夢の途中 The Dream
夢を見てると頭の片隅ではわかっているのに、あまりにリアル過ぎて、匠の意識はいつしか夢の世界に引きずりこまれた。
白い石造りの砦は、色とりどりの花が咲き乱れる森に取り囲まれている。目に入る風景すべてが奇妙なほど明るく穏やかで、芳しく爽やかな風が石畳の上を吹き抜けていく。
「ここはどこだろう?」
辺りを見渡した匠はビクッとしてたちすくむ。十メートルほど離れた石畳で、見知らぬ女が弓を構えて匠を狙っていたのだ。
引き絞られた弓は大きく弧を描いて今にも弾けんばかりにたわんでいる。間近で見る原始的な武器はぞっとするほど生々しい。
女は匠を睨みつけながら激しく言い放った。
「やっと捕まえた!この国に逃げこめば助かるとでも思ったの?これまでよ!王家の血の掟はお前も知っているはず。城に連れ帰ってなぶり殺しにしてやるから覚悟するのね!」
初夏の陽射しを反射して鈍く光る矢じりに視線が釘付け、女の顔も目に入らない。気づくと背にした木製の扉を無意識に後ろ手で探っていた。
けれども扉はスライドするどころかドアノブさえない。高さ五メートルほどの石壁に囲まれた袋小路に追いつめられている。匠は恐ろしくなって反射的に目を閉じた。
すかさず女が鋭く声をかける。
「こっちを見て!」
有無を言わせない威厳に満ちた声に気圧されて、木偶人形のように目を開けた瞬間、女の姿から目が離せなくなってしまった。
「何て溌剌と生気に満ちた女性なんだろう・・・」
輪郭が深い二重瞼の大きな目、日焼けした瓜実型の顔、後ろで束ねた艶やかな栗色の髪、ギリシャ彫刻のように端正な顔立ちをしている。二十歳前後で身の丈百七十センチぐらい。手脚が長いせいでほっそりして見えるが、コーカソイド特有のがっちりした骨格は量感にあふれている。
けれども匠が魅入られたのは美しい容姿よりも、女が発散させている強烈な野生味だった。
フードの付いた丈の短い上着に厚手の長ズボン姿で革のブーツを履き、背中には矢羽が詰まった矢筒を背負っている。衣装はひと目で手造りとわかる代物であちこち薄汚れている。
匠を睨みつけながら整った頑丈そうな歯並びの口を半開きに息を弾ませていた。だが激情に身を震わせても、弓を引き絞る両腕は微動だにしていない。
血なまぐさい戦場をくぐり抜けてきた手練れの戦士に違いない。
肉食獣を思わせる凶暴な雰囲気にのまれて恐怖に身体がすくんだが、心の中は痺れるほどの感動と戦慄がないまぜになって激しく渦を巻いている。
「まさか、忘れたなんて言わないでしょうね?」
自分に見とれている匠に気づいて、女は訝しげに顔を傾け、くっきりした弓なりの眉をしかめた。うって変わって穏やかな深みのあるハスキーボイスには、しかし不穏な響きがこもっている。
なぜ女の言葉がわかるのだろうと匠は不思議になった。なぜなら、女が話しているのはイタリア語だったのである。
「村人はお前は記憶を失っていると言っていたわ。まさかと思ったけど本当だったのかしら?いいわ、それなら思い出させてやるまでよ!」
言葉もなく立ちすくむ匠を見つめながら、女はふんと鼻を鳴らして含み笑いを浮かべた。
「この三ヶ月、長かった!この日が来るのをずっと待ち望んでいたわ・・・」
言葉を切ると首を左右にわずかに振って、満足そうなため息をついた。
「これでやっと王位を継承できるもの!」
下唇を噛んで笑みを浮かべ冷たく澄んだ目を見張って匠を睨んだ。獲物を追い詰めた狩人の興奮を抑えきれない表情に、恐ろしいほどの凄みが漂う。
「もう一度聞く!私を覚えてないの!?」
張り上げた声の尖った響きに匠はたじろいだ。言葉はわかるのに恐怖で口が動かない。辛うじて首を横に振った。
次の瞬間、鈍い振動音とともに右耳のすぐ下に強い衝撃が走った。ドスッという激しい衝撃音が耳元に響いて、細かい木くずがパッと飛び散って舞い落ちる。
首の右側を掠めて矢が深々と扉に突き刺さっていた。まるでコマ落としのように矢が放たれるのも飛来するのも見えなかった。褐色の硬い木の矢軸が首に触れ顔から数十センチ先で白い矢羽根が小刻みに震えている。
身体が硬直して息が止まり、顔から上半身にかけて冷や汗が噴き出てくる。匠が突き立った矢から女に視線を戻すと、女は二の矢をつがえて狙いを定めていた。
自信にあふれたその姿から的を外したのではないと匠は直感した。でも、木製の手作りの弓矢でこんなにも正確に射ることができるのか?
そんな疑問もたちどころに吹き飛んだ。弓鳴りの音とほぼ同時に矢が首の左側を掠めて、衝撃とともに木くずを散らして扉に深々と突き刺さった。
顔の直近に立て続けに矢を射こまれたショックで匠は脳貧血を起こした。
視界がみるみるうちに暗く霞んで、キ~ンというかん高い耳鳴りに周囲の物音まで薄れていく。顔面から血の気が引いて、寒気に襲われて全身が小刻みに震え出す。
膝から力が抜けて身体が崩れかけると、二本の矢が両耳に食いこんで、痛みに我に返った匠は、脚を踏ん張り扉に両手をつけて辛うじて身体を支えていた。
「どうなの?何か思い出した?それとも、今度は股間にお見舞いしようかしら?」
女は小気味良さそうな笑みを浮かべた。左手に握った弓を下ろし右手を腰に当てて値踏みでもするように匠を見つめている。これからどう料理するか考えて楽しんでいるようでもあり、小馬鹿にしてからかっているようにも見えた。
匠ははっと息をのんだ。そうだ!あの仕草、あの表情、見覚えがある!
「やめてくれ、ニムエ!」
知るはずのない中世イタリア語が口をついて出た・・・
ベッドから跳び起きた匠は、上半身を起こして大きく何度も喘いだ。心臓がドキドキ動悸を打っている。
「いったいどうなってるんだ・・・?」
いかにも人の好さそうな甘いマスクは恐怖で引きつっていた。Tシャツと短パンが冷や汗で肌に貼りついて筋肉質の身体が浮き彫りになっている。
部屋を見渡すと昔風のカーテン越しに初春の柔らかな太陽が射しこみ、窓の外では小鳥がひっきりなしにさえずっている。いつもと変わらぬ平穏無事な現実を目の当たりにして、天を仰いでふ~ッと安堵のため息をついた。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。