9:西へ逃げよ、山へ登れ
白い部屋に陽菜は寝かされていた。高い天井には等間隔で明かりが点いていて、均質な白い光を降り注いでいた。
陽菜は腕を動かそうとした。動かない。足を曲げようとした。動かない。首を動かそうとした。かろうじて動いた。
首の動きと目の動きだけで辺りを見渡す。自分の体には青い布が被せられている。その温かみのない肌触りだけで、自分がこれから何をされるのか分かった。首を右に回すと、自分の縛り付けられているベッドの脇に、道具を置いておくための台があった。
台の上には金属製のバットが置かれ、隣には、鳥肌が立ちそうなほど整然と並べられた、手術器具たちがあった。やっぱりだ。自分がこれから何をされるのか、確信できた。
幸い、いまここには誰もいない。それは、しばらく誰からも話しかけられることがないということだ。好きなだけ、好きなことを考えられる。
想像は痛みも苦しみもない。それなのに、心がきゅっとなるような幸せを感じることができる。今の私にできることは想像だけだ。なら、その幸せの海へ、身を投げ出してしまおうか。陽菜はそう思い、白い光の中で目を閉じた。目を閉じれば、あとは自分の心が目の代わりをしてくれる。
まずまぶたの裏に浮かんでくるのは、あの人の顔だ。ぶっきらぼうな性格のくせして、なんだかんだで自分を心配してくれる。タケさんもそんな人だった。
夏が顔を覗かせていたあの日、久しぶりに外の空気を吸ったのだ。湿気が多くて埃っぽくさえあったけど、紛れもなく外の空気だった。陽菜は自分でも気付かぬうちに、深呼吸をし、こそこそと自分が育ってきた檻、そして、その檻のある建物から離れていったのだ。
何日かの間は近くの大きな公園で眠った。立川、西立川、昭島にまたがるこの公園にいれば、さすがにしばらくは見つからないと思っていた。
この国は人が多い。誰かと顔を合わせないことには暮らしていけない。でも、顔を合わせれば、運が悪いと、自分の正体がばれてしまう。なにしろ、自分は追われている身なのだ。
だから、腹が減った時と喉が乾いた時だけ街へ出て、それ以外は公園の茂みに身を隠して過ごした。人の目を盗んでは公園の中を移動した。いつもいつも、西へ西へと向かった。
陽菜は岳彦の言葉に従っていた。陽菜は目を閉じたまま、彼の言葉を思い出す。
「俺がお前を脱出させたら、西へ逃げろ。武蔵野共和国の西は秩父山地だ。そこまで国境警備も厳しくないだろう。
ただ、列車はダメだ。日本への入国手続きの場にいるかもしれない。絶対、歩いて越えるんだ。日本に入っちまえば、あとはどうにだって生活できる。ここの暮らしより絶対にいいはずだ。暮らしにくいと思ったら、そのままどっか別の国に行ったっていい。
いいか? 絶対にここに戻ってくるな」
結局、彼の言葉は果たせなかった。
ある日の夕方、勇気を出して公園を出て、青梅街道を西へと逃げた。動けるのは夜の間だけだったから、人気のない歩道を無我夢中で西へと進んだ。行く手には、いつも黒々とした奥多摩の山がそびえていた。
一日目は御嶽駅の前で空が白み始めた。多摩川が削った深い谷と、残された斜面の間の狭い平面に、線路と道路と家屋とがひしめき合っていた。自分が逃げ出したあたりではまだ蕩々とした流れを湛えていたいた多摩川も、ここまでくれば、少し大きめな渓流みたいなものだった。陽菜は失望した。
夜通し歩くのくらい平気だと思っていたが、膝はわらい、二十歩に一歩はふらりとバランスを失った。そろそろ休もうと思って、駅前の小さな中華料理店の扉に手をかけた。扉は開かなかった。
当たり前だ。まだ早朝なのだ。店が始まるには早すぎる。ここへ入れないのだ、と頭が理解した頃に、ようやく自分が疲れているのだと解った。
駅前の橋を渡って、多摩川の逆の岸に渡り、近くにあった名も知れぬ山の麓の森に潜り込んで、ぐっすりと眠った。
そこまで思い出して、陽菜は、いつの間にか自分が、今この期に及んで、楽しいことの一つもなかった自分の逃避行を思い出していることに気がついた。なぜだろう。なぜ楽しいことを思い出さないのだろう。
しかし、答えは簡単だった。
この逃避行がなければ、自分はあの人に出会えなかったからだ。
答えを言葉にしてしまえばもう安心だ。また記憶を再生する。




