16:罪
夜は、今までのどの夜よりも早く開けた。陽菜の決心が、彼女の足を早く回転させているのかもしれなかった。細くなってきた道は、左右に波を打ち、急な上り坂では峰を回るように、人気のない場所を貫き続けた。
そう、貫いてしまったのだ。
どこまでも続いていくと思った道は、いつの間にか長い長い下り坂に差し掛かっていた。またこれまでのようにすぐに上り坂に変わると思っていたのに、坂はずっと降り続けた。先の先まで見えるのが、陽菜には残念に思えた。
そして、道は、それまでよりも直線的になった。そして、山と山に挟まれた谷の間から、湧き水のように、道は森の中から飛び出した。
夜は今、明けようとしていた。今までは、ずっと森の中だったから、自分がどれくらいの位置にいるのか、全く分からなかった。
自分は今、大きな盆地を見下ろす高台に立っていた。登ってきた朝日に名もしれぬ山肌が照らされ、靄の中で盆地はまさに今、朝を迎えていた。
ここは、陽菜の知らない街だ。
息を飲むとはこういうことか、と陽菜は思った。下界の街は足も竦むほど低いところにある。まるで自分は空中に立っていて、気を抜けば下の街まで落ちてしまいそうな気さえした。何か、どこか頭の物を考えるところがショートしたのかもしれなかった。
ここを超えて、もっと遠くへ行きたいと、心からそう思った。
その時だった。
後ろから、肩を叩かれた。
嫌な清潔感溢れる部屋の扉が、金属的な音を響かせて開いた。陽菜が見た部屋の外は、部屋の外よりも大分暗く、入ってきた者は、まるで闇が固められて人の形をしたようだった。
「やあ、久しぶり。〈無限霊力炉〉」
「…………」
陽菜は黙ったまま、入ってきた男を睨み付けた。明るい色のスーツ、彫りの深い顔。陽菜は、この男の顔に見覚えがあった。
紛れもない。自分を追う当本人、四阿集だった。
「旅に出て、少しは見聞が広まったんじゃないかな」
「…………」
「だんまりもいいけどね」
集は歌うようにそう言うと、室内をゆったりぐるぐると歩き回り始めた。
「君には悪いけど、もう君はここから出られなくなるだろうね」
「どうして?」
「だって、ここを出ても、君の戻るところなんてないだろう?」
陽菜は、自分で自分の声の低さに自分で驚いた。こんな低く、攻撃的な声を出したのは生まれて初めてだ。前は、集を相手にしても、こんな声を出したことはなかった。もし透や冴紀や静がこの声を聞いたなら、ひっくり返って驚くに違いない。
多分、透が、こんな自分にしたのだろう、と、陽菜は薄々思った。そう思うだけで、目の前の男と対峙する力が湧いてくるようだった。
…………透?
陽菜は、透に自分が何をしたのか、思い出してみようとした。
自分はさっき透を刺したんじゃないのか? 自分は透を刺したいと思ったりはしない。
しかし、確かに、自分はここで目を醒ます前、あの人気のない道で、透の背中を、この手で、刺した。血が湧き出て、手にはぬらぬらとした温もりを感じた。手加減はしなかったように思う。内臓は傷ついただろう。痛かっただろう。
透は自分を憎むだろう。
「一つ聞かせて」
「なんだい?」
「なんで私は、透さんを刺したの?」
我ながら変な質問だ、と陽菜は思った。でも、そう訊くしかない。
「それを知ってどうするんだい?」
「あなたには関係ない」
「君、たった三日間の旅でかなり冷たくなったなあ」
集はへらへらと笑って見せた。陽菜はそんな集に眉を歪めた。何か一言言ってやろう、と思って口を開いた瞬間、集に先を越された。
「君の質問に答えよう。精霊族は他者の精神に干渉することができる。君の意思に反して君の腕を動かすことなんて、造作もないことだ僕たちにとって、彼がいると色々迷惑だったからさ。今は地下牢でおとなしくしてもらってる。これじゃあ、君は納得いかないかもね。どうせここからはもう出られないんだ。外との決別の証に、一つ教えてあげよう。
いま、君の霊力は僕たちだけのものじゃない。共和国中の霊族がこの計画に賛同している。君の霊力がこの国の力を増し、やがて、真に協調的な霊族の国が出来上がるのさ。
どうだい? 素晴らしいだろう?」
「そんなの嘘だ!」
陽菜は絶叫した。
「あなたの言う協調なんて嘘。いくらこの国が霊族にとって幸せな国になっても、透さんが傷つかなきゃいけないなら、そんな平和なんてなくていい!」
「おお、ハネるねえ」
集は悪趣味な笑いをくつくつと喉の奥で押しつぶした。
「じゃ、言い残すことはそれだけだよね。早速執刀に移ろうか」
「透さんを解放して」
もはや、陽菜はここから自分が解放されることなど望んでいなかった。自分はあの景色を見られただけで、学校に通えただけで、あの人に出会えただけで十分だった。そう思えるほど、この一ヶ月ほどは幸せなことばかりだった。
何も知らなかった私に、新しい世界をくれた。
「約束できないなら、私はここで舌を噛んで死ぬ」
「舌を噛んだって、君ならすぐに傷が治ってしまうだろ?」
「なら、もう一度噛むまでよ、肩の肉だって、お腹の肉だって、足の肉だって、噛み切れる。いつかは血が絶えて死ぬもの」
いくら霊族といったって、生存に必要な最低限の血液がなくなったら死に至る。
「ずいぶんスプラッタなことを言うね。別にあの少年は邪魔だったってだけだし、君がもう逃げ出したりしないなら、解放してあげてもいいかな」
「今すぐ。今すぐ解放しなさい」
「えい」
いたずらっ子のような笑顔で、集は隠し持っていた注射器をプツリと陽菜の腕へ突き立てた。麻酔剤が打ち込まれていく。
「ちょっと、なに…………を…………」
陽菜の意識が、ゆっくりと、水底に沈んでいく。ぐるぐると回る景色に抗いながら、ヒナが最後に見たのは、部屋の扉から入ってくる何人かの執刀医らしき人間だった。
しまった、と思った。これじゃあ、何もかもが失敗ではないか。
悔しさだけが、薄れゆく意識の中で叫び続けていた。
陽菜は、生まれて初めて、人を恋しく思った。
叶うなら、もう一度、透に会いたい。
ちらりと頭をかすめたそんなことは、ろうそくの火のように、ふっと吹き消された。




