文目も分かず
崩れ落ちる街の真ん中に、少女がいた。
全身を煤だらけにした少女の前には、異形が聳えている。
まるで、大樹のようだった。
太い幹から這えた、螺旋状の歪な枝は不気味に蠢く。
彼女の視線は、そんな枝の一本に向いていた。
貫かれ、ボロ布のようにぶら下がる、肉の塊があった。
自分の双子の姉を……六花という名前だった肉塊を、開ききった瞳孔に収める。
いつも自分の手を引いてくれた優しい姉の顔は……何度も地面にたたきつけられ、潰れていた。
粘ついた黒い液体が降ってきて、少女の身体を染め上げて行く。
どうして、こんなことになっているのか。
どういて、こんなことになっているのか。
どうして、こんなことになっているのか。
何度も何度も、彼女は答えの出ない問いかけを自分の内へと投げかけた。
目の前に広がる景色を理解できない、したくない。
自分の半身とすら呼べる姉の死は、少女の心をあっさりと破壊していた。
同じ響きだけを繰り返す、壊れたラジオのように、意味のない問いかけを繰り返し、思考の行き止まりを回り続ける。
不意に、ずるりと、枝から姉の身体が抜け落ちて地面に落下した。
血まみれの肉塊が地面に落ちる音は生々しく、効くだけで心を抉る。
目の前に転がっている物体を、少女は光の宿らない目で見つめた。
直後、わけもわからず襲ってくる吐き気に、胃液をまき散らした。
残酷な現実が、知りたくもない事実を知らしめる。
奪われた。
壊された。
崩された。
殺された。
自分の愛したものは、何の慈悲もなく無にされた。
胸の奥で何度も聞こえる、ガラスの砕けるような音が示す意味が、少女には理解できない。
涙が乾いた双眸で、異形の大樹を見上げた。
恐怖は感じない。
胸にぽっかりと空いた穴から、あらゆるものが零れ落ちていくようだった。
血は流れていても、体温はあっても、胸に鼓動を感じても……もはや、少女は生きてはいなかった。
そこにあるのは、からっぽの容器だ。
踏みつぶされ、潰れるのを待つばかり。
――そのはずだった。
「……」
聞こえた声は、誰のものだったろう。。
「……?」
微かに少女の視線が動き、地面に転がった肉塊を見た。
潰れた相貌が、少女を見ていた。
骨が砕けとても動ける状態ではない腕が、震えながらも、伸ばされた。
「ぁ……」
生きているはずがないのに、生きていた。
それはどんな奇跡なのか。
双子の姉は、妹へと手を伸ばしていた。
助けてくれ、と言っているのか。
あるいは、逃げてくれと訴えているのか。
それは分からないが……姉が生きているのは、間違いなかった。
からっぽになった胸に、一滴だけ、救いがもたらされた。
唯一、縋るべきものが目の前にあって、少女は応えるように姉へと手を伸ばし……。
頭上から振って来た無数の枝が、姉を貫き、引き裂いた。
「……え」
差し込んだ一筋の光すら踏みにじられる。
引き裂かれた肉の隙間から、臓物が飛び出し、少女の身体へとかかった。
なにか分からない、どろりとした感触が頬を撫でる。
姉とお揃いだった自慢の黒髪に、肉の管が絡みつく。
唇の隙間から、鉄の味が染み込んできた。
「……ぁ」
気付けば手のひらの中に、なにかがあった。
とくん、と微かに触れるような感触が伝わってくる。
握りこぶしより少し大きななにかが、もう一度震え……ぴたりと止まった。
「――……」
一瞬だけ、少女が感じたのは、愛する姉の温もりだった。
けれどそれも、あっという間に失われていく。
己の半身が消えてしまったかのような喪失感が、少女の内を満たしていく。
光一つない暗闇に置き去りにされた絶望で、少女の世界が満たされていく。
どうしてこんなにも、自分に残酷にするのか。
何度も、何度も、少女の心は踏みにじられ、細かく砕けて行く。
砕けて、砕けて……次第に、鋭く突き刺す無数の破片へと形を変えた。
「あ、ああ……」
とっくに枯れたはずだった涙が溢れだし、少女は自分の顔を手で覆う。
失ってしまうことの、どこまでも悲しいことか。
一方的に暴虐を奮われることの、なんと理不尽なことか。
「……そう、か」
もう奪われたくない。失いたくない。
苦しみなんていらない。
「そっか……、簡単じゃない」
少女の口元が歪む。
血に染まった唇が、割けるように笑みを作った。
「私が、壊せばいいんだ」
顔を覆っていた手がどくと、そこにある瞳は、一色の想いに染まっていた。
触れる者すべてを傷付ける魂が、現実へと牙を剥く。
手のひらの中にある『姉』を胸に抱き寄せ、少女は笑む。
「もう奪わせない」
奪われるくらいなら……。
少女の唇が、赤黒い塊へと口付けを落とし……遠慮なしに歯を立てた。
奪われるくらいなら、先に奪えばいい。
「もう壊させない」
指先についた血の一滴まで綺麗に舐めとり、少女が立ち上がる。
自分の大切なものを壊されるくらいなら、先に壊してしまえばいいのだと、大樹へと手を伸ばす。
からっぽだった容器だからこそ、もはや注がれるものを拒めない。
虚無を、漆黒が塗り潰していく。
「ああ……あぁ、っ……!」
胸に流れ込む感情は、果たして自らの内からこみ上げたものか。
あるいは、姉のものか。
それすら分からぬまま、彼女は――。
「……ね……、……、し……、……」
何度も、唇を動かして、想いを声に乗せる。
それは……それこそ……呪いだ。
「死ね」
死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね――。
† † †
まだ空が明るくなっていないうちに目を覚ました千華は、深い溜息を吐くと、布団を蹴り飛ばすように身体を起こした。
部屋の内装は昨日やって来た時から、ほとんど変わっていない。
必要最低限のものさえあれば、千華に困る事などなかった。
持ち込んだものは段ボール一箱と半分の衣類と、いくつかの雑貨やトレーニング道具くらいのものだ。
運び込まれた段ボールはまだ衣類が入っているものしか封が切られておらず、それも着替えの為で荷解きなど微塵もしようとしていなかったことが窺える。
「……はぁ」
慣れないいぐさの香りに表情を歪めながら、千華は段ボールを漁り、普段愛用しているジャージを引っ張り出した。
「さっさと行こう」
気分は重く、少しでも鬱屈した思いを誤魔化すためにも、日課の準備を始めた。
† † †
ジャージに着替え、髪を後ろで一束にまとめた千華が階段を下りると、厨房の方から包丁がまな板を叩く音が聞こえてきた。
「……まさか、こんな時間から?」
訝しげに眉を寄せた千華は、気付けばつま先をそちらに向けていた。
廊下の突き当たりにある厨房を覗き込むと、千華が想像した通りの姿があった。
着物姿の紡が、かまどのある歴史深さを感じさせる厨房で調理をしていた。
厨房の一角には最新のIHコンロがあるというのに、かまども現役で使っている様で、火にかけられた釜は木蓋の隙間から湯気を出していた。
「あら、八束さん。お早いのですね」
千華に気付いた紡が包丁を置いて、にこやかな笑顔を浮かべた。
「それはこっちの台詞よ。随分早くから朝食の準備をしているのね」
昨夜の料理を思い出し、確かに手間はかかりそうだけど、と千華が呟く。
彼女には、どうしてそうまでして紡が皆に尽くすのかが理解できなかった。
少し手を抜いても、誰も文句など言わないだろうし、文句など言われたところで無視すればいいとすら思う。
「ふふ、趣味のようなものですから」
「……ふうん」
千華には理解できないことだった。
興味を失うと同時に、新しい興味が芽生える。
果たして、このお人よしはどんな想いと魂で、魂を装うのか。
特務に所属する以上、強大な力を持っているのは間違いない。
しかし、それほどの力と、この気の良さが、釣り合っていない様に思えたのだ。
力を得れば人間は傲慢になるもので……あるいは、どこか歪んでいるからこそ力を得られるものだ。
そういった癖を紡からは全く感じなかった。
「八束さんはこれから、お出かけですか?」
「走り込み。三十分以内には戻る」
「そうですか。食事もその頃には出来ていますので、頑張って来てくださいね」
「ええ」
応援の言葉に素っ気ない返事を返し、千華は玄関へ向かって歩き出した。
着にはなっても、わざわざ本人に訊ねる程のことではなかった。
千華にとって、紡のことなど極論どうでもいいのだから。
大事なのは、自分の力だった。
求めるのは、憎悪と殺意の純化だった。
より強大に、より凶悪に、より理不尽に。
それだけを千華の魂は求めている。
† † †
夏も近づいているとはいえ、まだ朝早い時間の空気には涼しさを感じた。
千華は屋敷を出ると、そのまま人の気配が薄い住宅地を走りはじめる。
「ふっ……ふっ……」
一定のリズムで呼吸を刻みながら、彼女は昨日のことを振り返った。
惨めにも紫峰に敗北した事実に、拳をきつく握りしめる。
「……どうして、あんなやつに」
噛み締めた歯が軋む音が聞こえた。
自身の闘う理由が特別でないことは、千華も理解していた。
十年前の大規模飽和流出で大切な誰かを失い、復讐に走った人間は決して少なくない。
実際、双界庁に所属している魂装者の大半が復讐心を持っている、と言われている。
それでも憎悪の深さで、誰にも負けるつもりは無かった。
誰よりも強く、濃く、二人分の殺意を研ぎ澄ませてきた。
憎悪を果たすための努力も怠ったことは無い。
だというのに結果が惨敗では、恥で死にそうな気分にもなる。
「……くそ」
黄泉比良の命、千を殺めも分かず。
文目も分かずに殺し続ける。
自らの魂の根源を、改めて確かめる。
己の一番深いところにある、この世界を呪う殺意と悪意を。
「絶対に……いつか……」
果てしのない暗闇に落ちていく自らの魂に、千華は求める。
より、取り返しのつかないところまで信じていくことを。
† † †
屋敷に戻った千華を迎えたのは、出る時と同様に紡だった。
彼女は厨房から顔を出すと、変わらぬ笑顔を浮かべた。
「おかえりなさい。直食の時間までもう少しありますから、地下の大浴場に入ってはどうでしょう?」
柔らかな表情を見ていると、気が抜けそうになって、千華は軽く視線を逸らした。
ふと、今の方から微かに話し声が聞こえてくるが、興味もなくて、すぐに意識を外す。
「……そうね。それなら、入るわ」
「是非。この屋敷の自慢の一つですから」
微かに乱れた呼吸を整えながら、千華は着替えをとりにいくために、一度自室へと向かった。