月の暈 Pale Moon
三日前の水曜日の夜、すべては始まった。
六本の矢に身体を貫かれたまま凄惨な拷問を受け、出血と感染症で死にかけているサマエル・アトレイア公爵と、ベッドの上でその記憶にうなされている飛騨乃匠が、千年の時を置いて同時に存在していた。
中世イタリア、オパル公国の公爵の体験は、二十二世紀の日本、シティ国際大学四年生の意識と交錯してついには一体化してしまう。
中世イタリア、オパル公国の隣国から王宮、そして地下牢と場面が目まぐるしく切り替わるにつれて、あの恐ろしくも不可思議な千年前の出来事の数々が、匠の脳裏に鮮烈に蘇り、時空を超えて融合した匠とサマエルの意識に千年前の人々が立ち現れた。
ニムエ・アテナイア王女、ロベルト・プロスペロ宰相、パオロ・トロセロ将軍、カルデロン・デビアス伯爵、アドリアーナ・デビアス伯爵夫人、ダニエル・プロスペロ、サウロン・アテナイア国王、召使のラナ、そしてタリスが・・・
夢の中だと言うのに激しい苦痛と高熱に襲われる。のたうちまわろうとする身体は、何かで手首と足首を固定され動くに動けない。矢は刺さっていないのに、身体に深い傷を負って服は溢れ出た血で濡れそぼっている。
どうしても目を覚ますことができない!
激しい苦痛と高熱にうなされ、部屋に立ち込めた血の匂いまではっきり嗅ぎとれる。次第に息も絶え絶えになり、自分のうめき声までも弱々しく薄れてゆく。
「これは夢でも記憶でもない。このまま死ぬんだ」
と確信した時、耳元で話しかける何者かの声が聞こえた。
誰かそばに居る!苦痛に悶えながら匠は必死で耳をすませた。この声はカミじゃない、タリスだ!なぜだ?なぜ、彼女が千年後の現代にいるんだ?
「今度はあなたが自分で光を保つのです。光に意識を合わせてください。今のあなたなら出来ます」
地下牢で公爵の額に触れたタリスの手から、一気に明るい白い光が頭の中に広がった・・・記憶の中のサマエルの身体が淡い白光を帯びると同時に、高熱と激痛に意識が朦朧とした匠もその光に懸命に意識を集中した。
その刹那、脳裏に二人の女性の姿がくっきり浮かび上がる。
汚染地帯の山麓とシティの外縁で出会ったあの二人を、今までどうして忘れていたのだろう?たまらないほど愛しいオパル王家の王女と女王を!あの時、二人は匠の頭に手を当てがった。そしてその瞬間、頭の中に不思議な光が広がったのを鮮明に思い出した。
「なんてことだ。あれはビビとニムエだ!」
そう悟った瞬間、突如として白い輝きが匠の頭の中に炸裂して広がった。限りなく明るいのに、不思議と眩しいとは感じない。
何て美しく柔らかく暖かい光なんだろう・・・
「意識をその光に集中して下さい。全身に広がるまで身を任せて下さい、大丈夫です」
懐かしいタリスの穏やかな声が頭の中に響いて、その言葉に促されるまま、頭の中に見える光に意識の焦点を合わせた。光は一気に広がって匠を包みこんでゆく。全身が光に包まれると、見る見るうちに激痛も高熱も嘘のように薄れて、温かく居心地の良い羊水に守られた胎児のように全身が深い安らぎに包まれた。
まるで身体が消えて光に変わっていく様な、言い表しようのないほど心地好い感覚に、記憶も思考も途切れてゆく。
あの地下牢での過去と同時進行で起きているようだ・・・
匠はそのままかつて経験のない深い眠りに落ちた。もはや《《匠》》は存在しなかった。光に包まれた意識だけの存在に戻っていた。
匠が《《冬眠》》に入ったのを確認すると、少女はふぅっと深い安堵のため息をついて、柔和な笑みを浮かべた。そっと手枷と足枷を匠の身体から取り外す。血で汚れないよう毛布は掛けずに、部屋の空調を暖かめに設定し直した。
ベッドに横たわる匠の身体は、白く輝く光に包まれ暗がりにぼうっと浮かび上がっている。少女は傍らに正座して目を閉じた。匠の意識を探り自分の意識と同調させて語りかけた。
「あの日の出来事を思い浮かべて下さい」
金曜日の夜は深々《しんしん》と更けて、部屋の窓のから覗く巨大なドームの彼方に、うっすらと雲に覆われ柔らかく霞む満月が鈍い光を放っていた。おぼろ月の回りをほのかに丸い光の輪が彩っている。
西から移動性低気圧の雨雲が近づいていた。