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空が高い。
秋の空は空気が澄んでいるからか、どこまでもこの青と少し薄い白が続いていると感じられる。
高圧的な雲は鳴りをひそめて、薄くて平べったいところどころ途切れた白が少し前よりも明らかに遠いところから他人行儀な顔をして笑っている。ついこの間まで追いかけてきていた筈なのに、もうお前とはそこまで仲良くするつもりはないけど?、と言われているみたいで。秋になると物悲しくなるのはそういうものから来るのだろうか。
どうでもいいことをぼんやりと考えるのは、決してゆったり過ごせている証しでも、心が凪いでいるからでもなくて、葛藤の先の現実逃避のそのまた先の、諦めの淵に立っているせいなのだとあっさり認めざるを得ない。
知之は苦笑して煙を吐き出した。やめていた煙を数年ぶりに欲したのはなぜか。不快な霧に自分の喉元から体の中が陵辱されていく。吐いたときにはもう自分の半分が薄く透けて、沸き上がりかけた自我をまた消せるような気がする。全部消せたらいいのに。数年ぶりの毒は難なく体の中を入ったり出たりした。
元々暑さには弱い方だった。そのせいか、毎年朝夕に少しずつ涼しい風を感じるようになると、全般的にやる気が湧いてくるから不思議なものだ。
知之の職場は郊外の家電量販店である。同じ敷地内にスーパーと本屋とドラッグストアがあり、共用の少し広めの駐車場がある。
休憩を取っているのであろう外回りの営業マンにベビーカーをひく女性、老齢の買い物客がちらほら。平日はこんなものだ。
同じ大通り沿い、狭い道を挟んだ隣の敷地にはファミリーレストランや回転寿司店、ファーストフード店などが軒を並べている為、この辺り一帯週末は比較的騒がしくなるのだが、平日の午後ともなると静かなものだ。
バックヤードで遅めの昼食をとった後、隣のスーパーへ飲み物とタバコを買いに行って、そのまま駐車場に停めていた自分の車で一服している。
(とりあえず今日乗り越えればなんとかなる、かな……)
この歳で立ち仕事を9連勤、明日で10連勤目。正直疲労がピークに来ており、今日明日が平日でなかったらもたなかったかもしれない。年のせいにしたくないが、最近は運動不足もあいまって体力低下も著しい。
通常週休2日で休みを取れるのだが、10月後半から11月前半のシフト希望で急遽早番と遅番を挟んで3連休と2連休をそれぞれ取ろうとした為、ただでさえ人不足の折、他のメンバーとの兼ね合いもあってシワ寄せが来てしまった。
この店で働くようになってから5年、これまで休みの希望を書くバックヤードのカレンダーに二重丸をつけたことは2度しかなかったと記憶している。
1度目は祖父の十三回忌の時だ。もうこれで全員が集まるのは最後になるかもしれないという話で、長男である父の体裁もあるだろうと致し方なく出席することにし、珍しく日曜に休みを取ったのでよく覚えている。
昔から苦手だった親戚たちの集まりも、離婚してからより一層出辛くなっていたが、思い切って出席してしまうとなんという事はなかった。
2度目は大学時代の同級生の急逝の知らせを受け、葬儀に出られなかった全国に散らばっている友人たちと時間を合わせて彼の実家にお焼香に行った時だ。
人を祝うのは自分が幸せだと少しも感じられないときは余計に心をすり減らすもので、実のところできる限り逃げてきた。
だが人の死に関わることはどうにも逃げおおせるものではなかったし、特に若くして亡くなった友人とは案外思い出も多く、就職してからも定期的に連絡を取り合っていて、離婚してからは自分が死んだように生きていたから余計に、代わりに逝ってやれたらこの世の中にはどれだけいいことだろうと本気で考えた。
ただ自分はもう既に『代わり』として生きているつもりでいたし、どんなに思ったって帰ってこないと思うと、あとは心を冷たくして毎日を送るしか脳のない自分を嘲笑うしかなかった。
独り身に戻ってからというもの、他人との接触を極力避けていたし、職場の付き合いもほとんど断っていたから「予定を空ける」必要がなかった。
離婚してからは趣味といえるものからも一切手を引いていた。と、いうよりそれになんの意味があったのかわからなくなってしまった。
これまで少しだけ好きだったもの、テレビでふと目にして興味をひかれた何か、あの人が好きだと言っていたもの。それってただただ生きていくのに必要なのか。
生きていくために最低限必要なもの以外のもの、、、のために金や時間を遣う生活は「価値のある生き方」なのだという単純な羨望、楽しむこととか集めることとか、それって他にも何かを持っているからこそ価値があるんじゃないか。他に何もないのにそこに手を伸ばす力とか必要性は、ないだろうと。
「価値のない自分の人生」にはそのようなものなど必要ないのだという短絡的自暴自棄な結論に達した結果でもある。
すべての「豊かさ」から意図的に自分を遠ざけた。
そうしたら、家族や友人やご近所に職場、付き合いがなくなってしまえば案外人というのはもう本当に「何も」なくなってしまうのだ。趣味や嗜好に走ることも、他人とのかかわり合いすらもないのは、制約もないが喜びもない。
最初は毎回浮かび上がる自分の欲や希望、それから思い出を打ち消すことに多少苦労したような気もするが、そういう生活が続くと、心が冷え切って、本当に何も欲しなくなるらしい。
結局手元に残ったのは、あの人の好きだったこのインテグラと彼女が選んでくれた趣味がよくて、長持ちする、身の回りのものだけだった。
昨日たまたま休憩が同じタイミングになったレジ担当の島田沙希から聞いて知ったことだが、その知之が連休をそれもひと月に2度も希望したものだから、ベテランのスタッフ達は皆、
「高梁は結婚でもするのだろうか」
「それとも転職?」
「実家で何かあったのだろうか」
とにわかに噂話で盛り上がっていたらしい。本当に見当違いも甚だしい。
なるべく深く関わらないようにして影の薄い存在で居ようとしてきたこの職場でもこの有り様で、やはり人間というのはどいつもこいつもゴシップ好きなのだな、と嘆息した。
だが、気色悪いとさえ感じていた他人のそういった言動が、この度は少しむず痒いような気恥しいような少し違った心持ちを覚えさせるのはどうしてだろうか。
希望して連休を取ったのはほかでもない。先日突然目の前に現れた、あの青年の件だ。
彼の突拍子もないひとことに、とにかく知之は開いた口がふさがらなかった。
「あ……あの……。あの!!」
「あなたは僕のお父さん、ですか?」
(「お父さん」か……。ま、ハタチやそこらで子供作ってれば俺の子供ももう成人なんだよなぁ…)
あのきれいな青年は自分のことを「お父さん」ではないかと言った。
似ているはずもない彼の、その顔に少しだけあの最後の淋しい笑顔が見えた気がした。
でも彼の表情を見るにそのひとことが簡単に発せられたものではないことは容易に見てとれたし、この青年の向こうに違う『何か』を見てはならないと思った。
「せま ゆうすけ…か。結局大したことは何もわからなかったな……」
先日取った3連休で知之は東京へ行っていた。