12:遠き日の埃っぽい思い出
動物園を出ると、休日の午後らしく、吉祥寺通りと井の頭通りの交差点には買い物客がごった返していた。休日ともなれば、国外から入国して買い物にくる人もいる。人の流れに、この国の国境は大した壁を作ってはいなかった。
壁があるとしたら、その住人の多くが何者であるかと言う違い、その一点である。
「ひゃー、でも、リスがあんなに凶暴だとは思わなかったわー」
冴紀がたはは、と笑いながら言った。
「あんたがいやがるリスを追っかけ回すからでしょ」
静が冷静に指摘する。冷たささえ感じそうなその声に、冴紀は手に持った傘をぐるんぐるん振り回しながら、
「だってー、あんなにリスがいるんならたくさん触れ合いたいでしょー、ふつう」
と言った。
「いや、リスの方は冴紀さんと触れ合いたくなかったんじゃないっすか?」
「冷たい事言わないでよー、トール!」
「確かに……、あれはリスが可哀想だったかもしれません……」
陽菜は俯いてそう呟いた。冴紀の暴挙を思い出しているのかもしれない。
「雨の七月事件」としてリスの間で後々まで語り継がれるだろう悲劇は、冴紀がリスの巨大ケージに入った途端に始まった。
平和に暮らしていたリスたちをみた冴紀は、急に「かわいーっ!」と叫ぶと、側にあった手すりの上に寝ていたリスをむんずと掴んだのだ。常人よりも遥かに強い力と、大きな加速を持った冴紀だ。リスは何が起きたのか解らぬうちに冴紀の手のうちに入り、周りのリスも「なんだやばいぞ」とでも言いたげにゾロゾロと逃げ出して行った。
それであきらめる冴紀ではなかった。
「待てー!」と言って逃げ出したリスを追いかけて行くと、戻って来たときには両腕にたくさんのリスを抱えて戻って来たのだ。さすがに止めた方が良い、と言う透、静、陽菜の言葉に耳も貸さず、冴紀はリスを集めるのを止めなかった。
そして、結局は新しいリスに気を取られているうちに抱えていたリスに噛まれた、と言うのが事件の全容なのだが、なるほど確かにリスにしてみれば迷惑この上ない客だった訳だ。
「さあて、じゃ、いい感じの時間になってきたし、お昼でも食べようかっ」
「良いですね! 私もちょうどお腹がすいてきました!」
盛り上がる二人。そこに静が乗っかった。
「私もお腹が空いたわ。どこか適当なところでも入りましょうか」
「どこにするー? どこにしよっかー?」
三人で色々話し合っている後ろから、透は一人だけ輪に入りそびれて、何も言わずについて行った。
さっきから、どうも何かを感じるのだ。異能力者である彼だから、と言う訳ではないが、何か感じる。ヒトの五官の感じ取れる情報から論理的に推察できる範囲内で、異変の予兆がある。
どれだ、と考える。見ているもの、聞いているもの、嗅いでいるもの、触れているもの、味わっているもの、どこに異変があるのだ。
「透さんはどこにしますか?」
「うわっ!」
いきなり陽菜が振り返って、透に意見を求めて来た。全神経が奮い立っていた今だ。透は驚いて変な大声を上げてしまった。
「何を驚いているの?」
静が冷たい氷のような目線を向けてくる。
「陽菜ちゃんを怖がるとかありえないわー。トールそんなやつだったんだー。陽菜ちゃん落ち込んじゃったじゃん」
冴紀は面白そうな含み笑いを浮かべながら、言葉だけそんな事を言ってみせる。
「いいえっ、私全然落ち込んでなんかいませんって。大丈夫ですよ?」
慌てて冴紀の言葉を否定しに掛かる陽菜。小さな体を目一杯に動かして、一生懸命に透を慰めようとする。
そんな間にも、透はしきりに目を動かし耳を澄まし、間隔を研ぎすませていた。その異常さに気づいたのか、陽菜が、
「今私たちでお昼どこで食べるかを決めようと……、透さん?」
と言葉を切った。
前を歩いていた冴紀が振り返り、透は一瞬冴紀と目が合った。瞬時に冴紀は表情を硬くし、透と向かい合う陽菜の肩に手を置いた。
「こいつなんて何食べようって言ったって賛成しかしないんだから、私たちの方で決めちゃおうねー」
「えっ? でも、それは悪いですよ」
「良いから良いから。あ、駅前のハモニカ横町のさー」
冴紀が強引に話を引き戻して行く。陽菜は戸惑いながらも、すぐにそのペースに飲み込まれて行ったようだ。
陽菜と入れ替わる様にして、今度は静が後ろへ下がり、透の横に並んだ。
「藤村くん、何か変わった事でもあったの?」
「……はい。なんだ、気づかれてましたか」
「当たり前よ。一緒に仕事してる仲間でしょ?」
そう言って、まるで皮肉屋のそれの様に、ふっ、と静は鼻で笑った。
「で、何に気づいたの?」
「はっきり変だ、って言う訳じゃないんですけど、どことなくおかしな感じがするんです」
「…………私をからかってるの?」
「いえ、そうじゃなくて」
冷静に静の誤解を解き、透は続ける。オレンジ色の電車が通るガード下をくぐり、右へ曲がれば吉祥寺駅北口の、ここら辺で一番の繁華街に出る。
もし透の不安が的中すれば、一番おおごとになるのもここだ。
「本当に言葉通りの意味なんです。なんだか胸騒ぎがするっていうか、何かが起こりそうなんです」
「私感知系だけど、何も気づかないわね……。って事は、非霊力的攻撃の可能性があるってことかしら……」
静は口元に手をやって考え込んだ。相変わらず透の前ではにぎやかな欧州が繰り返されている。
途端、透は自らの感じる違和感の元に気づいた。
似ているのだ。透の遠い日の記憶にある、「あの景色」に。
苦しい景色が、頭の中によみがえる。
「静さん、ここ、離れましょう」
「……ただ事じゃなさそうね」
透の息は荒くなっていた。じわりと脂汗を額に浮かべ、表情は苦しげに歪められている。




