聖エステル
「んん――ッ? なんなのだこれは!?」
意識が唐突に暗転した。エステルは驚き声を上げる。だがその声にはモヤがかかっていて、酷くぼやけていた。
「私はトールに頼まれて住民を避難させてたはず……」
先ほどまでエステルは、腰が抜けて逃げ遅れた住民たちを安全地帯まで運んでいた。
それが一段落して戦場に近づいた時だった。トールと、元Cランク冒険者のルカが戦う姿を見た。
「そうだ、丁度トールがルカ殿に一撃を加えたところだったのだ!」
トールがルカの胸に剣を埋め込んだ。その瞬間、エステルの視界が突如暗転した。
「うーん?」
状況を整理して考えてみたが、何故目の前が真っ暗なのかがさっぱりわからない。
攻撃を受けた直後に視界が真っ暗になるなら、まだわかる。しかし、そのようなきっかけは皆無だったし、なにより意識があるのもおかしい。
さっぱりわからず唸っていると、闇の質が変化した。
「む? なんだ、妙に寒気が……」
エステルは二の腕を擦る。
突然気温が低下した。それに、どこか湿っぽい。
「嫌な雰囲気なのだ……」
ネガティブな気が充満していて、心が下に引っ張られる。
『ふむー。あなたはトールさんに劣等感を抱いていますねー』
「だだ、誰なのだ!?」
突如聞こえた声に、エステルは肩を震わせた。聞き覚えのある声だ。しかしどこで聞いたのか思い出そうとすると、急激に思考がぼやけた。まるで何者かに、『それはどうでも良いことだ』と思考を矯正されているみたいだ。
エステルは雑念を捨てる。余計なことは考えず、声に耳を傾ける。
『エステルさんはー、ずいぶんと苦労されていたんですねー。一流の冒険者になるために、情報収集は欠かさずー、毎日剣術の訓練も行っていたー。なのに、突然現れたトールという子供に、あっという間に追いつかれ、抜かされたー』
「そう……なのだ……」
家を飛び出してから二年間。エステルなりに、努力を重ねていた。
一流の冒険者になるために、毎日稽古は欠かさなかった。新人の中なら誰にも負けないという自負があった。
それを、あっという間に抜かされた。
『才能がある人って、ずるいですよねー。こちらがどんなに努力していてもー、なんの苦労もせずに、あっという間に抜かしていっちゃうんですからー』
「ああ。トールはずるいのだ……」
『現実は、辛いことばかりですよねー。少しだけ、眠りませんかー? ちょっとだけならー、休んだって誰もエステルさんを責めませんよー』
「…………」
『さあー、まぶたを閉じてー。嫌なことはすべて忘れてしまいましょうー』
声を聞いているだけで、とても心地が良くなっていく。この声にすべてを委ねて良い気がしてくる。声の言う通りにすればすべてがうまくいく。そう、強く思えてくる。
心を、闇が支配する。
何もかもを投げ出したい。
少しだけ休もう。
心が声に、すべてを差し出そうとした。
その時、
「――いや、現実は辛いことばかりではないのだ」
エステルは毅然と言い放った。
「トールはずるいのだ! 私が努力を重ねてたどり着いた場所に、あっという間にたどりつくなんて、ずるすぎるのだ! でも、私は追い抜かれても、なんとも思わないのだ。
追い抜かれるのは、私が弱いからじゃない。トールが強いからだ。トールはトールで、私は私だ。私はトールじゃない。トールのようになる必要はないのだ。
そんなトールのおかげで、私にもCランクにアップするチャンスが与えられたのだ。この年齢で、元はただの商家の娘にしては、上出来すぎるのだ!
トールは突飛もない行動を起こすし、とんでもない狩りに私を巻き込むのだ。なんでもやりすぎるし、エアルガルドの常識が通じない。大体ドラゴンの背中に乗るなど、どうかしてるのだ! トールについていくのは大変なのだ……」
「それなら――」
「でも、トールと一緒にいると楽しいのだ。私とは考え方が違うし、時々トールがわからなくなってしまうこともあるが――」
同じ者同士が集まったところで、成長も発展もない。全く違った考え方を受け入れるからこそ、人は成長できるものなのだ。
「私は、トールとの違いを知る毎日が楽しいのだ!」
エステルが言い放つと、ピシッと殻が割れるような音が響いた。
『馬鹿な……。《精神掌握》が破られた!? トールもエステルも、揃いも揃って化け物か』
「――ところで、お前は誰なのだ?」
やはり、どこか聞き覚えのある声だ。エステルは腕を組み考える。
先程は思考がぼやけてしまったが、今ならはっきりと思い出せた。
「もしかして、ルカ殿か? でも、どうしてルカ殿の声が聞こえるのだ?」
エステルに言い当てられて、アミィはわずかに言いよどんだ。自身が他人に乗り移った時、ほぼ百パーセント無条件に魂を掌握出来る。だが、エステルには通用しなかった。
初めての状況に、アミィは戸惑っていた。
『……私はー、他人の体に入り込めるんですよー。いわば、魂のようなものですねー』
「んん? どうして私に乗り移ったのだ?」
『他人の体に入るにはー、いくつか条件があるんですー。その条件に適合して、かつ戦えそうな個体が、あの場ではあなただけでしたー。本当ならアロンに乗り移りたかったんですけどねー』
ギルドマスターの職についてから久しいが、アロンは腐ってもAランクの冒険者だ。乗っ取れれば、次こそはトールを叩き潰せるかもしれない。
しかしアロンはガードが固く、条件をクリア出来なかった。
アミィが体を乗っ取るための条件は三つ。
一つ目は、相手から自発的に名前を名乗らせること。
二つ目は、素肌の一部に三秒以上触れること。
三つ目は、前二つの条件を満たした者の前で、今操っている肉体を捨てることだ。
それらの条件を満たした人物は、あの場に数名存在していた。だがそのほとんどが、戦えない体だった。乗っ取ったところですぐに潰されるのがオチだ。
条件を満たした中で最も良い肉体を持っていたのはトールだ。しかし彼の中には神が六柱もいる。体に入ったところで魂ごと握りつぶされる未来が目に見える。
次点が、エステルだった。
アミィはルカの体を捨て、魂の大部分を失いながらも、なんとかエステルの体へと乗り移ったのだった。
彼女は現在Dランクの冒険者だ。Cランクだったルカと比べると格が落ちるが、他に手段はなかった。
しかし乗り移るところまではよかったのだが、まさか魂の掌握に手こずるとは思わなかった。このままでは体を思うように動かせない。トールやアロン、グラーフたちの攻撃が避けられない。
――死。
それを意識し、アミィは震えた。
(仕方ない!)
アミィはその手で、エステルの魂を鷲掴みにした。
エステルが邪魔をするなら、その魂を砕けばいい。魂を砕くとエステルは死ぬため、容易く体を乗っ取れる。
反面、肉体が溶け落ちてしまう。いつだかのフィリップのように。
しかしいまは緊急時だ。自らが消えてしまうよりも、アミィは僅かな可能性に懸けた。
アミィは魂を握る手に力を込めた。
次の瞬間だった。
『なんですか、これは……ッ!?』
真っ暗だった精神世界に、白く強い光が満ち溢れた。
エステルが乗っ取り条件を満たす様子は、小説2巻にばっちり描かれています。
もちろん漫画版にもきちんと描かれていますので、気になる方は漫画版をご覧ください!
劣等人の魔剣使い 小説4巻
何卒、ご購入宜しくお願いいたします!