グリーンハウス Green House
その日の夕刻、同じピザ店の宅配スクーターがシティのとあるビルの前に止まった。小柄で可愛らしい顔立ちの女性配達員が、ピザの保温ケースを抱えてビルの中に入って行った。
ドームがあるため高層ビルはもともと建築できないが、シティ行政府はビルの高さを最高五階に制限していた。自然環境を重視したエリア21地区の基準はもっと厳しくて最高三階に制限されている。
配達員は入口の受付を抜けてホールを通り、臨床心理クリニック「グリーンハウス」に向かった。シティの総合病院や個人病院の精神科や心療内科と提携してクライアントに合わせ細かく調整したカウンセリングとヒーリングのプログラムを提供している。シティ外からも有名人のクライアントが定期的に通ってくるほど評判が良い。
音もなく木製の自動扉が開くと同時に芳しく爽やかな花と緑の匂いが配達員を包み込んだ。フロア全体がハイドロカルチャーと太陽光ファイバーで管理された温室になっている。
様々な花や観葉植物に小型の常緑樹が鮮烈なまでに生い繁り、待合室、カウンセリングルーム、リラクゼーションルームなどが緑の中に埋もれていた。まるで南国のパラダイスに居るような錯覚を感じる。丸天井にはプラネタリウムも装備され、様々なヒーリングミュージックや自然音も用意してある。
「ピザのお届けです。深山貴美さまに」
配達員は受付の係員に声をかけた。
「あらっ、貴美がピザを?珍しいわね~。残業も入ってないのに」
カウンセリング業界だけあって受付の女性は、顧客に限らず来訪者に親しみやすい態度で接する術を心得ている。北神有希というネームプレートを胸に付けている。貴美と特に親しい同僚のひとりだ。
「えーっと、ギフトオーダーです。カードも付いています」
小柄な配達員はにっこりしてピザの箱を手渡した。エリア21の店だけあって今でも紙製のカードをギフト用に用意している。
「わかったわ。すぐに渡しておくわね。ご苦労様」
配達員がドアから出て行くのを見送りながら、
「すごく感じの良い子ね」
と有希は思った。
「不思議な雰囲気があるわ、それにどこかで見た顔ね」
と首を傾げているところへ、ちょうどカウンセリングのセッションの区切りの時間になり、スタッフがクライアントを送りがてら三々五々セッションルームから出て来た。
有希は貴美がクライアントとにこやかに挨拶を交わすのを待って声を掛けた。
「貴美、お疲れ様。ピザが届いてるわよ!あなたにプレゼントだって!」
「私に?誰かしら?」
有希がピザの箱を手渡すと、貴美は張り付けられた封筒を眺めたが送り主の名前は印刷されていない。ハワイアンピザのラージで注文時刻は三十分ほど前だ。
「ナラニからに違いない、タクの身に何か起きたのでは?」
と胸騒ぎを覚えた貴美は、有希に笑顔で礼を言うなり足早にオフィスへ向かった。
有希は男性からかしらと思ったが、貴美の表情が硬いのに気づいて何も言わなかった。男性クライアントから貴美に花束などの贈り物が届くのは珍しくない。いつもなら有希が貴美を冷やかして、ふたりで冗談を交わして盛り上がるのに今日はいつもと様子が違う。
オフィスに入ると貴美はドアをロックしてピザの箱に貼り付けられた封筒を剥がした。ペーパーナイフで封を切りギフトカードを取り出す。暗号化された内容をカードの余白に素早く書き出して目を通すと眉をしかめた。顔色が変わっている。緊張した表情で天を仰いで小さく叫んだ。
「まさかそんな!・・・」
そそくさとカードをシュレッダーにかけるとハンドバックを肩に掛け、ロッカーから私物が入ったスポーツバッグを取り出した。未開封のピザの箱を抱えて足早にクリニックの出入り口に向かう。
受付の有希に声をかける。
「有希、急用ができたからこのピザ、良かったら夜番の皆で分けて欲しいの。お疲れさま!」
仕事帰りの顧客も多いこのクリニックは、週日は午後十時まで診療している。
「ありがとう!ちょうど夕食をどうしようか迷ってたの。カミもお疲れ様、また明日ね!」
有希はちょっと驚いたが詮索はしなかった。前から時々あるのよね、彼女。突然慌しく予定を変えたり姿を消したり・・・貴美はきっと何か大きな秘密を抱えているに違いないと有希は確信していた。いつか話してくれるのかしら?有希は珍しく憂い顔で貴美の背中を見送っていた。
足早にクリニックを出た貴美はバス停には向かわずに、大通りを隔てた商業ビルの地下一階のバーに入っていった。毎水曜日はガールズナイトで女性は半額サービスのため、店内はすでに混雑していた。押しかける女性たちを目当てに男性も集まってくる。
貴美は混みあった店内を抜けてバスルームに飛び込んだ。シティのトイレは公共施設も民間の店舗もすべて個室で広々としている。スポーツバッグを開けて黒いスーツを取り出して手早く着替えた。代わりに私服をスポーツバッグに詰める。
一年前に情報分析官としてシティに潜入した貴美が、ラングレーのCIA本部に勤めていた当時のワークスーツを着るのは今日が初めてだ。
ピザに添付されたメッセージはシティに居るナラニの協力者が手配したに違いない。暗号化された手書きのメッセージは、脳の夢回路を遮断する処置の後でタクに異変が起きて、あの山麓で起きたコンタクトの記憶が蘇ったと言う内容だった。
研究所の担当者に会ってデータを確認したら匠に関わるデータはすべて廃棄して関係者に口止めするようにという指示で、脳心理研究所の臨床ラボのパスワードも添えてあった。
信じられない知らせに貴美はひどく気が立っていた。
「夢回路を遮断する処置なのに、なぜ記憶が蘇ったの?いったいどうなってるの!あの山麓に新人類がいるとシティ政府に伝わってしまうわ!」
スポーツバッグを肩にトイレを出ると人混みを縫って一目散にバーを飛び出した。