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雨が降るから虹がでるのなら、虹なんか見えなくていい。
曇りでいいから、少しずつ前を向いて歩きたい。
太陽からの眩しさは痛みになるし、恵みの雨は体を冷やす。虹の輝きは一瞬だ。
それなら雲がいい。
空を流れて形を変えて、季節とともに移ろいながら微睡む。誰も傷付けずに。そしていつの間にか居なくなれたらいい。
「ええ。値段が高ければいいというわけではないですからね。どの機能を優先したいか、まずそこですよね。」
日曜は、夕方になると意識しなければ口角を上げることすら辛くなる。
高梁知之は、そつのない笑顔で、還暦かそこいらの年代と思しき両親とやたらと知ったかぶって口を挟んでくる20代後半の娘と見える3人の相手をしていた。
とにかく日曜の風景はキライだ。
特に昼前から夕方までの家族連れやカップルのごったがえす中に身を置くと、世界中にたった一人でポンと放り出された気分になる。
孤独なのは世界中で自分ひとりなのではないかと思う。
だが、自分は今「働いて」おり、休日を過ごす人々とは別の次元に居ると思うことで心を保っている。
ボーナス時期を過ぎ、子供たちの夏休みも終わり夏商戦もほぼ終了。朝晩は幾分過ごしやすくなったが、残暑厳しく涼みがてら来店する老齢の男性や、季節商品の現品限りをさらいに来る客も見受けられて、秋冬のことを考えるのはまだどうも気が引ける。
唯一、運動会関連の商品が少し売上を伸ばしているが、それもそろそろ落ち着いてきた。
いわゆる谷間の時期であるが、それでも日曜とあらば昼間は多少混雑し、客の対応に追われて喉も枯れる。
家電量販店に勤務して6年目、知之は来月で40歳になる。
34歳の時、中堅デベロッパーの営業から家電量販店の契約社員に転職した。
前職では新築分譲マンションや流行りのリノベーション物件をプロデュースする会社で、最後は営業のリーダーを任されるまでになっていた。
33歳で離婚してからは4分の3は減ったであろう荷物と一緒にガランとしたその3LDKのマンションにそのまま1人で住まうことになった。その後も離婚の事を知っている同僚に気遣われながら、真新しい家具や生活感のないモデルルームでそれこそこれから新居を購入しようとするような人間を相手に笑顔を振りまく毎日を続けていたが、思うところあって離婚後1年で退職したのだった。
今思えばその1年間は自分の『残りの時間』に対する希望とか今後も当然存在すると思っていた『ありきたりな日常の風景』に決別するためのいわゆる『禊の時間』だったような気がする。
事後報告した両親には呆れとも落胆ともつかない大きなため息をつかれて、そこそこいい子で育ってきた知之のこれまでのプラス方向へのベクトルはほぼゼロになってしまったように思われた。
三十路を過ぎて離婚した息子の行く末を案じていたところに、更に退職したという事実を被せられ、どうにもこうにも黙って頷くことはできなかったらしい。
「高梁さん、今日早番っすよね。しかも明日休みじゃないっすか。俺なんかただいま8連勤真っ只中なのに。」
「有給も使わずに公休だけで彼女と旅行なんか行くからだろ。」
「だって~有給なんかもうとっくに使い切っちゃって残ってないっすもん。オレ4月入社だから10月に付くんすよ。来月早く来い~…」
「有給って溜まってくもんだと思ってたけどなぁ」
「なんすか、その優等生発言。てかノーと言えない日本人すよ!」
意味がわからない。
有給なんかほとんど使わずに溜まる一方の知之は、後輩の軽口に愛想笑いを返して夕方の休憩を終えた。たまに行われる店の飲み会で(と言っても3回に1回程度しか参加しないのだが・・・・・・)たまたま席が隣同士になり、話をするようになった後輩だ。彼は倉庫で予約分の管理、手渡しや他店で販売した商品をこの店舗から発送したりする在庫の管理をしていたり、そうでないときは修理の受付などをしていることが多いので基本的に仕事で一緒になることは少ないのだが、話をしてみると若いわりに色々苦労してきたようで、学生時分からのアルバイトの話など聞いていてなかなか骨のあるヤツだと思った。
思っただけ・・・・・・だけれども。
会話の主語に知之が「オレ」を使うことは少ない。なくていい。タバコをやめた理由も、有給を使う必要がない理由も口にする必要などない。自分の話は、したくない。
今日は早番なのであと1時間半ほどで上がりだ。
日曜は夕方早めに客足が途切れるので、早番にしてもらえることが多い。
先月と先々月、立て続けにスタッフが退職した。新人を入れたり他店から応援をもらっているが、補充の人員がまだ完全でないのでフロア担当の人数が足りず休みも取りづらい日々が続いた為、少し考慮してもらって通常の早番よりも少し早めに上がらせてもらえることもある。今日はその予定だ。勿論それは知之が希望したわけではないし、客足次第でもある。
客足次第とは言っても最近は以前ほど店内が『ごったがえす』ようなこともなくなった。「家電も店頭で見てネットで買う」流れもあり、いわゆる小物のオプション品や消耗品もネットで購入した方が品数も豊富で安いらしいということで、そんなものだけをわざわざ買いに来る人も少なくなって、数年前より店頭の忙しさは減ったと思う。
平日昼間は閑古鳥が啼く・・・なんてのは、淋しいが特別なことでもなくなった。
勿論、例のデジタル放送移行の折と、消費税増税の折には状況は一変したが・・・・・・。
休憩から店に戻ると、どこかへ出掛けた帰りに寄ったのか、日に焼けた男の子の兄弟が店内を走り回って母親に叱られている。
子供は・・・・・・あまり好きではない。
勿論自分に子供が居たら、きっと溺愛しただろうけども。
大学時代からの付き合いだった別れた妻との間に子供はいない。
その面では離婚も本決まりになればあっけないくらいだった。
今思えば彼女の方は、名前が変わったり、住所が変わったり、地元に帰ったりしたので、おそらく色々と苦労しただろう。
だが、その時はそんなことを気遣ってやれなかった。あっさりしたものとは言え、それは「想像したよりも」という意味で、エネルギーを使う人生の一大事であることに変わりはなく、こちらも自分の事で精一杯だった。
学生の頃と結婚する前に独り暮らしをしていたし、家事も特に苦手ではない。その部分では何も心配していなかったが、結婚時にそれなりに祝ってもらった周りの人間にどう説明しようかとか、職場の人間にどう伝えようかとか、そんな考えてもどうしようもないことを考えていた気がする。自分の罪と向き合うだけの時間すらもないまま、ただ嵐のように時が過ぎたから、少し考えればわかるはずの彼女の事情も勿論見えるはずはなかった。
勿論、狭い世界の中で低俗なゴシップ好きな人間たちから好奇の目にさらされることに対する単純な嫌悪感もあったけれど、自分が失ったものを周りの皆が持っており、自分はもうそれを死ぬまで手に入れられない、そんな喪失感が常に目の前でうろうろしていた。
それを失ったのは自分の弱さのせいだとしても、それに対峙して向き合うだけの力を持っていれば弱いままでも失わずに居られたのかもしれない。それを感じない鈍感さも、自分を擁護する身勝手さも持っていたらよかったのかな、とか。
逆に失ったと同時に手に入れたものもあったのだが、その自覚は薄かった。
自分の『ここ数年』を知る人のない世界に逃げ込みたかった。
どういうわけか、長年それなりに懇意にしてきた人達とも疎遠になっていった。
こちらから距離を置いた・・・・・・のだろうか。
そんなつもりはなかったが、いや、相手は何か感じ取っていたのかもしれない。
それとも『自分からは近寄る価値すらない人間』だと思われていただけだろうか、だからこちらからコンタクトがない限り『これ幸い』と距離を置かれたのだろうか・・・・・・なんて被害者意識も多少は芽生えたり。
誰でも就職や結婚、その先にの家族の成長に沿って人間関係も変化していく。
今空に流れている雲がその形を留めておけないように。
昔からの友人関係が希薄になったり、学生時代の友人よりも職場の人間や近所の人との接触が多くなる。そこで改めて学生時代のようにじっくり人間関係を構築するということはなかなか難しい。
心細さは日に日に募ったが、心もまた同じように自分を守る為の鎧を幾重にも着重ねていって、日に日に何も感じなくなっていくのだ。
更にこの歳で、孤独感というものは『誰でもいいので人と繋がって居たい』という願望にただ繋がっていくわけではないということも理解した。
孤独は辛いが、その先にある対人関係を欲するところには向かわない。
少なくとも自分の場合はそうだった。歳を取ったせいもあるだろうか。
『煩わしいが楽しくもあった人間関係の記憶』が、もう今となっては思い出せないほど遥か彼方で、おぼろげな子供の頃の記憶のように消えたり、ふと現れたりしている。
この職場も本当であれば避けたい場面に遭遇する確率の高い職場だ。
若いカップルや幸せそうな家族連れを見るのは、孤独な人間からしたらとてもチクチクするものだ。
暗いところから眩しい光を無理矢理見せられたような、そんな痛さがある。
だが、休日にそれを見ないようにするために閉じ籠る自分を想像したらゾッとした。
なぜだろう。『人』と関わるのを避けて、己に鎧を着せて強くなってきたはずなのに、まったく関わらなくなった後のことを考えると少し毛穴が縮まる思いがしたのは。まだ完全にその重さは自分の体の一部になっていないのか。
いっそ早く凍りたい。溶けることなくずっと凍って、何も感じなるくらいに。そうでなければ燃え尽きてしまいたい。跡形もなく。そうしたらこんなこと考えなくて済むのに。
デベロッパーに勤務していた頃は、客のディープな部分を知らなければならないことも多かった。
マンションは、契約までに何度も客と話をする。
大きな額の値引きをすることもままあるし、ローンの関係もあるので家電量販店とはこちらが得る客の個人情報のレベルも違う。
物件が竣工してからは、現地モデルルームで実物件を見ながら多少の話ができるが、こちらサイドとしてはそれより前に完売させてしまいたい。まだ影も形もないものを何千万で売るために、色々な側面から相手を説き伏せなければならない。
立地がよく、価格帯でマーケットインした人気物件ともなると、あっという間に完売、田舎の物件でさえ抽選になることもあるが、難しい間取タイプの多い物件などは売るのに苦労することもあった。
勿論売れなければ意味がないわけで、さらに値段の張るものを売っていることもあったからその為に多少の努力もしていたつもりだ。身に着けるものもいわゆるサラリーマンが身に着けるような物よりは少しだけ見栄えのするものを選んだり、それなりに気を遣っていた。
自分が何千万の買い物を考えている時に、いかにも安物を身に着けた人間から買おうとは思わないからだ。かと言って、それほどの給料をもらっているわけではなかったので、値段が高いかどうか、ではなく、量販店で購入したに違いないと予想が付くようなものは身に着けないとか、使い古した感じを出さないようにするといった具合に。
その点別れた妻はセンスが良かった。学生の頃から手ごろな値段でそこそこセンスの良い、また、使い勝手の良い物を選ぶのが得意だったし、自分が選んで買った同じような値段のものより随分長持ちした。
一人になってから自分の手元に残ったものが、彼女に選んでもらったものばかりだということにようやく気付いた時に一番堪えたかもしれない。
彼女の場合、女性特有の賢さやファッションセンスといったものよりもこちらの好みを慮るそのセンスに長けていたのだろう。今更ながらにそんなことに気付いたのだから。
そんな相手にはもうたぶん巡り会えない。
そんな風に自分の持ち物ひとつにまで気を遣うような・・・・相手ひとりひとりに深く関わる必要があるような、そんな仕事はもう、できない。
今のようにこうやってその日限りのお客相手に(勿論そうでない常連も居て、ありがたく恩恵は受けているのだが)軽い笑顔を振りまいてその場をしのげればその方が良いと思っている。いや、思うようになってしまった。
「あと1時間、か。」
腕時計に目をやると、もう16時をまわっている。
(今日はもう打ち止めかな。少し早いけど、客が引きかけている感じ……予定通り早上がりできそうだな)
装着しているイヤホンから流れるスタッフ達の業務連絡の声も、緩やかになってきた。
そう思った時だった。
たまに休憩が一緒になるレジ担当の島田沙希が、知之を見つけて笑顔で走り寄ってきた。昼も夜もバイトをかけもちしているらしい彼女も、そういった話をしている中で打ち解けた同僚の中のひとりだ。体格は小柄だが、学生時代陸上部だったらしい彼女の唯一の自慢は体力だという。少し日に焼けた屈託のない笑顔が接客業向きだな、といつも思う。バックヤードへ向かうのか。今から夕方休憩だろうか。
「おつかれ。休憩?」
「おつかれさまです。高梁さん、お客様がみえてますよ」
「客?……俺に?」
「ええ、今レジのあたりでお待ちいただいてます。私もちょうど休憩に行くところだったので、アナウンスかけずに一旦こっちに来てみました。」
自分の再来客だろうか。ここ最近だと先日エアコン購入を保留にして帰った夫婦くらいしか思いつかない。90歳の母を自宅で介護しているらしいのだが、エアコンが朝から晩まで必須な為、電気代の抑えられるものを買いたいとやってきた。だが、価格と機能の折り合いがつかず、一旦保留になった。
そう言って買わないことはよくあることで他店にでも行くのだろうと思ったが、その夫婦は「いい店員さんに当たって良かった。考えてまた必ず来るよ」と言ってくれたのだ。
自分は実際エアコンの担当ではないのだが、夏はそちらに駆り出されることがある。以前担当していた時期があったからだ。その時はたまたま手空きで、売り場近くを歩いていた自分が客に呼び止められた格好だった。他に対応できる人間がいなかった為、最初だけ自分が対応し、すぐに正規の担当に引き継ぐつもりだった。
しかし、結局購入に至らなかったので、引き継ぐことはなかった。だが思いのほか自分の対応を気に入ってもらえたことが印象に残っていて、今はその客くらいしか思い当たらない。それも、もしかしたら自分を訪ねて来る可能性があるかもしれない……というだけのことだ。それに、もうそろそろエアコンの売れ時も終わりだ。値下がりした人気機種も販売終了になってきている。
そして個人的な知り合いはほとんど職場を訪ねて来ない。そもそも誰とも連絡を取っていないのだ。
「若い男性の方ですよ。お知り合い?……かな?あ、お名前を聞き忘れちゃった。ごめんなさい!でも高梁さんの名前の漢字をご存知のようでしたよ。直接売り場に向かわれなかったってことはお知り合いか何かだとばかり…」
若い男?
職場まで訪ねてくるような若い男の知り合いなど居ただろうか。
ただ、知之にとってここは地元でもあるので、学生時代の知り合いが訪ねてきても不思議ではない。だが四十路に差し掛かった男を彼女は「若い」と修飾するだろうか。人違いではと思ったが、ここで彼女と話していてもしょうがない。
「そう……誰だろう。了解。ありがと。行ってみるよ。」
もちろんこの後特に用事もない。まだ陽も高いけれど、知之にとっての今日はもうほとんどが暮れかかっていて、薄い闇が覆っている。心がざわついた。
そしてすぐ、鈍い痛みが心に走った気がした。動悸がする。こんな感覚は久々だ。いつも通り何事もなく1日が終わろうとしていたのを、誰かに邪魔された気がしたからだろうか。
「鎧を着た自分」が仕事以外で人と関わらなくてはならなくなった時に感じる鈍い痛みと痒みは、いつになったらなくなるのか。
ざわざわした心の波の原因が何なのかわかったようなわからないような、とにかく鼓動が速くなるのだけは自覚した。
近くにいた同僚に声をかけて、持ち場を離れる。まだ完全には引ききらない客の波を時折慣れた足取りでさらりと避けながらエスカレーターの横を右に曲がると、リフォームカウンターの横に少年が居心地悪そうに立っていた。
(もしかして、あれか?若いって……。子どもじゃないか。)
歩を緩めて少しずつ近付く。横顔から見る限り、知らない顔だ。
ようやく目があったその子に声をかける。
「あの……高梁と申しますが、私を訪ねてこられたのは?」
そう言って手のひらを彼にかざし
「あなたですか?」のジェスチャーをする。
「あっ!……」
確かにパッと見、少年ほどに幼く見えるのだが、よく見ると肌の感じや動作からもう少し年上のように思えた。
とにかくどちらにしても自分の関わりのある人間でこのような年恰好の人間は居ない。
見た目や雰囲気、彼のこちらを見る表情からも、地元の知り合いや客ではないことは容易に判断できた。やはり人違いか。
彼は慌てた様子で、何か言いたげだが言葉が出てこないようだ。
「あ……。」
口を開けてこちらを見つめている少年……いや青年の顔をもう一度よく観察してみるが、やはり知らない顔だ、と思う。
思わずじっと見つめてしまった自分に気づいて目をそらす。
(誰だよ。ていうか若いよ。確かに若い。イケメンていうヤツじゃないの?これ……)
ここ数年人に対して興味を持たず、誰に対しても上辺だけの付き合いをしてきたし、実際、毎日会う職場の同僚の顔すらじっくり見ることはない。
それでもこの整った顔形にまったく覚えなどないのだ。
近年低くなった『イケメン』という形容のハードルを、元のそれに合わせたとしても、楽に飛び越えられるだろう。
「あの、……?」
身長177センチの知之から少しだけ見下ろすくらいのところにある色素の薄い黒目を所在無さげに動かして、青年は言葉を探しているようだ。
万が一仕事関係の人であればマイナスの感情を表に出すのもよくない。こんなことを気にしてしまうあたり、長いこと客商売をしてきたところが影響しているのか。
(どういう相手かわからないし、子ども相手とはいえどういう言葉遣いでいったらいいものか……あ、子どもでもないか……高校生……ではないよな?ハタチくらいか?)
少し口角の上がった薄い唇が開くのを繕った不安な笑顔で待った。
「……あの……あの、突然すみません!僕……あの、昔、高梁先生にお世話になった者です!」
「------は?」
夏の終わり。まだ客の引ききらない店内の喧騒の浪間、ふたつの雲が予想外に交わろうとしていた。