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電車を降りるとホームとホームの屋根の間から視界が開けて狭い空が見えた。
グレーがかった雲がくっついたり離れたりしながら電車からなだれ降りた群れたちと同じように急ぎ足で去っていく。
湿った匂いがしてぬるい風が鼻先をかすめた。
群れの流れには逆らわないように少し前方斜め下を見つめながら早足で歩く。
それでも新しい通路ができたりと以前とは随分様子の変わった駅構内に時折目を瞑る。
その度に立ち止まりそうになるが、じっくり確認する猶予は与えられない。この群れの中にも本当は立ち止まりたい人がいっぱいいるんじゃないかと思う。ぽっかり浮かんでゆっくりしたり、突然立ち止まってモクモク立ち上ったっていいじゃないか。
知之が目的の最寄り駅の西出口に到着したのは、ちょうど昼時だった。
7時発の新幹線に乗って、東京に着いたのが11時前。
小腹が空いたので、たまたま目に入ったカフェで軽く食べて、久々にICカードに現金チャージした。カフェで会計の際、ICカードでも払えたことを思い出して、順番を間違えたと思ったが、普段使わないのでそんなことはどうでも良かったのだと打ち消した。そうやってふと浮かんだ建設的な事柄についてすぐに打ち消す思考の流れが当たり前になったのはいつからだろう。
地元ではほとんど公共交通機関に乗ることなどなく、車で移動するようになってしまったので、こんなものをまた引っ張り出すことがあるなんて思いもしなかった。結婚していた頃住んでいたところは路線バスでも地下鉄でもこのICカードが利用可能で、更に数年前にはこのカードとその他のICカードが相互利用可能になった為、東京に出張する際にも利用していた。
今住んでいるエリアでこれが使用できるのはJRだけらしいし、そもそも職場と自宅と実家、たまに近所に買い物に行くくらいで、とにかく移動することがないのだ。
(大学の時はこんなものなかったからな。電子マネーとか・・・・・・)
ここ数年は飛行機や新幹線はおろか、バスにも電車にも乗ることはない。最後にこのカードを使ったのは、職場の研修だとかで1度大阪へ行かされた時だろうか。それも2年以上前の話だ。
改札口で出したカードを普段は持つこともない鞄のポケットに突っ込んで、息を吸いこんだ。
醤油の香ばしいにおいがする。何を売っているのだろうか。目をやった方向からはまた少し違うにおいがするような気がする。
人だけでなく匂いまで騒がしいのか…それとも敢えて鈍感になろうとしてきた5感のうちの何かがイレギュラーに触発されて活動開始してしまったのかもしれない。体の空気に触れる部分がビリビリしているような気もする。
時間を確認しようとスマートフォンを手に取る。待ち合わせの時間まであと30分以上あるが、目的の場所まではここから徒歩で10分もかからないだろう。
それでも立ち止まっているのになんだか違和感を感じて歩きださずに居られない。立ち止まることは群れから脱落すると同時に彼らの視界の中からも消えることを意味する。それを求めての今であるのに、電車に乗っただけでまた歯車に一部と化した自分を自覚する。
群れの中で流されるのが心地よかったはずなのに、立ち止まってしまった今、流されてでも歩くのに息が切れそうだ。
でも自分を余所者と認識してくれる人さえここには居ない。いや、ここにも…か。
地元の高校を卒業して大学入学と同時に上京した知之は、この駅からJRで乗り換えなし、電車で20分ほどの駅の近隣に住んでいた。パイプベッドと小さなコタツ机を置いたらいっぱいになるくらいの1Kの狭いアパートの部屋にも、サークルの人間や同級生、バイトの友達や彼女と、いろんな人間が訪れた。それからあいつも。いつも騒がしくて、ドタバタして、バイトにゼミに遊びに。それでもきちんと自分とも他人とも向き合っていたような気がする。
今もそれなりに忙しいがそれは仕事上のことだけだ。誰とも深く関わらず、本当のところでは何とも誰とも接しない毎日は、自分とも他人とも向き合う必要もなければ、その機会もない。それが平穏で幸せな日々かと問われると「違う」と言い切れるはずなのだけれども、だからと言って声を上げる力も残らないくらい心は冷たく凍ってしまった。
それは自分のせいだ。望んで、敢えてそうしたことだ。だから誰のせいでもない。それがこれからも自分に生きていいという『許し』を与えられる唯一の方法だと思ったから。
1度目のそれは、自分を身代わりとすることでなんとか向き合えたけれど、いや逃げられたけれど、そのあとの事にはもう言い訳すら思い浮かばない。
今の自分を見てあいつは何と言うだろうか。そう思うとやっぱり自分とも他とも向き合わないことが唯一の生きる道だと思うのだ。
なんとなく記憶に残るモノクロの街並みを、遠慮がちに眺めながら歩く。あまりキョロキョロするのもどうかと思ったし。この歳になってもやっぱり田舎者と思われたくないし、最近は特に誰もかれもが不審者扱いされる時代であるらしい。イヤな世の中になった。
目的地に到着すると少し風が強くなってきたことに気付く。
そういえば天気予報は夕方から雨だと言っていたか。
ここは知之の通った大学の学部キャンパスが今も変わらずある場所だ。だが、その頃にはなかった入り口の大きな門扉の横にはこれまた大きな看板が立てられていて、周りには見えるだけでもコンビニやカフェらしきものが数件。自分が暮らした頃に行きつけの書店があった筈だが、もう跡形もないようだ。
数人の学生らしきグループがふたつ、それぞれ立ち話をしている間を抜けてメインの通りを歩く。自分が通った頃は広場だった場所には建物が建っていて、元々あった建物と渡り廊下でつながっていた。
渡り廊下をくぐって中庭に出ると、視界が開けて風の通りが変わる気配がした。
立ち止まってぐるりと見渡すと、ようやくここがかつての自分の居場所だったことを思い出す。
落葉がくるくると足下で踊る。
途切れとぎれの芝生は、緑と茶色と白が混ざってコンクリートの合間を埋めている。
人の声に振り向くと、学生たちが数人。見上げると渡り廊下を渡る人も見える。
また風が吹いて頬を伝わっていった。
ふと時間が戻った。
心臓がぎゅっとなる。この場所で生きていた事実を記憶ではなく空気が運んできたみたいだ。
『知之!お前、また忘れ物してるぞ。まったく…手のかかるヤツだな。』
いつも正しかった。あの人が言うこと、やること、全部が。近くにいたら自分も知らないうちに正しく進める気がした。助手席は自分だけの場所だと思いたかった。
まだ足りなかった自分が居た。確かにここに居た。足りなくて欲しくて、でも何が足りないのかわからなかった。それが楽しかったのだと今ではわかる。失う前の自分が間違いなくここに居た。ここに居た頃。足りないけど、失ってなかった。
人は若さと引き換えに何かを得ていくものだと思っていた。
だが今の自分に、得たものなど何もない。いや、得ようとしたのかもしれないが全て失ってしまった。
講義の休講やサークルのイベントを知らせる掲示板の貼り紙が不規則に貼られた隙間が、あの頃どうしても埋めたかった心の隙間のように思えて、悔しくてパズルのように頭のなかで動かした。
過去に埋めたくて仕方なかった隙間をいくら埋めても、今の自分は空っぽだ。
「なんだよ。どこにも居場所なんかないじゃないか。」
友人の待つ学生課は1号館の一番奥だ。