遠足
ふっと目が覚めた。
破れたカーテンから眩しい陽が差している。
四畳半の部屋だ。
見回すこともなく母の不在は知れる。
…お母ちゃん、また帰らんかったんじゃね…
九歳にしては小柄な綾子は歳に似合わぬ溜め息とともに起き上がった。
母が置いてった菓子バンがまだあると思ったが見当たらない。
空腹は感じなかったので手早く顔を洗い、
ビニール袋に詰めた教科書を確認し
自分が洗った中で少しはマシな服に着替えた。
靴は底が擦りきれ砂利道は歩きにくくてかなわないが、
学校に行くのは楽しくてたまらない。
大好きな本が読めるし、綺麗なリボンや可愛い服を着ている子は見ているだけで
ワクワクするし、なんといっても美味しい給食があるのだ。
アパートの階段をタタタと下りかけ、道路の反対側に同級生たちが立っているのに
気付いた。みんな、ランドセルではなくリュックを背負っていた。
……あ、きょうは遠足じゃった……
咄嗟のことで部屋へ帰りそびれてしまった。
祥子ちゃんに佳奈ちゃん、観月ちゃん、珠子ちゃん
みんなこっちを見てヒソヒソ話をしている。
……あの子、遠足に行くんじゃね。見てみんさい。またビニール袋じゃけん
お弁当もおやつもお茶も持たんでよう行くね~……
そんな声が聞こえてきそうだ。
お母ちゃんのバカ!お酒呑んで酔っぱらってばぁじゃけんウチが笑われるんじゃ
遠足の日は学校休むと言うたじゃろ!教えてって言うたじゃろ!
バカ!バカ!バカ!酔っぱらいの化粧の匂いしかせんお母ちゃんのバカ!
ランドセルがないことも、靴や服がボロボロなのも悲しいけど我慢できる。
友達がおらんでも、無視されても学校へは行きたい。
だけどお弁当はおろかおやつも、水を入れる水筒さえない遠足だけは
それだけは恥ずかしくて行けない。
母もよく知っているはずではないか。
先生たちや同級生から少しずつ分けてもらう惨めさ
からかうのに飽きたのかもう誰も口にしないが
ノラ犬かノラ猫みたいじゃ
なに言うん!ノラの方がごちそう食べとるけぇ
アハハハ、止めんさい、可哀想じゃろう
言葉が突き刺さるような痛みを感じた。
だから三年生の去年からは遠足だけは休むようにしていた。
それなのに……
ヒソヒソ話はさざ波のように静かだが途切れることなく聞こえてくる。
階段に佇む綾子を見てはバツが悪いのか視線をずらして、
登校通路になっている子達がみなこちらを見ながらヒソヒソヒソヒソ……
綾子にも意地がある。
階段を下りきって学校への道を歩き始めた。
誰とも目を合わさず、少しうつむきながら、急ぎ足で学校へ向かった。
砂利道の痛みも感じなかった。
校庭には大型バスが停まっていた。
秋の遠足はバスで行くのを思い出した。
みんなバスに乗り込んでいた。
先生が人数確認をしている。
三十九人、揃いました。出発してください!
綾子は急ぐのを止めた。
三十九人でいいんだ。
綾子は最初から人数には入っていないのだ。
高木先生がチラリと綾子に視線を向けた。
綾子は軽く手を降った。
先生は何も言わず長い髪を背中にはらいながらバスに消えた。
綾子は校舎の隅から楽しさで弾むように走り去るバスを見送った。
砂ぼこりがあがる校庭には誰もいなかった。
綾子は気が軽くなったからか淋しさも悲しさも感じることなく
フワリと自分の教室に上がってみた。
綾子の机に花が飾られている
真っ白い花瓶に負けないほど白い菊の花束が
えっ……なんで………
ああ、そうじゃった……
お母ちゃん、夜中に帰ってきたんじゃった
酔っぱらって化粧もはげてマスカラで目が真っ黒じゃったね
遠足に行けんけぇ泣きながら寝とる綾子に言うとったね
綾ちゃん、お母ちゃんと死のか
お母ちゃんとやったら死んでもええよ
そうじゃったそうじゃった
首にロープが残っとる
お母ちゃんは?
お母ちゃんはどうしたんじゃろ
死んだんかいね
どっかに逃げたんかいね
どっちでもええけぇ
綾子はあそこに見えてきた道を進むけぇね
お母ちゃん、綾子、遠足に行くけぇね
終