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Remember-58 忍び寄る影/Null《空っぽ》と残したいもの

「ッ……、ふぅ……ッ」


 転生もしていない生身で木々の生い茂った山を登るというのは、とんでもなく重労働だ。

 一歩一歩、踏み込むだけで汗が二滴、四滴と落ちるし呼吸はその倍。心拍数は更にその倍は刻んでいる。


 だけど、迂闊に()を漏らすわけにはいかない。無理なのは承知だが、静かに進まなくては。


『ユウマ、少し休んだ方が良い。或いは斜面を一直線に登らず迂回路を――』

「いいや、そんなことよりもベルは静かに……ハァ……相手に俺のことを悟らせないようにしないと」

『良いから休め! さっきから呼吸も乱れてて、そんな状態じゃ隠れても簡単に見つかるぞ! それに相手って、結局誰なんだよ。ユウマはまるでわかっているみたいだけど、私にはさっぱりだ。なんだかお前らしくない。不親切だっ』


 まくし立てるようにベルからお怒りの言葉がぽいぽいと飛んでくる。

 ……確かに、口ではどうにかするとは言ったものの、さっきからどうにもできていない。これは一度呼吸を整える必要があるだろう。


 それに、俺らしくない……か。確かにそうだ。でも、言葉にして告げてしまうことに、何か勇気が要る気がして口が重くなる。


「…………はぁ」


 泥沼に足がじわじわと沈むような、そんなゆっくりとした息を吐く。

 足を止めて、俺は素直に彼女の意見へ従うことにした。ズボンに跳ねた水のように、溜まっていた疲労感がゆっくりと流れ落ちていくのを感じた。


「ハァ、ハァ……多分、あれはアザミの声だ」

『……アザミさんの、声だって?』


 呼吸を整えるついでに、俺はそう告げる。

 確固たる証拠は無いが、微かに聞き取った時に“もしかすると”と、脳裏に彼女のことがよぎった。


『それは本当か? この山奥で、彼女の声が……?』

「ああ。多分って部分を強調させてもらうけどな……まあ、俺の聞き間違いで彼女じゃなかったとしても、こんな夜、こんな山奥に居る時点でそいつは怪しさ全開だけど」

『…………そうか、彼女。彼女が居たか……!』


 突然、なにやら閃いたような様子でベルは声を荒げた。


「? い、いや、多分だよ多分……うう、自信ないことをそう何度も聞かれると徐々に自信をなくすんだよな……」

『そうじゃない、ユウマ。さっきの話の続きだ。今回の騒動の犯人候補だよ』

「な、なに……?」

『あの時ユウマは「村の中に転生使いとか魔術使いがこっそり紛れ込んでいる」なんて安易で適当な当てずっぽうを言ったが……彼女なら、ありえる』

「…………」


 ……まあ、確かに適当だったし当てずっぽうだったけど。そこまで言わなくてもよくない?


 でも新説がこんなところで飛び出してくるのは驚いた。反論したい気持ちもあるが、ここは抑えて静聴することにしよう。


『そもそも、さも当然のように彼女は“通訳者”なんて名乗っているが、それは何故だ? そして遠く離れたこの村の地域語を知っているのは何故だ? 偶然ちょうど知っている風だったが、それは本当に偶然なのか?』

「それは……確かに、アザミがなんで通訳者なんてことをやっているのか知らないな……」

『そうだな。だからこそ彼女の目的が、この村での一騒動の可能性は十分にある』

「でもそんな……回りくどいって言えばいいのかな、そんなことをわざわざするか? 証明印が云々なんてカーレン村でもできるだろ。なんでこの村が標的なんだ?」

『そうだな……例えるなら、殺人鬼が自分の家すぐ近くで人殺しをすると思うか? 証拠や関連性を残さないよう、自分と関わりの無い場所でするものさ』


 ……つまり、アレか。自分の家――住んでいる村で問題を起こさず、こうして自身とは関係の無い場所で行動を起こしてる……そう言いたいのか。

 ベルの言いたいことは分かる。考察も理解できると……思う、気がする。


『もしそうだとしたら、彼女の“目標”はわかる。最終的な“目的”じゃなくて、そこに至るための通過点の“目標”がな』

「目標……?」

『その目標は、領主をこの件に()()()()こと――まさにこの状況だ。領主そのものに何かをするのか、別の個人的な目的達成のためのスケープゴートか……その辺の目的は分からない。だが、特別怪しい存在(領主)が居て、しかも三日も足止めをくらうこの状況は彼女からすれば好ましいだろう。悔しいが、今の私達は先手を打たれて相手の想定通りに事を運ばれた状況だな』


 ……ベルの言葉は、分かる。分かりやすい――いや、俺は多分何もわかってない。

 よく分からない横文字(スケープゴート)を分かったつもりで頷いているのが良い証拠だ。何かが通り過ぎるのを待つかのように、ベルの言葉に頷いて耐え凌いでいる。


 アザミが怪しい。それが新説。

 多方面を疑うベルの考え方はきっと間違っていない。怪しいのなら怪しいと言うべきだ。むしろ心配なのは()()()()こと。アタリの入っていないくじ引きのように、疑った候補が誰も犯人ではなく、真犯人は既に事を終えている――それが一番避けるべきことだ。

 アザミと俺は出会って間も無い。あの優しい笑顔も、穏やかな性格も、少し抜けてるような個性も、それが本当に嘘偽りの無い彼女なのだと保証する物は、ない、の、だし……


(でも。それ、は……)


 大前提に、俺は騙されても良いとは考えていない。裏切られたら怒る。仮に彼女から「簡単に騙された間抜け野郎」なんて挑発されれば、転生して手斧を二本容赦なく投擲して粉砕できる自信がある。


 でも、それでも俺に、彼女を信じたい気持ちが胸の奧に存在している。疑いたくないと反発する心が居座っている。どうしてそこまでして彼女を信じたいのかはまだ上手く言葉にまとめられないけど、俺の心はそういうことだ。


『……すまない、相手の心情を考えずに意見を口にしてしまうのは私の悪い癖らしい』

「ベル……?」

『ユウマ、今凄く嫌そうな顔をしていた。』


 言われて、顔を触ってみる。

 ぺたぺたぺた。

 あんなに発熱していた顔は冷めて、呼吸でうるさく喘いでいた口は閉じている。鼻呼吸で酸素の循環が成り立つ程度には落ち着いていた。


「……そんな酷い顔だったか?」

『酷くはないよ。ただ、険しそうな顔だったってだけさ。でも今はいつものユウマだな。何も考えてない時の』

「いつも何も考えていないみたいな言い方は止めて欲しい」


 ややトゲのある言葉だが、固まった心の中を凝り解すにはちょうど良いものだった。俺はふぅ、と一息つきながら人差し指の側面で額の汗をピッ、と払い退ける。


『……真相は追々だな。今のユウマならバレることはないだろう』

「ああ……そうだった」


 足は……さっきよりはマシって感じ。

 それでも今なら呼吸も一分程度なら止めて動けるし、息継ぎも音を殺してできる……と思う。隠密行動には十分な回復だ。


「行こう、ベル。本当にアザミなのか、こんな山奥に誰が何をしているのか突き止めに行くぞ……!」




 ■□■□■




 草木の揺れる音。虫の合唱。夜風がすり抜けていく音。

 月が出ているのが唯一の不運だが、それでも上等だ。俺の存在はまるで夜闇に隠れている。


「………………」


 ……隠れてる、筈だったんだけどなぁ。

 今はもうそんなことをする必要が無い――いや、意味が無い……手遅れ? そんなところか。


「……どういうことなんですか、ユウマさん」


 いや、まあ……なんだ。

 草むらで完全に姿を消していたのに、低木の葉っぱを一枚動かしてのぞき穴を作っただけなのに――


「……まさか、それだけで気づかれるとは」


 いや、まあ、うん。言い訳を唱えさせてくれ。

 だってさ、まるで針穴に糸を通すみたいに、アザミが視線をピタリと合わせてくるとは思わなかったんだよ……!


『――どうしてお前は何事も定石とかお決まり通りにできないんだ』


 できないんだ……ないんだ……んだ……

 ベルの声が脳内にエコー効かせて反響している。いやまあ、ベルは一言もそんな発言はしていないのだけど。俺の頭の中の勝手な想像だ。

 でも絶対、ポケットの中でそう言いたそうにしているんだろうなぁ……


「いやぁ、まぁ、うん。えっとデスね……」


 俺は正面の現実からギギギ、と顔を背け――


「聞いていますか!? あのですね、どうしてこんな森の中を歩き回っているんですか!? ユウマさん!」


――られなかった。

 大和撫子の腕力に負けてギギギギ、と必要以上に反対方向に首を捻られて、


「あっ、やりすぎた……おととっ」


 ギッ、と微調整の一捻りを更にその反対方向に加えられた。痛い。


「痛つっ……お、俺は別に悪い事も後ろめたい事もしてないぞ。トイレと夜風に当たるのと……それと、今の状況を振り返って情報を整理してただけだ」


 実際は後ろめたい気持ちはあるけれど、嘘は言っていない。ベルと一緒に情報整理をしていたのだから。

 でも、まあ。その内容は――容疑者に彼女(ご本人)が加わった事は――流石に、口が裂けても言えないのだが。


「悪い事も後ろめたい事も関係ありません! そんなことより、夜の山は危ないんですよ! 猪とか出てきたらどうするんですか」

「…………あぇえ?」


 ……なんだろう、なんか思ってたのと展開が違う。まるで俺が何か悪い事をしていたみたいな雰囲気になっている。


 てっきり、「何を怪しいことしてるんだテメー!」的な怒りだと思ってたが、どうやら「何を危ないことしてるんだテメー!」的な怒りらしい。

 ……つまりさ、どういうことなの?


「イノシシ……? そんな危ないのか? この前クレオさんから聞いたんだが、山の生き物って基本臆病なんだろ?」

「……コホン、良いでしょう。知らないのならお話ししましょう。前提として猪の背丈はこれぐらいです。ちょうどユウマさんの太腿のここぐらいですね――あ、すみませんちょっとなんで立っているんですか。正座して下さい正座」

「なんで立っているんですかって、何さ!? いや、ってかあの、ここ山の中……」

「正座でお願いします、はい。大和撫子たるもの、お説教の時は相手に正座させるのが基本と聞きまして」


 ニッコリとした圧力。なんか“逆らったら命にかかわるかもしらん”と直感が警鐘を叩き鳴らしているので、言われたとおりに正座する。

 多分だけど、大和撫子というものはよくわかってないけど、確実にこれは違う。彼女は何かを致命的にはき違えている。


「…………ハイ」


 ああ、ズボン越しに地面が湿ってるのがわかるなぁ……


「ありがとうございます……コホン、確かに山の生き物は臆病ですが、追い込まれたと理解すればすぐに反撃してきます。まずその猪の牙がユウマさんの太腿に突き刺さります。意外と太腿って弱点なんですよ? 太い血管がたくさんありますから」

「アザミさん指痛い。牙の再現で突き刺してる指がさ、爪が長いからすげぇ痛い」

「内股の動脈を千切られれば、足の損傷と出血多量でユウマさんは倒れるでしょう。次にそんな動けないユウマさんを猪はハムに齧り付くみたいに全身を食いちぎって――」

「あー、わかった! わかった、わかった。山の生き物を甘く見てた! 夜の山は危険なんだな! 迂闊だったって反省してる!」


 俺が折れればこの話はさっさと終わると理解した瞬間、俺は即座に負けを受け入れた。白旗があれば振っていたことだろう。

 つまり、アザミは「夜の山は危険だから迂闊に出歩くな」と説得したいのだろう。俺が折れて場が収まるなら幾らでもボキボキと折れてやる。


「……はい。その点をわかってくだされば良いのです。ご無事で良かったです」

「…………」

「? ユウマさん?」


 アザミは不思議そうに俺の顔を見つめて首をかしげるが、俺からすれば彼女の方が不思議極まりない。

 悪いかどうかは不明だが、怪しいのは間違いなく彼女の筈だ。


 ……ああクソ、聞こえた声が本当に彼女のものなのか今まで自信が無かったのに、こうもすっとぼけられると強い言葉の一つや二つ口にしたくなってくる。


「……そういうアザミこそ、こんな山奥に何してるんだよ。さっき何か喋ってるのが聞こえたんだが、誰かと会話でもしていたのか? その相手は見当たらないけどさ」


 反撃と言わんばかりに、俺は皮肉交じりに言葉を口にした。

 こんな言い方、自分でも良くないとはわかっている。でも俺はベルやシャーリィほど利口でも賢明ではない自覚は持っているから、愚直にも行動的になってしまった。


「何をって、ユウマさんを探しに来たのですが……」

「……俺を?」

「はい。何か喋っているというのは、きっと私がユウマさんを探して呼ぶ声かと」

「…………ほん、とう、に?」

「クレオさんにもそう告げてから来ましたので、疑わしいなら彼に尋ねれば私が此処に来た理由を話してくださるかと思いますよ」


 平然と答える彼女からは嘘は……感じられないと思う。

 ……やばい、少しずつ自己嫌悪に似た後悔がチクチクと胸に込み上げてきた。数秒前の自分を殴り飛ばせるのなら、転生して(全力で)殴り飛ばしたい。


「そうか……クレオさんも知って――ん? ちょっと待った。“疑わしいなら”って、別に俺はそんなこと――」

「思っていますよね。これは私の想像ですが、村の一件に関する犯人候補……といったところでしょうか」

「…………ぃぇ」

「……ユウマさん。こっち向いてくださいユウマさん。あの、ユウマさん! ユウマさん!? ぐっ……首の動きが固いッ……!」


 目線を逸らしたらまたしても力技で俺の顔の向きを正そうとしてくるので、こちらも全力で抵抗する。手の内がバレバレだったせめてもの抵抗だ――ああクソッ、首が! 首がアホみたいに痛いぞ!


「ぐぬぬ……ま、まあ! ですけどッ! その反応は“そういうこと”と捉えていいんですね!?」


 ……そこまで彼女から察せられているとは想定外だったが、なら色々と話が早い。俺は頭を使った駆け引きとかには向いてない。そういうのはベルとかシャーリィの役割だ。


 だから、今この場で真っ向から聞いてやる。それが俺なりのやり方だ。後でベルにしこたま怒られたり呆れられそうな気がするけど……!


「ッ、なんか首の後ろの方でボゴォって鳴ったぞ……ゴホン。なあアザミ、その辺察してるなら俺の聞きたいこともわかるだろ」

「…………いえ、わかりません。ユウマさんが直接口にするまで答えません」

「さっきの抵抗の意趣返しのつもりか……!? じゃあ遠慮なく聞くからな! あと立って良い!?」

「…………どうぞ」

「ん、ありがとう! もうなんかズボンの膝から下が濡れてて手遅れだけど!」


 パッパッ、とズボンの土を払い退けて立ち上がり、真っ向から受けて立つようにアザミの真正面へ立つ。

 こうなったらもう勢いが大切だ。少し大げさな動きと言葉で、彼女と向き合ってやる……!


「――じゃあ、ズバリ聞くけどさ!」

「……ッ」


 人差し指を向けて声を張る。その瞬間、少しだけ彼女の表情が何かを覚悟するみたいに固くなった……気がする。

 「君が今回の件の元凶なんじゃないか」という問いは、その顔を見た途端に喉の奥に引っ込んでしまった。だけど、今のこの勢いを殺す訳にはいかないから――


「……なんでアザミはさ、地域語……だっけ? そういうのを勉強してるのさ」


 ……いかないから、俺はちょっとだけ考えて、気になったことを口にすることにした。純粋に知らないから聞くような、そんな問いを。


「……はい?」

「えっと……だから! なんでそういうのを学んでるのか――動機! そう、動機を聞きたい! 嘘無くハッキリ言ってくれ!」

「え、ええ……? ちょ、ちょっと待ってくださいね……ええっと……」

『……どういう空気なんだコレは』


 ポケットからぼそりと聞こえたけど、俺もアザミもなんかもう目がグルグル回っている。この状況にこの問答、どこに着地できるのか俺にも検討つきません。


「うぅ、予想していたのと全然違う質問です……えっと、とりあえず言語化できました。私が地域語を学んでいる動機……ですよね?」

「ああ、シャーリィからアザミは通訳者だ~って、事前には聞いてるけど、それ以上のことを俺はまだ何も知らない。だから今この場で聞かせて欲しい」

「……わかりました。でもどうか、できれば聞いて笑わないでください」

「笑わないよ。真面目に聞いてるから」

「……ええ、そうですね。本当に、ビックリするほど突然で真っ直ぐです」


 そう言うと、笑わないでと口にしたアザミの方が微笑んでいた。


「私は、残したいから言語を学び始めたんです。地域語というマイノリティ(少数派)としていずれ消えていく言葉や文化を、できる限り残していたいからです」

「マ、マイノリ……え、ええっと……? 残したい、から?」

「ユウマさん。貴方から見てこの世界はどう見えますか? 客観的に、思うがままに言ってみてください」


 まだ頭には疑問符が浮かんでいるのに、重ねてそんな質問をされてしまう。

 客観的、客観的……そもそも見てきた世界とやらが狭過ぎるのもあるけど――


「シャーリィの王国は綺麗で整ってた。煉瓦とか土地もそうだけど、社会の仕組みってやつ? それも遠くまで整ってるように見えた」

「……そうですね。ネーデル王国は特にそう感じれると思いますね」

「うん。でも……なんだろ、裏面があるって言えばいいのかな。反ギルド団体みたいなどこかでその代償みたいに苦しんでるところもやっぱりある……って感じ」

「…………」


 綺麗だけど、何もかもちょっと“綺麗すぎる”気がした。

 いや、綺麗なことが悪いって言いたい訳じゃないのだけど、こうも環境が良すぎると裏がありそうというか……実際、その犠牲(反ギルド団体)を見たというか。


「……そうですね。この世界はちょっと整いすぎています。その一つに、私達は共通言語という統率された言語を、ごく当たり前のように使っています。ですが、言語の統率はすなわち従来の言語や文明の淘汰でもある――私はそう感じています」

「言語や文明の、淘汰」


 ……難しい話だが、言いたいことは分かる。

 誰とでも会話が成り立つ“共通言語”を使うようになったってことは、元々使われていた言語は使われなくなるというごく当然の事だ。

 それを彼女は“淘汰”と、まるで生き物を根絶やしにするような表現で言い表したのは少しインパクトがあって、思わず俺は話の雰囲気にやや呑まれていた。


「淘汰されたものには、“虚しさ”しか残りません。ただ単に数が0になるのとは違うんです。0はまだ始められる。1に進むことも、-1へ道を引き返すこともできる……ですが、“虚しさ”――Null(空っぽ)は違う。Null(空っぽ)はいつまで経っても始まらず、終わったまま……言うなら概念の死です。それがあまりにも、私は恐ろしい」


 何か、目の前に立っている俺じゃないどこかの光景でも眺めているみたいな瞳で、アザミは寒さに震えるみたいに自身の体を抱きしめた。


 ……何も言えず――いや、何も口を挟んではいけない気がしたから――口を閉ざす。今の言葉は、彼女の経験から基づく事実なのだろう。

 間違えても、“それを茶化したり否定することをしてはいけない”と、警鐘に近い予感をひっそりと感じた。


「言いたいことは少しだけ理解出来た……だけど、流石に限度がないか? 否定する気は無いんだけど、それをアザミ一人で背負うには荷が重くはないか?」


 規模は違えど、聞いた感じだとこれじゃシャーリィの二の舞だ。

 身の丈に合わない、と言いたい訳ではないのだが……それを実現するのに、限界スレスレか、限界を超えた努力を要するのではないかと思えて仕方ない。


「……聞きかじった話ですが、現ネーデル国の領土には元々、約78の国があってそれぞれに言語、文化、社会があったそうです……転生者による言語統一の際に、今はネーデル国という一つの国に纏められました。……確かに、そのうちの5つ程度しか私は言語を残せていません。ですが、身の丈に合わないことはとうの昔に承知の上なんです――」

「? 悪い、ちょっと話の腰を折らせてくれ。転生者伝説の話を俺は知らない――ってのは前にも話したか。だから気になるんだが、なんで転生者は言葉だけじゃなくて国までくっつけたんだ? 淘汰するのは言語だけで文化とか国は残しても良かっただろうに」


 言語の統一はまあ分かる。言葉が通じないのは滅茶苦茶不便だし。この村でそれを実感したし。だけど、素人考えだが国同士をくっつけるだなんて、なんだか面倒事とか起きそうに思える。


 それに個人的には78って数も気になる。なんだよその中途半端は?

 仮に転生者が俺なら、くっつける国の数は50とか100みたいな区切りの良い数にするが、なんでその数なんだ? 一体何の意図がある?


「すみませんが、そこまでは……何かしらの意図があったとは思いますが、真意についてはいくら調べても……」

「……そう……かぁ」

「……あ、あはは、ごめんなさい。なんだか複雑で分かりにくい話ばかりでしたね。えっと、結論をまとめますね! 私はその淘汰されているものから“何か”を残したかったのです。それで選んだのが言語だったって話です! はい、そういうことでこの話はおしまいです!」


 パン! と手を鳴らして一方的に話を断ち切られてしまった。

 汗をタラタラと流して、恥ずかしそうに赤面しながら視線を逸らす姿は……まあ、嘘偽り無い動機だったんだろうな~って、なんとなく察することができる。


「むむ……そもそも、ユウマさんはなんでこんなことを聞いてきたんですか?」

「……んえ?」

「“んえ?”じゃありませんが!? なんでこんな回りくどいと言いますか……ええっと、そんなに堂々と聞くのなら、本当に聞きたいことを聞くべきなのではありませんか!?」


 口調はいつもより荒いが、怒っているというよりは本当に訳が分からなくて困惑している様子でアザミは訴えかけてくる。


「……俺はさ、出来れば人が嫌がることはしたくない」

「嫌がること?」

「ああ。さっきさ、アザミが言うその“本当に聞きたいこと”を聞かれると思って、少し怖がってなかったか? そんな顔をしていた……と思う」

「……!」


 彼女はきっと、俺が「アザミが今回の件の元凶じゃないか」と思っていることを察していながら、実際にそれを言われることを恐れている。

 察している時点で、別にそれを口にしようがしなかろうが変わらないだろうが……まあ、なんだ。そういう理屈や形の無い曖昧な部分が人の心なんだろうな。


 思いは曖昧だが言葉は明確な“形”を持っている。目には見えなくても、言葉は人を刺し殺すようなナイフの形だって持てるはずだ。

 だからこそアザミは、“それ”を俺から突きつけられるのを恐れている。


「……ああ、いや。ごめん。今の発言は良くなかった。人の心境が読めても、本人にズバリそれを言い当てるのは、本人からすればあまり気分が良くないことだって、記憶喪失なりに理解しているつもりだったんだけど……」

「ゆ、ユウマさん……どうしてそんな、気を遣うような……」

「いや……違う、違うな。そんな本筋から脱線した話も気遣いも、俺が本当に話したいことじゃない。えっと……」


 さっき口にしようとしたあの言葉を思い浮かべて、それを噛み砕いて形を整える。


「俺はほら、お馬鹿だからさ、純粋にアザミのことをもっと知っていきたいだけなんだ。だから――」


 俺がズバリ言いたかったこと。その上で俺がしたいこと。

 誤って相手の心を傷つけてしまわないように、俺はできる限り丁寧に言葉を紡ぎだした。


「もしも、万が一に君が事の元凶だったら、その時は容赦しない。だけどその時が来ない限りは、俺はアザミと良い仲間であり続けたい」

「…………」


 沈黙。だが、息苦しくは無い。

 アザミは小さく迷ったような顔を浮かべたが、瞳を閉じて一度深呼吸をして――やっぱり、何処か不安げな顔をしながら口を開いた。


「……ユウマさん、前の話を掘り返しても良いですか?」

「前の話?」

「私が本当に怒った時、背中を押してくれたり、やり過ぎたら止めてくれるというあの言葉です。あの言葉を、私なんかが信じても良いですか……?」

「私“なんか”がって……人を信じることを許されてない人間は、この世の何処に居ないと思うぞ? そんな心配しないで、君は君の自分らしさを見せて欲しい」

「私、らしさ……」


 きっと彼女は、常に一歩身を引いているのだ。自分から意思を持って前に出る経験が無いのだろうと、勝手ながら直感で彼女を理解した。


 大和撫子……どういうものか分からないが、きっと何かを引き立てるための立ち位置なのだろう。そしてそれはきっと、一つの美徳でもある。

 でも、俺の身勝手なのだが、できれば彼女にはそんな謙虚にいないで伸び伸びと自由な形を持っていて欲しい――そう思えた。


「あとこれは根拠の無い勘なんだけど、アザミって結構おもしろおかしい性格してると思う。もしかしたら今まで会ってきた人の中で一番ぶっ飛んでるというか……」

「そうですか……おもしろおかし――ッ、んなァーーーッ!?!?」


 お、遺憾の意が飛んできた。

 冗談だよ、と仕草で場を納めながら――本心ではそう思っているけど――彼女とまた一つ打ち解け合う。


「まあまあ、どこまで続くかは分からないが、とりあえず俺達は……えっと、なんだっけ……ああそうそう、一蓮托生ってやつだ。お互い自分らしくやっていこう」

「私とユウマさんとシャーリィさん、それにクレオさんとですね。はい、どこまでできるか分かりませんが、私も自分らしさを――」

「いや、違う違うそうじゃない。そんな個別に呼ばないで、“私達”で良いじゃないか」

「……“私達”、ですか?」

「ああ。だって寂しいじゃないか、そういう遠く感じる距離感ってさ。というか、そうしてくれ頼む! 俺の“友達友好大作戦”の大きな一歩なんだよ!」

「……ゑっ、なんですかその、なんですそれ?」


 なんだかアザミに酷く困惑されたが、まあ聞かれたらそうなるよなぁ――なんて思っているのは、作戦立案者としては少し他人事過ぎるだろうか。


 でも、少しずつだがこの友達友好大作戦は良い方向に進んでいる。なんだ、俺の計画も中々上手くいくじゃないか。

 この調子なら、シャーリィとアザミの仲も深まって、余計な警戒も不穏さも無くなってくれる……そう信じている。


「……はい、ではこれからもよろしくお願いしますね! “私達”の関係を……!」


 満面の笑みを浮かべる彼女は、まるでお淑やかな花のように俺達の行く先を宣言したのだった――

〜∅《空集合》の練形術士閑話「転生者伝説と国の統一」〜


 転生者伝説で挙げられる謎の一つに、国の統一の仕方が挙げられている。

 何故この形で国をまとめたのか、何故この形で分断し、境界線を作ったのか……など、考古学では定期的に議論に出る……らしい(シャーリィ曰く)。


 「山岳や川を境界線にしている説」が一時期有力だったが、それでは説明のつかない直線の国境がネーデル国の遥か南に存在する為、当事者でなければ分からない永遠の謎とされている。

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