いちごオレ
僕はまだ青春の味を知らない。
青春、なんて言葉は、当の本人たちには全くピンとこないもので、僕はまだ、これが青春か、と思ったことはない。それでも、大人になって振り返ってみると、今のこの瞬間が青春なんだろうな、とふと感じる。
いちごオレを飲み始めたのは、あるCMを見てからだ。といっても、地上波で見るようなちゃんとした作りのものではない。文化祭の劇紹介の映像で流れたCM。劇の内容は一切なく、ただいちごオレを勧めるだけのものだった。実際、劇の内容は覚えていないのだが、一回しか見ていないCMの方はなぜかうっすら覚えている。
食堂横の自販機で初めていちごオレを買って飲んだとき、なんとも平凡な味だと思った。酸味のないイチゴを牛乳に溶け込ませたような味で、後に残るその甘い香りがクセになる。それから、我ながら飽きもせず、時折いちごオレを買っている。
いつごろからだったか、紙パックの柄が変わり、上部に「青春の味」と銘打たれ、側面には学生の絵が描かれるようになった。
一度、気分が落ち込んだときに飲んでいると、ふと淡い色の学ランとセーラー服の絵が目に留まった。説明するまでもなく今はブレザーなものだから、なんとなく中学生のような気がして、僕が中学生のときの思い出が全部、すでに色褪せているように思えたので、それから落ち込んでいるときに飲むのはやめた。
青春を知らないまま機会を逃すのも惜しいが、何をすればいいのかも分からない。ある人からみればこれらは記憶に留まらない無駄な一日になるのだろう。
昼休みになると、僕はいちごオレを買いに一階へ降りる。僕の中では、階段を往復する足労よりも、それを飲む楽しみの方が勝っている。それか、すでに習慣づいていて苦になっていないかだ。
そして、また教室へ戻り、友人――岬尋紀――の席の向かいでお昼を食べる。教室の中のざわめきは、それぞれのグループの会話の内容をうまく隠していて、何かBGMが流れている中で喋る心地がしている。
「……お前ってよくいちごオレ飲んでるよな」
「そうだねえ」
他愛無い言葉で会話が始まる。
「俺、ずっと思ってたんだけど、青春の味っておいしいのか?」
「これはおいしいよ」
「……ああ、そうかい」
尋紀は言葉が出ないようだった。
「青春ってなんだろうね」
「さあな。やっぱり恋とかなんじゃないか」
「恋か……」
残念ながら、僕は恋愛関係には鈍感だ。もしかしたらこの学校にはカップルなど存在しない可能性もないわけではないが、僕が知っている限りはいない。つまりそういうことだ。数瞬の思考のうちに、やはり尋紀はそれを見抜く。
「まあお前はそういうのは無縁だろうな」
「僕もそう思ってた」
僕は軽く笑ったあと、一息ついて尋ねた。
「恋愛ってした方がいいのかなあ」
尋紀は吹き出しかけたのを抑えて、なんとか顔を元に戻した。
「いや、すまん。お前からそんな言葉が出るとは思わなくてだな」
そう言ったあと、まあ、と一つ付け加えてから、
「しようったって簡単にできるもんじゃないだろ。まあ片思いくらいなら簡単にできるだろうがな」
と答えた。
「なんかそれすごい青春」
「だいぶ語彙力落ちてるぞ」
危ない危ない。頭が働いていなかった。
尋紀は続けて言う。
「ほら、最近LGBTだのマイノリティだの言われてるだろ?そういうのではない?」
「うーん、よく分かんない」
分かんない。
「俺も分からんけど、まあ、そういうのかもしれないとちょっと思っただけだ」
「確かにね」
そう言って、いちごオレを一口飲んだ。一瞬喉が詰まって、また開く。思考は元に戻りそうにない。
放課後、教室。冷たい空気の中にいる。なんとなく並んでいる机と対照的に、黒板はきれいな深緑色だ。そろそろ時期が時期なので、ある一種の寂寥を感じながら、ワークとノートを開く。
外の天気は心情描写というわけではないが、明るめの雲が空を覆っている。今日は傘を持ってこなかったなあ。
黒鉛が削れる音。紙が曲がる音。心臓が動く音。空気が唸る音。
頭がフル稼働する。といっても、目の前にある課題に集中しているわけではなく、副次的に考え事が進んでいるだけなのだけれど。
自分がどんな人間かなんてどうでもよくて、僕はただ人間であるだけで生きていかなければいけないし、普遍的な人間が成し遂げるべきことをしなければならないという社会的な暗黙の了解は嫌になる。僕には他人の人間性なんか分からないし、相対的な評価としての僕の人間性も分かりはしないな、と感じた。そう感じるのに秒単位の時間は必要なく、これが僕の常識だと思い込みたい。
皆は誰かを恋愛的に好きになったことがあるのだろうか。僕には恋愛的というのが分からないから、誰かに説明してもらいたいのだけれど、普通を自称している優しい人はいるだろうか。多数派がいるということだけが分かる中で、あまりに多くの専門的な用語が飛び交っても、僕には処理しきれない。ただ、普通とは少しずれているのかもしれないと、そう思った。
それでも、折角だから、人生は謳歌しようと思っているが、今までの自分はどれもこれも中途半端だということは分かっていて、背伸びしたセンスも、したくもない努力も、必ず要るであろう向上心も程々にしか持ち合わせていないのが些か不憫だ。きっと、今こんなことをしようとも、確かな答えを得たり、解決することはできなくて、一生知らないまま死んでいくのだろう。さすがに世界のすべてを理解することはできないだろうが、身近にある青春というものさえ分からないまま人生を締めるのは勿体ない気がする。
せめて概念だけでも恋愛を体験したいが、誰に頼めばできるのだろうか、全く見当もつかない。顔が広いわけではないし、数少ない知り合いに言っても十中八九変な顔をされるだろう。
かろうじてほんの少しの希望を見出せるのは尋紀くらいか。明日にでも聞いてみるかな。やめておこうかな。
日が落ちる。肌寒くなるのを感じる。それは一体なんのためか、僕はシャーペンを回しながら黒板の一点を見つめた。空回りする音が聞こえる。僕は今、何も考えてはいない。ただ頭にこもった力を感じているだけである。
僕が一体どういう人間か分からない。今生きている意味なんて誰も分かっちゃいないだろうが、そういう類の漠然とした不安が襲う。いくら考えても、はずだ、だろう、と推量するしかないのが一層気持ち悪い。
下校時間の放送が鳴った。今日はほとんど進まなかった。シャーペンやらノートやらを、きれいに鞄に収める。辺りはいつの間にか真っ暗で、教室の電灯が際立って光っていた。どうやら外は雨が降っているようで、今日は傘を持ってこなかったなあ、と思った。それより他はなかった。
次の日。朝から雨が降っていたので、傘を差してきた。いくら外が寒かろうが、教室に入ると人の熱で少々暑いくらいにはなる。なんとなく頭が回らない気がするのも、きっと湧き上がる暑さのせいだ。
昼休み、僕は小銭を手に階段を下りた。食堂は毎日のように待機列ができていて、それを横切って自販機の前に立つ。百円、十円を入れて、ボタンを押す。間違えてプリンを選ばないように注意。ちなみに一回やってしまった。アームがいちごオレを運んでくる間に、ストローを一本取り、ガタンと音がしたら、受取口を開けて取り出す。少し膨れた紙パックと、中で揺れる液体が、満足感を増幅させる。
教室に戻り、いつもの席に着く。尋紀がなんだかにやついていた。
「で、昨日のアレはなんか進んだのか?」
「ん?ああ、そうそう。付き合ってくれない?」
これには耐えられなかったらしく、尋紀は盛大に吹き出して笑った。
「お前、あれからどう飛んだらそんな思考になるんだよ」
「いや、だって、頼めそうなのが尋紀しかいなかったから」
「もっと友達作ろうな」
正論に立ち向かえるほどの余裕はなかったので、素直にうなずいた。
「それで、どう?一日だけでもいいから」
「どういうことをすればいいのか分からんな」
曖昧な返事。まあ、雰囲気があるときだけでも体験できたらいいかと楽観的に考えた。
いちごオレは、今日もほんのり甘い。きっと相手のことを想う時間がこんな味なんだろう。
放課後、尋紀に、今日は一緒に帰らないか、と聞いた。いつもは部活があって帰るのが遅いのだが、どうやら今日はないらしい。雨が降っているからだろうか。
尋紀はすぐに、いいよ、と言った。二人で傘を差して校門を出る。空は大分暗いが、日が沈むころほどではない。
「こういうときって、相合傘とかするんじゃない?」
と、冗談交じりに言ってみると、尋紀は笑って、
「さすがにここらはまずいから、ちょっと歩いてからだな」
と言った。制服を見かけなくなった辺りで、僕はそっと傘を閉じ、尋紀の傘の中へ入った。
「……なあ、これ、すごい肩が濡れるな」
「もうちょっと近づけばいいんじゃない」
「それもそうか」
雨が傘に当たる音。車が走る音。線路が鳴る音。束の間の沈黙。
なんだか気まずくなると思って、何も考えずに言葉を発した。
「いやあ、昨日はずっとこんなこと考えてて」
「え?すごい時間かけてるな」
「なんか止まらなくって。放課後もこれに費やした」
「そこまで悩むことか」
と、尋紀は呆れ混じりに息を吐いた。
「よく分かんないから全然考えが進まないし、堂々巡りしてる気がするし、課題は手につかないし。もう半分ぼーっとしてただけ、みたいな」
尋紀はくつくつと笑う。
「それ、もしかして風邪なんじゃないか?」
「あー、あるかもしれない」
「早く帰って寝ろよ」
僕の気の抜けた返事で、一旦会話が止まった。
「まあ、俺はな、そうやって一丁前に悩むのも青春だと思うよ」
何だそれ、と思わず笑ってしまった。
「随分と格好つけた台詞回しじゃないですかあ、岬さん?」
と茶化すと、尋紀は顔を背けながら、うっせー、と小さな声で言った。なんとなく、顔が赤い気がした。