死者の相貌
空を、二つの影が舞っていた。
片や、おとぎ話の中から飛び出してきた翡翠の竜。
片や、血で錆びついた四枚の翼を軋ませる少女。
二者の衝突は、当然のように少女――『伊邪那美』八束千華の優位に進んでいた。
『翡翠の薔薇』寄生木妃が巨大な翼で風を掴み、滑るように空を飛翔し、千華の背後を取ろうとするが、その動きはすべて先んじられ、逆に痛烈な迎撃を食らってしまう。
耳障りな擦過音を立てながら、大鎌が竜の背を大きく袈裟に切り裂いた。
砕けた鱗が飛び散り、血潮の代わりに、魂の輝きが飛び散る。
決して、『翡翠の薔薇』が脆いわけではない。
並みの魂装では、その美しい鱗に傷一つとてつけることは叶わないだろう。
だが、相手は『伊邪那美』、破壊の魂だ。
いくら、愛すべき余計なものを内包しているとはいえ、その力は絶大にして、超越的。
常に破壊を願い求め果たすべき魂は、既に第一等級の枠から半歩踏み外している。
彼女の一撃に込められた殺意は、遠慮なしに妃の魂を傷つける。
竜は悲鳴を上げながらも身をよじり、千華に尾を叩きつけた。
だが、千華はそれを軽々と片手で受け止める。
尾を掴むと、思い切り振り回し、さらなる高空へと放り投げた。
人が竜を投げる。
悪い冗談のような光景が、そこにはあった。
妃は崩れた姿勢をすぐさま立て直すと、千華へ向かって結晶弾を吐き出した。
雨のように降り注ぐ魔弾を、千華は正確に自分に命中する軌道にあるものだけ、大鎌を数度振り回して打ち砕いた。
「こんなもの?」
拍子抜けしたように呟いて、千華は軽く大鎌を投げた。
軽々とした投擲だったにも関わらず、大鎌は高速で回転しながら妃へと迫る。
横に飛んで回避しようとするが、大鎌は意志でも持っているかのように妃を追って軌道を変えた。
回避は不可能、であれば受け止めるしかない。
竜の爪が震わせる。
大鎌と爪が交わり、直後、爪が砕けて、大鎌が竜の腕を深く抉っていく。
魂の肉片が飛び散ると、竜は悲痛な叫びを上げた。
「ほらほら、もう少し期待に答えなさいよ。あんたはこの程度? 違うでしょう。少なくとも、私はあなたに壊し甲斐を感じたのだから」
千華が歯を剥き出しにして、獰猛に笑う。
「さあ……見せてみなさいよ」
千華が翼から大剣を引き抜いた。
赤熱した刀身を振るうと、紅蓮の炎が刃となって翔けた。
灼熱の刃を前に、竜は身もだえることしかできない。
痛みに、ではない。
自らを犯す、穢れにだ。
自らの魂の力を振り絞る限り、妃の魂は加速度的にその穢れを色濃いものへと変貌させていく。
寄生木妃という人間の型が崩れ、魂だけが暴れ狂い溢れださんとする。
本来人が扱える以上の魂の澱を飲み込み燃やし呪いの炎で己を焦がす。
竜の身についた傷が瞬く間に再生し、瞳が大きく見開かれた。
裂けるほどに口を開いて、雄叫びを上げる。
炎の刃が、竜へと襲い掛かった。
紅蓮が巨躯を包み込む。
しかし……焼かれるよりも、再生のほうが早い。
それを見た千華の笑みが深まる。
「それでいいのよ……」
壊し甲斐がある。
改めて、千華は妃にそんな感想を抱いた。
竜が身体をよじり、炎を吹き飛ばす。
理性の薄れた瞳に見据えられ、千華は大剣を握る手に力を込めた。
この魂を壊せば、自らはさら強固な魂を手に入れられる。
確信して、死力を振り絞ろうとした刹那――。
「――大好きだよ、お兄ちゃん。安心して、私が助けてあげる――」
『翡翠の薔薇』の汚染が淡く見えるほどの穢れが、現実に咲き誇った。
「っ!?」
気配は、地上から。
千華は目の前の竜から完全に意識を外して、視線を下へと向けた。
戦闘中では自殺行為にも等しい、致命的な隙だったが、それは妃も同じだった。
彼女も今だけは自らの魂の穢れなど忘れたかのように、全神経を下方に向けていた。
二人とも、それを見ずにはいられなかったのだ。
なぜなら……それから意識を一瞬でも外すことこそ、命をなげうつことだと直感していたから。
地に裂くのは、巨大な漆黒の花だ。
汚濁の魂が溢れだし、数十メートルもの大輪を咲き誇らせている。
その中心がゆっくりと膨れ上がり、卵の殻を破るように、ソレは生誕する。
まず出てきたのは、いくつもの顔面が繋ぎ合わさってできた肉の塊だ。
どれもが血の涙を流し、怨嗟を叫んでいる。
長い首が現れて、馬のような体躯が露わになる。
その全身からは無数の腕が体毛のようにびっしりと生え、なにかを求めるように空を掻き続けている。
最後に、最初に現れた首を、そのまま反転させたものが引きずり出された。
子供の書いたらくがきのような出鱈目な造形だが、そこに込められた悪性の魂は、とても幼子が持ち得るようなものではない。
どれほどの恨みを、悲嘆をかき集めればこのようなものになるのか、千華にも妃にも、誰にも想像できなかった。
異形が生まれたことで役目を終えたかのように漆黒の大輪が溶けるように枯れ落ちていく。
大輪の腐液は、そのまま周囲の建物も地面も溶かしてしまう。
「あれは……サワリ?」
「違う……ううん、そうなの?」
千華の言葉を、妃は否定も肯定もできなかった。
他ならぬ妃だから、その正体を見抜くことができた。
なにせ彼女はこれまで、それを生まないために、堕ちかけた魂装者を狩ってきたのだから。
魂装者が穢れに包まれ堕ちた姿だ。
こちらの魂を飲み込むような、深淵の如き絶望の密度に、妃は思い知る。
これまで、幸いにと言うべきか、堕ちかけた魂装者は、最後の一線を越える前に処理できていた。
だから、妃とて実際に堕ちた魂装者を目の当たりにするのは初めてだ。
そして、そのただ一度きりであってほしいと願わずにはいられない。
こんなものが生まれるところなど二度と見たくない。
純粋に、そう思わせる醜悪だった。
皮肉なことに、ここに至って妃は第二特務の存在が、魂装者にとって必要不可欠なストッパーであったのだと理解する。
異形が、ゆっくりと二つの顔を持ち上げ、それぞれで千華と妃を捉える。
身体の内側で、大量の蛆が這いまわるような不快感に襲われた。
「――『死相』」
その顔に張り付く無数の面を指し……同時に、それを見る者に感じさせる不吉を指して、千華はつぶやいた。
死者の相貌が、一斉に吠えた。
無数の瞳が恨みを込めて見つめる先にいるのは――『翡翠の薔薇』。
逃走、生存の魂……既に死んだ者にしてみれば、そんなものは目障りで、羨ましく、恨めしく、羨ましいものでしかない。
故に、『死相』が吼えた。
無数の顔面が叫び、胴から生えていた無数の手が勢い良く伸びた。
数百どころか、数千にもおよぶ腕が、四方八方から『翡翠の薔薇』へと殺到する。
それらを、妃は竜の巨躯で器用に避けて見せた。
翼を羽ばたかせ、時に折り畳み、空を自由自在に駆け回って必死に死者の手から逃れる。
掴まれれば終わる、そう本能が訴えていた。
だが、いくら逃走に秀でた魂と言えど、玄関はある。
まして相手は明らかな格上……竜が舞える空域は次第に狭まり、自由を少しずつむしりとられていく。
そんな様を、『死相』に浮かぶ顔面達は満足げに嘲笑う。
「――私は無視? そういうの、ムカつくわね」
相手にもされていなかった千華が、舌打ちをして大剣を逆手に持ち替え、身をひねって投擲する。
まっすぐ『死相』へと向かった大剣だったが、その刃が届くことはなかった。
『死相』に触れる直前、大剣は不自然に勢いを失い、ひしゃげ、粉々に砕けちった。
一度千華の手を離れた魂装では、『死相』の放つ魂の圧力にも対抗できなかったのだ。
自分の攻撃をこともなげに防がれ……それどころか、気付きさえされず、千華は小さく笑った。
また、自分の届かな領域にある魂だった。
だから喜び迎え入れるのだ。
これを乗り越えるために、自分の魂はさらに昇華するのだから。
千華は次いで突撃槍を抜き放つと、矛先を『死相』の身体のど真ん中に向けた。
貫通力の高い攻撃を叩きこむ。
そう決め、動き出そうとした千華だったが……彼女の翼が、身をよじるように蠢いた。
「っ……!?」
攻撃を受けたわけではない。
自らの魂が、制御できなかった。
かといって暴走しているというわけでも、もちろんない。
彼女の内で、なにかが反抗しているのだ。
それをしてはならない、と。
考えるまでもなく、千華にはその正体がつかめていた。
「なんで……!? どうして邪魔をするの!?」
目の前の敵を屠ることを引き留める気配に、千華が困惑気味に叫ぶ。
彼女の内にいる魂は、同じく親しい者の内にいるからこそ、『死相』の正体に気付いていた。
自分と似た想い、似た在り方……だからこそ、千華に『死相』を倒させまいとするしかなかった。
なぜなら、千華の魂が司るのは破壊だから。
彼女が砕けば、『死相』の核となっている魂まで完全に破壊し、転生すら許されず消滅する。
いつかどこかで、妹が兄と再会できる奇跡の可能性を完膚なきまでに奪うことなど、出来ない。
「なんでよ、六花!」
答える言葉を持たない八束六花は、八束千華の問いかけに、抵抗の力を強めることで答えとした。
この場において、千華を止められるものは、千華の内から魂に干渉できる六花をおいてほかにいない。
だから祈る。
どうか、自分が千華を止めているうちに、どうか、どうか誰か。
あの少女の魂を救ってほしいと。




