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「おーい。ユウスケ!テストどうだった?」
校舎3階渡り廊下の入り口横は、マンション建設現場がよく見える。今一番お気に入りの場所だ。瀬間祐輔は、休み時間に用がないとなるとすぐにこの場所まで来て、日に日に高さを増していくマンションの建設現場をひとり眺めているのが日課となっていた。
「またここかよ。いっつも何見てんの。」
遠山修嗣は小学のころからの同級生だ。小学1年の3学期からという中途半端な時期に転校してきた祐輔に、一番最初に話かけてくれたのがこの修嗣だった。黒くて太い髪の毛を毎朝整髪料でおっ立てて、たまにもう少し声のボリュームを下げてくれてもいいのにというくらいの大きな声で話しかけてくる。部活のサッカーが終わった後も髪の毛を気にしながら帰るくらい見た目には気を遣っているらしい。ガサツなように見えて、実は神経質な部分が多かったり、人に気を遣う性分だということを祐輔はよく知っている。
「ん~・・・。」
この辺りはそれほどの高層マンションは建たないし、マンションが乱立するほど土地も狭くなく、人口も多くない。だが、最近は歳を取ったあと、体が動かなくなってからも一軒家の手入れをする労力のことや、田舎の交通の便の悪い場所に大きな家を建てて住まうことを考えると、車が運転できなくなっても住めそうな便利のよい駅前のマンションを購入して住まう中高年も多いそうだ。新築、夢の一軒家を建てるより、マンションで優雅に暮らしたいというDINKS・DEWKs世帯の人気なども相まって、田舎にもマンション建設の波が押し寄せようとしていた。
空と雲の間に無機質な怪獣がそそり立っていくミスマッチ感が毎日眺めていると当たり前の光景になるのだから恐ろしい。
「あれってさ~、ひとつ建つだけで、風景ってまったく変わっちゃうんだよな・・・・・。どこまで上がるんだろ。何階建てかなぁ。」
マンション建設には大きく分けて2種類の建て方があるらしい。最近は鉄の値上がり等でほとんどないらしいが、鉄骨鉄筋コンクリート造といって先に巨大な鉄骨の枠組みを立てる方法と、今、祐輔が眺めているような鉄筋コンクリート造といって鉄骨は見えず、下からどんどん上がっていくような建て方をする方法だ。
「なに、マンション見てんの?そんな毎日見ててもいきなり高くなったりしないよ?」
眉をよせながら苦く笑った修嗣も、祐輔と同じように欄干に腕をついてそれに顎を乗せた。
「ていうかさ、テストだよ。テスト。どうだった?俺、古文ヤバい。あれマジどうすっかな。お前得意だろ?教えろよ。」
ようやく本題に入れたといった感じで、こちらを横目でにらむ。
「あれは半分以上暗記だよ。覚えてないから解けないんだろ。」
「は~。デキるやつはそうだよな。そういう事サラっと言っちゃうんだよ。」
「お前だって数学得意だろ?俺よりいっつも点いいじゃん。理科なんか地学と化学とか意味不明な選択しやがって、ていうかさ、理系行くんじゃなかったの?お前こそ感じ悪いよ。」
こんなことを言いながら、二人とも学年トップクラスの学力だということは互いにわかっている。模試の成績では祐輔の方がいつも少し上にいるが、少なくとも200人以上いるこの学校の2年生の中ではふたりとも5番手からこぼれたことはないだろう。
「でもどうせお前はK大って決まってんだろ?俺んちはそんな金ね~からな~。国立1本に絞らね~と。ついでに資格でも取ってみるかね。やけくそでさ。」
修嗣はこう言うが、こちらだって絶対K大と決めているわけではない。父親のいない自分が、私立の大学に行っていいものだろうかという考えはずっと自分の中にある。
地元では有数の資産家である母方の祖父が、昔から母親が自分に行かせたがっているK大へ行けと言っているだけなのだ。
大学の進学費用はすべて出してやるということらしい。
他のことに関しては特にうるさく言われて育ったわけでもないのだが、それだけは小学生の頃こちらへ引っ越してきた時からずっと言いきかせられてきた。
目標のない自分に多少強引に与えられたゴールは、少しは生きる指針になっている気がしてありがたいとは思うけれども、それでも想像できる将来として全く現実感がない。
特にやりたいこともない。なりたいものもない。漠然と今目の前にある問題が解けたときの達成感や、模試でいい成績を取った時の優越感に浸りたくて勉強しているだけの自分にとって、大学はその先にある道すがらのようなものとしか考えられない。いっそ行かないという選択肢もあるとさえ思う。
周りはやりたいことがあって、その為にこの学校へ進むという目標を立てているらしい者も多く、祐輔はそれと自分を比べた時の焦りのようなものも手伝って、とにかく何も考えずただただ無心で勉強していた。
あのマンションは、自分のそんな迷いからの逃避の先にあるのだ。あれを作るのに多くの人が色々な角度から関わっているのだろうということは想像に難くないが、行程だけを遠くからただ眺めていると、下からただ積み上げて、完成したら終わり。単純でいい。今やっていることのゴールがあって、それで何もかもが終わりだとわかっていたら自分ももっと気楽に、もっとガムシャラになれはしないだろうか。人間がある一定の年齢に達したときにあるべき姿に、自分はなれないのではないだろうかというひんやりとした不安。
いくつになっても自分には人生のチェックポイントが来ないような気がしていた。
祐輔は小学1年の終わりから、母方の実家で暮らしている。
小学に入ってすぐのころ、せっかく必死の思いで受験して入学した私立の小学校から1年も経たないうちに転校して、田舎のこの町にやってきた。
入学する前に親子3人で面接を受けたり、色々したような記憶もうっすらと残ってはいるのだが、実は祐輔には父親のはっきりした記憶が残っていない。
小学に入ってから以降、父親の姿は完全に消えていた。だが毎日笑顔を絶やさず自分を愛してくれる母親に子ども心に気を遣っていたのか、それとももっと前から自分に父親など居なかったのかわからないくらいに、祐輔の頭の中から父親の記憶はするりとなくなっていた。
本当に自分に父親は居たのだろうか。中学に上がるころまでは、父親のいる家庭がうらやましくて、他人は当たり前に持っているものが自分にはないことへの寂しさや怒りや疑念がずっと付きまとっていた。血縁関係というものは、急ごしらえでできあがるものではないことくらいわかっていたし、こればかりはどんなにダダを捏ねても一生手に入らないものだとも分かっていた。だからこそ、余計にどうして自分だけ・・・・という気持ちが強かったのだ。
しかし、高校受験も視野に入れる頃になると、両親が離婚したという同級生や、病気で母親と死別したという先輩もいて、「どうして自分だけ」といった考えだけは払拭できた。だがどうしても自分が成長すればいずれ父親になるのだという感覚だけは微塵も浮かばなかった。そもそも自分には父親像が存在しないのだ。
だが、祐輔にもぼんやりとした記憶の中に、あれが父親だったろうという記憶がいくつか残っている。
膝の上に乗せてもらって、勉強をした。肩車をしてもらった。血管が浮き出た男の人の腕。母親や自分にはない。力強いすこし角ばった骨と筋肉の感じ。ぼんやりとしたそれが祐輔にとってのおそらく父親だ。だがそれも鮮明な記憶ではない。
ただひとつ、目に焼き付いて離れない記憶。
それはその人の右腕の真ん中にあった大きなホクロだ。
そのホクロが彼にとって、唯一の確かな父親の記憶だった。