本語で叫んでた?」
貴美は首を横に振った。
「ううん、イタリア語だったわ」
「えッ?イタリア語もわかるんだっけ?」
フランス系アメリカ人の父と日本人の母を持つ貴美は、日本語と英語とフランス語を使える。
「日常会話ぐらいならね」
と思わせぶりに匠にウィンクした。
「あ~、そっか!でもイタリア人の彼氏なんかいたっけ?女と見れば口説くのがあの国では男の礼儀なんだろ?姉ちゃん、さては遊ばれてんじゃないの?」
「失礼ね~、あなたの夢の彼女よりずっと優しいわよ!」
と貴美は朗らかに笑って匠をたしなめた。
「そうなんだ、激しいんだよ、ニムエは」
と匠は冗談交じりにため息をつく。
「いきなり矢を首根っこに射こんできた。二本立て続けに。思い出させてやるって、もの凄い剣幕でゾッとした」
生々しい夢の余韻がまだ残っていた。不意に貴美から笑顔が消えて、真剣な面持ちで匠を見つめた。
「その首の傷は夢の中で矢が当たった場所なの?」
「だいたい同じところだと思う。無意識に引っ搔いたんだね。すごく怖かったから」
「よっぽど怖かったのね~」
と貴美は相槌を打つと不意に話題を振った。
「あなた、髪が伸びたわね~、カットしたら?」
自宅でホログラムイメージを選び、ヘアケアロボットで散髪ならできる。ところがエリア21には昔ながらの床屋と美容院があり意外に繁盛していた。
「グルーミングされると気持ちいいわよね~。カウンセリングにも取り入れようかしら」
貴美は不意に右手を伸ばして匠の頭をいじくりまわした。
「タク、首が凝ってるわ。マッサージしてあげる」
立ち上がって匠の背後に回る。
「えっ、いいよ、どうせ床屋に行くし」
「いつ行くんだか?いいから任せて!」
珍しく強引だから腑に落ちなかったが、首や肩を揉んでもらっているうちに匠はついうとうとなった。と、いきなり首の後ろを冷たい物で擦られて飛び上がる。
「冷たッ、何すんだよ、姉ちゃん!」
「タク、首の後ろもちゃんと洗わないと女にもてないわよ~」
鼻炎で鼻が効かなかったが、エタノールの匂いがかすかに漂ってきた。
「もしかしてアルコール?そんなに汚れてた?」
「あ~、やっぱり気になるんだ?床屋の茶髪の理容師さん、何て名前だっけ?」
「えっ・・・あっ!もうこんな時間?出かけなくちゃ!」
逃げの一手でバッグパックをひっつかんで出かけようすると貴美が呼び止める。
「これ、あなたのでしょう?」
後輩の小田敦盛から借りた核種測定器の試作品だった。除染して家に持ち帰っていたのを忘れていた。
「サンキュー!ブランチも美味しかったよ」
匠は測定器をバッグパックに放りこんで家を出て、エアスクーターでシティ中心街にある大学の専門学部へ向かった。
弟を送り出した貴美は物憂げに窓越しに外を眺めて物思いに沈んだ。スウェットのポケットに手を入れ紙ナプキンを取り出してそっと開く。
内側は口紅で染まり鮮やかな赤と青が入り混じっている。五感が並み外れて鋭い貴美には口紅の匂いとわかっていた。水で洗っても落ちないがアルコールなら綺麗に落ちる。
たまたま弟の髪をいじって見つけたのではなく、貴美は香料の匂いに気づいていた。女性とキスしようものなら匠の表情や態度でそれとわかるのに、その素振りもないのが気になって調べた。
口紅で描かれた赤と青のシンボルマークが首の後ろ髪の陰に残されていた。見覚えのある紋章を目にした瞬間、予想外のコンタクトが起きたと貴美は悟った。
汚染地帯で安全に全面マスクを外せる場所は一か所だけ。山火事監視装置はサンクチュアリから数十キロ離れている。まさか迷いこむとは予想しなかった。
「私のミスだ。まだ準備もできてない・・・あの子を苦しめたくないのに」
貴美はうなだれて唇を噛み締めた。思わず涙がこぼれそうになったが、自分のミスでは説明がつかない疑問が頭に浮かんだ。
「なぜ私に知らせずに事が進んだの?誰が何のために匠にコンタクトを?」
癒し系カウンセラーの柔和な表情が消え、諜報工作員の冷徹な表情に取って代わった。しかし、そのどちらも貴美にとっては仮の姿に過ぎなかった。
貴美は新人類の第二世代である。
匠が養子に来たのは偶然ではないと知ったのは十年前のことである。世界がひっくり返ったようなショックを受けたが、同時にそれまで謎だった数々の出来事に深い意図が隠されていたと悟った。
あの時、ナラニは十四歳の貴美に優しくこう告げた。
「あなたには特別な役割があるの」
嘆いている場合ではない。これから起きる変化を弟が乗り越える方法を探らなければ。限られた時間で情報を集め助言を受け、後は訓練と経験と直感に従って対応するまでよ!
心を決めた貴美は素早く身支度をすませ家を飛び出した。