7:自分の迂闊さを悔いよ、と心は言った
「なんすか?」
「いや、この前会ったよねって思って」
明るい色の水着と、それに負けないほどのまばゆい笑顔だった。栗色の濡れた髪が光の中で踊り。体についている水滴の輝きさえも、彼女の輝きの様に思えた。
この前コインランドリーで見かけたときの気怠げな雰囲気とは、どうもミスマッチな感じがする。
「それだけなら放っといてくれて結構ですよ。お友達かなんかいるんでしょう?」
「いや? ちょっとさ、好きな人とうまく行かないから、憂さ晴らしにパーっと一人で遊ぼうと思って来たんだ」
「でも、一人じゃつまらないんじゃないっすか?」
「よく言うよ、君だって独りなくせに」
咄嗟に、透は陽菜がここにいる事を隠し通そうと決めた。もちろん、コインランドリーでの一件が、まだ色々不明なままだからだ。
「ヒマだしさ、ちょっと私とお話でもしない?」
彼女はプールサイドに面して建っているレストランを指差した。少しテーブルにも空きが出て来たようだ。
彼女が何者なのか、探りだけでも入れたいと思った。そのためにここで少しでも話をしておくのは悪くない事なのかもしれない。
透は瞬時にそう判断し、答えた。
「つき合いますよ」
「ありがとーっ。正直独りじゃつまらなかったんだよね。いやー、良かったわ」
ははは、と笑いながら、彼女はゆっくりとレストランへ歩き出した。屋外に慣れた目には、室内は少し暗すぎる気がした。
「でねー、ジェフの馬鹿ったら仕事仕事ってうるさいの。まだ二十歳にもなってないくせにさー」
彼女の名前は狩野涼華と言うらしい。歳は十八。透がそれしか知らないのは、彼女がそれだけ言うと、後はもう愚痴と自慢話しかしなかったからである。彼女の手元にはラーメンの丼とサンドイッチの載っていた皿があり、今ちょうどケバブを大きな一口で平らげた所だった。
食べては愚痴り、飲んではぼやき、サイクルはいつまでも途切れなかった。
「でも、そう言う馬鹿まじめな所が良いんだけどねー、ほんと。あー、あの朴念仁マジでどーにかならないかなー。ねえ、トールくん、君どう思う? 私ってそう言う事の対象に思われてないのかなあ?」
急に振られてびっくりした。言葉尻から彼女の素性を掴めると思っていたのに、全くそんな物のしっぽすら見えないのだ。まさか彼女に会話をする気があったとは、と、透は妙に感心した。
「どーですかね」
客観的に見て、彼女は人目を引く容姿をしている。陽菜ももちろん可愛らしい。が、陽菜のような儚げな魅力ではなく、もっと生命力にあふれた、元気そうな魅力なのだ。
端的に言うと、抜群にスタイルが良い。さっきから「ふうふう」とラーメンを冷ましたり、ケバブを齧ったりする一つ一つの動作が、どうも透には艶かしく見えて仕方が無かった。その上このビキニ姿である。溢れんばかりの「元気」が、こちらを突き刺してくるみたいだった。
信用できない相手であっても、男の心はそう言う事はちゃんと感じ取る物らしい。
「まあ、その……、ジェフさん? って人も、本当に仕事が忙しいんじゃないんですかね? なんかお金が必要なのっぴきならない事情もあるんでしょうし」
「みーんなそういう風に言うんだからーっ! つまんないつまんないつまんないーっ!!」
「ちょ、静かにしてくださいよ」
透は身を乗り出すと、慌てて彼女の肩を押さえた。夏のプールだ。騒いでいる若者たちのうちの二人、としか思われなかったようで、騒いだ二人の事を気に留めている人たちはあまりいなかった。
透は一つ息を吐いた。
「あの、多分、それ俺がどうにか出来る問題じゃないんで。俺じゃなくて誰か別の人に相談した方が良いっすよ」
口に出してみて、透は改めてそれに気づいた。
自分はこういう事に向いていない。自分の興味は、日々の暮らしと、自分の強さ、それだけにしか向けられていない。
「俺には解りません」
「そう言う人にこそ意見を聞きたかったんだけどなー」
涼華はそう言うと、ずずず、と置いてあったラーメンの丼からスープを飲んだ。
「あ、そんな飲むと体に悪いっすよ」
「変なとこばっかり気にするんだね」
そう言いつつすべて飲み干してしまうと、彼女はどん、と器をテーブルに置いた。
「とにかく訊くけど、やっぱり私、正しいよね?」
ものすごい剣幕だ。取って食われるんじゃないかと思いながら、透はおずおずと答えた。
「……正しい…………んじゃないっすか?」
「かーっ! そこがはっきりしないんだって!」
「めんどくさ…………」
ここまで面倒くさい人は久しぶりだ、と透は思った。こういう面倒くさい人種がいる事は冴紀の姿から学んでいたはずだが、恋愛が絡むとこうもパワーアップする物なのだろうか。透は一種の怪物でも見るような気分だった。
「まあ、あなたがその……、ジェフさん? の事が好きなら、その気持ちは伝わるんじゃないっすか」
人生で最も投げやりな言葉だったかもしれない。とにかくこの場を離脱したいばっかりに適当な言葉を投げたつもりだったが、涼華の心に透が思っていたよりも深く刺さってしまった。
「そ、そうか!」
涼華がポン、と手を打つ。
「なんなんすか、いきなり」
「そうだよね。結局はそこだよね。うんうん」
一人得心した彼女を見ながら、透は一人状況を飲み込めていなかった。今日はとにかく自分だけ取り残されて行く日らしい。
「ありがとう。勇気が出たよ。じゃ、今日はありがと」
彼女は唐突な動きで立ち上がると、くるり、と振り返った。ビキニの紐がやや緩やかな弧を描いた。
何気ない風に、彼女は問いかける。
「あ、そうだ。君の名前と住所を訊いても良いかな。いつかお礼もしたいし」
空気が凍った気がした。
目つきが違う。
透は、和やかで賑やかな空気に隠された、小さく鋭い針を見た。
彼女の今までの態度は、すべてこの言葉に収束していたのだ。
目が爛々と戦闘欲に輝き、それでも残った理性の一欠片で、騒ぎだす肢体を押しとどめている。透にはそれが解った。
彼女は透を見つけた時点で、陽菜が現れる事を期待していたのだろう。しかし、それを邪魔立てする何かが現れた。それが無ければ、透は今すぐここでやられていたかもしれない。彼女の表情は、そんな事を隠す事無く、表していた。
射殺すような視線が透を突き刺す。
「いや、いいっすよお礼なんて。俺、何もしてないですし」
暑さでかいた汗とは違う、粘っこい汗が背中を流れた。
「ふうん。ま、いいや。今度どこかであったら、何か奢らせてよ」
もはや彼女は笑っていなかった。透の背後を見て、周りを見渡して、苦りきった顔をして、それでも笑顔を残して、去って行く。
彼女の背中が更衣室へと続く通路へ消えた時、透は辺りの喧噪が戻ってくるのを感じた。我に返り、咄嗟に辺りを見回す。
迂闊だった。確かに彼女の目的は陽菜だった。自分一人から情報を引き出したなら、後は透に目もくれず、陽菜を奪還して行こうとしていたに違いない。
そうじゃないなら、最後の最後まで、彼女は愚痴り、ぼやき、笑い続けたはずなのだ。
陽菜はどこだ?




