6
世の中にゼロは存在しないのだ。ゼロだと思っても、何かしらのプラスかマイナスがあって、ゼロには死ぬまで戻れない。いや、死んでも生きていた事実があるならそれはゼロではないのか。じゃあどんなにしても私はゼロには戻れない。
数学にゼロの概念を与えたのは誰だったか・・・・。何かで習ったような気がするが。
堀田美沙はパソコンのテンキーを連打しながら考える。
街を歩くと、気分が滅入る。そうでなければ腹が立つ。
何もできない人は可哀想だから神様がしょうがなく施しをくれるのではない。何もできないくせに逆に与えられて当然な顔をしてふんぞり返って待っているからこそ与えられるのだ。
デブで不細工で、狭い道だって静かな場所だってこれが自分の場所だと疑いもしない女たちが、これまた瓜二つの不細工な子ども達と冴えないダンナを引き連れて歩いているのなんて、前は眼中になかった。今はそれが無性に腹立たしい。
不細工なツラをさげて、きたない体をさらしていても、そいつらは少なくとも自分より「女」としての職務を果たしているということを思い知らされる。
会社で「痩せていていいわね~」とか「お肌がきれいでうらやましい」とかいう空々しい台詞をほざいては、デスクのキーボードにパラパラと白い雪を降らせてクッキーを頬張る雌豚ども。あれは人間に見えて人間じゃない。
痩せているのは無駄なものを食べていないからだ。食べても太らないわけじゃない。
肌がきれいなのは、面倒がらずに金をかけずに手間をかけているからだ、何もせずにきれいなわけがない。
どこが『いいわね~』なのか。そこに愛はあるのかい?確かに雌豚どもに孤独の色は見えないようだけれども。
若手雌豚軍団は次々に2度目3度目の産休を取っていくし、ベテラン雌豚精鋭部隊は勤続何年の祝い金で温泉旅行、週末は家族で焼肉だ。共食いだろ。
自分が持っているものは、この顔と体とスキルだけなのに、それすらも時間の経過で、特にこのところすり減り加減が激しい。そうなればもう何をよすがにしたらよいのか、先が見えない。
自分を磨くとか言って無意味に自己満足に浸ることもできないし、楽しくもないのに笑えない。それが何を意味しているのかなんて自分が一番良くわかっている。
このまま豚小屋に居たら傷口から膿んで、腐りかけの一番美味いところで喰われるんだろう。喰わせてやってもいいが、刺し違えるからな。
イライラする。だからと言って、それを表に出して不機嫌になったりはしない。あいつらとは違うのだから。
ゼロに戻りたい。戻れるものなら。頑張れば得られる物ばかりだと思ってた。もがいてもがいてマイナスばかり。空は遠くなるばかりだ。
「堀田さん」
振り返る前にわかっていた。甘い声の主。明日は休みを合わせているから、今日は絶対残業したくなかった。彼が家に帰らなくていいと言ったから。
「はい」
「忙しいところごめん。これさ、掲載写真の変更お願いしたいんだ。この間取りタイプは完売してたみたいでさ。気づかなかったよ。あ、パスワードはいつもの俺ので入っておいて。変わってないから。」
「わかりました。調子いいですね。この物件。」
「なぁ。ギリギリマーケットアウトなんだけどね。みんな金持ってんのな。」
「ふふ。そんなこと言って。高梁さんも買うんでしょ?」
「俺は買えないよ。買えるように見えないだろ?」
しっかりアイロンのかかったシャツの袖口。汚れなど見当たらない。カフスは高額ではないのかもしれないけど、センスがよくて、首回りもきちんとサイズがフィットしている。これを見立てている誰かの笑顔が恨めしいと思うのは、その人が決して雌豚なんかじゃないんだろうとわかっているから。そして自分が悪魔に心を売ったから。
「あとでメールする」
そう小声でつぶやいてから、彼はオフィスから出ていった。