三日月刀 This Is His Sward
「どう?何か思い出した?それとも、今度は股間にお見舞いしようかしら?」
女は小気味良さそうに笑みを浮かべて、じっと匠を見つめる。
「止めてくれ、ニムエ!」
匠は脳裏に蘇った女の名を無意識のうちに叫んでいた。
「あらっ、私を覚えていたのね?うれしいわ!」
女はふざけるように弓を握った左手を胸に当てて見せる。おどけた口調だったが、その目つきは鋭く怒りに燃えていた。
「なんて、キュートなんだろう!」
こんな状況だと言うのに、そのコケティッシュな仕草に匠は思わず魅了される。丈の短い黒っぽい上衣のウエストをベルトで締め、たすき掛けにした矢筒の負い紐が胸の谷間にかかり、ツンと上を向いた膨らみがくっきり浮き出している。
狩猟用の服も、革のハーフブーツもあちこち薄汚れて、中世の生活の一端が垣間見えるようだ。けれども、その姿は過酷な自然界に生きる野生動物のように、精気に満ち満ちて輝いていた。
「死ぬほど怯えているくせに、何をじろじろ見てるの!本当にどうしようもない奴ね!」
視線に気づいたニムエは、怒りをこめて吐き捨てるように言った。
「お前みたいな臆病者に、大陸最強の騎士だった兄上が倒されるなんて、今もまだ信じられない!」
「えっ?兄上を倒したって・・・何のことだ?」
匠が思い出せたのは女の名前だけで、兄がいたことさえ知らないのに、身に覚えのない咎めを受けるのは解せない。
「とぼけても無駄よ!時間をかけて責め殺してやるから、覚悟するのね!」
「そんな・・・サディストみたいなことを言わないでくれ!本当に知らないんだ!」
どうやら脅しではなさそうだ。匠はゾッとして懇願したのだが、不思議なことに、すらすらと古代イタリア語が口をついて出る。
「サディスト?何のことかわからない!」
ニムエは眉をひそめて胡散臭そうに言い返した。
「残酷なことを言わないでくれって言ってるんだ!」
と、匠は言い直した。どうやら、サド侯爵はこの時代より後の人物らしい・・・
「残酷?当然の報いよ!裁きを受けることもできたのに、黙って逃げ出したのは誰?どのみち死刑だったけれど、楽に死ねたはずよ!」
「それなのに、お前は逃げた!わたしは掟に従っているだけよ。仇討ちを認められた後継者はこのわたし!捕らえたら最後、お前をどうしようとわたしの勝手よ。絶対に楽には死なせてやらないからッ!」
ニムエは怒りをぶつけるように、激しく言いつのった。
「本当に何も知らないんだ!信じてくれ!君の名前しか思い出せない。兄上って誰だ?倒したなんて人違いだろう?」
人違いという言葉にニムエが反応した。
「・・・そう言えば、村人はお前が記憶を失っていると言ってた。もし、人違いでお前を処刑したら、私の名誉は地に堕ちるし王位継承権も失うから・・・ ふん、いいわ!それなら、思い出させてやるまでよ!」
と言い捨てると、ニムエは弓を肩に掛け匠に向かって歩み寄った。
二メートルほどの距離まで近づくと、ベルトに吊った短刀を引き抜く。刃渡りは三十センチを超えている。刃先は先端が広く刀身が三日月状に反り返っている。中東で作られたシャムシールだ。女は重みを確かめるかのように、おもむろに三日月刀を左右の手で交互に持ち替え始めた。
最初はゆっくり、そして徐々にスピードをあげて小刻みに持ち替える。時おり片手で短刀の柄を支点に上下に回転させる。ドラマーがスティックを指でくるくる回す要領で、器用に軽々と扱っている。
匠をじっと見詰めたまま短刀には目もくれない。わずかでも手元が狂ったら、鋭い刃が指の二、三本ぐらい簡単に飛ばしてしまいそうだ。左右交互にリズミカルに動く短剣の動きを、息を呑んで見つめているうちに、意識が吸いこまれるように、匠は催眠状態に陥った。デジャヴュのような感覚が蘇る。
「あの三日月刀、どこかで見た覚えがある・・・」
「 そうだ!オパル王家の狩猟小屋だ。サウロンがいた!逃げ出した娘も・・・そう、あの子の名はタリスだった!」
唐突に蘇ったぼんやりとした記憶の断片に、匠は生唾をのんで目を見張った。嫌な予感がする・・・これ以上思い出さない方がいい!と強く感じて、短刀から慌てて目を背けた。注意深く観察していたニムエは、その変化を見逃さなかった。激しく詰め寄って叫んだ。
「やっぱり、見覚えがあるのね!お前がこの刀で兄上の喉を切り裂いたの!?」
「違う、喉じゃない、心臓だッ!」
反射的に口をついて出た言葉に匠は愕然とした。そうだ!あの光景はあまりに生々しく、今まで忘れていたのが信じられない。ニムエの巧みな誘導尋問で、おぞましい光景が脳裏にフラッシュバックしたのである。
仰向けに倒れた王の胸に深々と突き刺さった短刀と、間欠的に溢れ出す鮮血・・・その光景をまざまざと思い出したのが引き金となって、匠は一気に記憶の奔流に巻きこまれた。次々に鮮明に記憶が蘇る。
「うわッ!」
匠は悲鳴のような叫び声を発した。ニムエはそれを狙っていたのだ。顔の間近に矢を射こんだのも、短刀をリズミカルに持ち替え催眠状態に誘導したのも、匠の記憶を蘇らせるためだった。戦乱の時代を生き抜いたこの中世の王女は、武術だけでなく人の心を操る奸智にも長けている。
ニムエはオパル公国のアテナイア王家の生まれだ。匠はアトレイア公爵家の跡継ぎで、二人は同い年だった。幼い頃一緒に遊んだ無邪気なニムエの姿も蘇った。はるか遠い日の幸せだった頃の自分たちの姿が・・・
ニムエは深く息を吸って、不気味なほど静かな口調で尋ねた。
「記憶が戻ったようね。でもそのことを知ってるのは犯人か目撃者だけよ」
「殺したかどうかわからないんだよ。覚えてないんだ!」
匠は正直に話すしかないと腹をくくった。なぜか記憶が一部途切れている・・・誰がサウロンを殺害したのか思い出すことができないのだ。その後、この国の村人の家で目を覚ますまでの経緯も・・・
「記憶は戻ってるのに、殺したかどうか覚えてないって言うの!?ずいぶん都合のいい話ね!」
ニムエは短刀を右手で握りしめてキッと匠を睨みつけた。
「本当だ!サウロンと言い争ったのは覚えている・・・でも、その後のことはわからないんだ!気づいたら、サウロンはその短刀で刺されて倒れていた・・・」
事実だったが、これでは言い逃れしか聞こえないだろう、と匠は絶望的な予感に怯えた。すると、ニムエは奇妙なほど静かな声でこう尋ねた。
「お前はブラックロータスを持っていたわね!?」
「ブラックロータス?ああ、持っていたよ。薬草を仕入れる時に一緒に買っている。不眠症の人用に少量だけだ。でも、なぜそんなことを聞くんだ?」
ブラック・ロータスには強い催眠作用があるが、アフリカ産の薬用植物で簡単には手に入らない代物である。
「兄上の顔や服に粉がついていたわ!」
ブラックロータスの粉は記憶にない・・・匠が戸惑っているとニムエがたたみ掛ける。
「お前が兄上と戦って勝てるはずがないもの!国防軍にも入らずに、ヒーラーになったお前には、かすり傷ひとつ負わせられっこない!」
「じゃあ、僕がサウロンにブラックロータスを吸わせて殺したって言うのか?それなら僕も眠りこんでしまう・・・」
驚いて言い返した匠は、途中で言葉を濁した。心に恐ろしい疑惑が浮かぶ。もしかしたら、ブラックロータスの副作用で記憶がないのかも知れない。僕がサウロンを手にかけたのか、
まさかそんな・・・