腰を落ち着けて
遠季真央の登場に、一番動揺していたのは他ならぬ紫峰だった。
「ま、真央……」
震える声で名前を呼ぶ紫峰の前で、遠季は足を止め、髪に隠れた顔を向けた。
不意に、白い髪の隙間から、真紅の瞳が一瞬だけ覗いた。
「私、は……こんな許可、出してない……」
ぼそぼそと、今にも消え入りそうな、口ごもった声だった。
まるで長い間人との会話をしてこなかったかのような印象だ。
悪い言い方をすれば、引きこもりがいきなり人と放そうとしている……とでも言えばいいだろうか。
それだけ聞けば、『魔王』とまで畏れられる存在とは、とても思えなかった。
「……続ける?」
「ま、まさか。隊長様の意向に従うよ」
だが、先程まで圧倒的な力を振るっていた紫峰は顔を青くして、思い切り首を横に振りながら媚びるような笑みを浮かべていた。
その姿は、悪戯がばれて必死に主人に擦りよる飼い犬すら彷彿とさせる。
「……三週間の、トイレ罰掃除。あと今月は、減給」
「な……!? いやいや、おいおいおい、ちょっと待ってくれよ真央! 今月はちょっと欲しいものが……」
「反省文も三十枚」
「あの、だからどうか……」
「三週間皿洗いも追加」
「……分かり、ました」
取りつく島もない遠季に、紫峰は大きく肩を落とし、呻き声を漏らした。
遠季は紫峰から視線を外すと、今度は満身創痍の八束の元へと歩み寄る。
ここからでも、八束の全身が強張るのが分かった。
「ここは、魂魄界……との、境界が……曖昧」
「……それが、なによ」
言葉遣いが乱暴なのは、八束にとって、せめてもの抵抗なのかもしれない。
すくなくとも俺なら、そんな振る舞いができる自信はない。
だが、遠季はそれに構う様子もなく、言葉を続けた。
「魂装は、魂魄界から魂の澱を汲み上げて、自分の魂を核に形成する……高位の魂装ともなれば……ましてや、そのぶつかり合いなんて……魂魄界との境界を、大きく揺さぶる」
遠季が言いたいことは、魂装者であれば誰でも知っている事だ。
魂装者の力は、振るうほどに飽和流出発生の確率を高める。
だからこそサワリ討伐意外での魂装の使用は忌避されているのだ。
「……そんな事、分かってる」
「なら、浅慮……愚か……」
ぽつぽつとこぼされる単語に、八束が唇を噛んだ。
正に、遠季の言うとおりだからこそ、下手に反論は出来ない。
「……言えば、事前に……模擬戦の準備くらい、手配した。そうすれば……影響も最小限に抑えられる……」
呆れたようなため息が、遠季から漏れる。
「うるさいわね。あいつが先に吹っかけて来たのよ」
「それは、察しが付く……でも、あなたにも、問題はある……ように思える……」
再び、血色の瞳が覗き、八束を見つめた。
「っ……」
それだけで、八束は気圧された様子で口を閉ざしてしまう。
「……今回は、見逃すけれど……」
次に同じような事があれば、見逃すことはない。
感情の籠らない言葉だが、それだけは、はっきりと言外にも伝わって来た。
「……あ」
ようやく全身にのしかかっていた重圧が消えて、まともに呼吸が出来るようになる。
縮みあがっていた心臓が、激しい鼓動を胸の奥で刻んでいた。
「あれが『魔王』……」
大規模飽和流出すら一人で抑える、常識外れの魂装者を見つめ、虚脱感に襲われた。
あれ一人いれば、もう俺なんていらないんじゃないのか。
そんな、どこか投げやりな気分だった。
† † †
隊舎に戻る頃には空もすっかり暗くなっていた。
居間の大きな卓を、特務部隊の面々が囲んでいた。
隊長である遠季から右に朱莉先輩、紫峰、俺、八束、そして今は夕食の準備で立っている紡の座るスペースが空いている。
全員、それぞれ私服に着替えていた。
遠季は全身黒一色の、シャツにすらっとしたパンツというシンプルな格好だ。
朱莉先輩も合わせたかのように黒を基調とした服を着ているが、アクセント程度にフリルなどがついているワンピースタイプの服で、洒落っ気を感じられた。
紫峰は言うまでもなし、という感じでパーカーにジャージのスタイルのままで、紡も同様に着物姿だ。
俺も八束も、隊舎に来た時の格好と変わらない。
唯一の男ということで少しばかり座りの悪さを感じるが、他の連中はさして気にした素振りもない。
「出来ましたよ」
朗らかな笑顔と共に紡が運んで来たのは、なんとも豪勢な食事だった。
中でも目立つのはお造りで、テレビ番組の旅館紹介で出てくるような、船を象った器に六種の刺身が綺麗に盛り付けられている。
それぞれの器についている魚の頭が違うあたり、捌くところから紡が処理しているのだろう。
他にも刺身で使いきれなかった分なのか、煮つけや、山菜などの天ぷら、さらには鳥皮をつかったらしいにこごりまで……どこかの料亭に来たかのような気分になってくる。
「これは……」
「すごいでしょう。紡さんの料理は絶品なんですよ」
朱莉先輩が、どことなく自慢げに告げて、隣では遠季がこくりと頷いていた。
……あの二人、というか朱莉先輩、妙に遠季との距離が近い気がする。
いや、腕を組もうとして肘で押し返されているあたり、明らかに朱莉先輩は遠季にくっつこうとしていた。
「この部隊に入って一番得したのは、紡のメシを食えることだな」
紫峰は待ちきれないとばかりに、既に箸を構えていた。
そんな姿を見て、八束が鼻を鳴らす。
「ご主人さまに、よし、って言われるのを待つ犬ね」
「あ?」
「あら、聞こえた? ごめんなさい、犬って耳もいいのね」
「ああ?」
八束と紫峰の視線がぶつかり、火花が飛び散っているかのように錯覚する。
というか、俺を挟んで剣呑な雰囲気を漂わせないでほしいものだが……。
「まあまあ、お二人とも。食事の時間は仲良くしてください」
準備を終えた紡が戻ってきて腰を下ろす。
「それじゃあ……、いただきます」
「いただきます」
部隊のルールなのか、隊長である遠季の言葉に他の面々も続いて手を合わせ、食事を開始します。
「……いただきます」
俺も倣うが、隣では八束がどことなく不満げに手を合わせ、唇を微かに動かして、食事を始める。
……こいつは食事の挨拶も素直に出来ないのか。
「あ、お姉様。よければ食べさせてあげましょうか?」
「……いい」
朱莉先輩は、やはり遠季に執心しているのか、声をかけては拒否されていた。
「なあ紡。このゼリーみたいのなんだ?」
「にこごり、ですよ。前にも何度か説明したのですが……」
「あー、そうだっけ? そんな気もすんなー……あ、うめ」
紡と紫峰も親しげに言葉を交わしており、食卓はそれなりに賑やかで、明るい雰囲気に包まれていた。
俺と八束を覗いて、だが。
いきなりこんな状況になって他の会話に入っていけるほど、俺は口が上手いわけじゃない。
自分で言うのもなんだか、人間関係は苦手なほうだ。
八束も、沈黙を貫き、もくもくと食事を進めていた。
そんな俺達を、朱莉先輩の要求を回避し続けながら食事を進めていた遠季が見つめた。
……どうでもいいことだが、あんな髪に顔を覆われてる癖に、よく髪の気一本汚さずに食事ができるものだ。
器用に髪の隙間から口に食べ物を運んでいた。
「……自己紹介」
「え、あ……そうですね、改めて自己紹介しましょうか!」
遠季の言葉を拾い、その意を組んだ朱莉先輩が声をあげた。
「それじゃあまずは……」
「私」
小さく手を上げて、遠季が座り直し、背筋をぴんと伸ばす。
「第一特務、隊長……遠季真央。好きに呼んでくれていい。魂装は……そのうち見せる機会も、あるかも」
「……あ、はい、ありがとうございます、お姉様!」
短い。
あまりの短さに朱莉先輩ですら一瞬、終わったことに気付いていなかったぞ。
「それじゃあ次は私ね。ええと……扶桑朱莉。この部隊には隊長と紡さんに続いて、三番目に長くいます。歳は一番下ですが、そこはしっかりと先輩として頑張りますので、よろしくお願いします」
「先輩として、ってもなあ……朱莉、お前はいつも真央にへばりついてばかりじゃねえか。アタシん時もなにしてくれたよ?」
「べ、別にいいじゃないですか。補佐です、補佐!」
そんな制度あるのか?
当の隊長様が首を傾げているぞ。
「あと、私のことは先輩とつけてくださいね。そういうのはしっかりしないと」
「お前がもうちょっと身長伸ばして、言葉遣いだけじゃなく行動もいっちょまえになったらな」
「な、どういうことですか……」
むっとした表情をする朱莉先輩だが、紫峰はその言葉を受け止めずに俺と八束に視線をよこした。
「紫峰七海。あんまり舐めた真似すんなよ、新入りども」
「ふふ、紫峰さん。あまり脅すようなことを言うものではありませんよ」
「いいんだよ、最初からこれくらいは」
それで遠季にしっかり罰則を喰らっていたわけだがな。
と、内心で思っていたら、紫峰に睨みつけられた。
「なんか言ったか?」
「言ってない」
本当に言ってない。
耳がいいだけじゃなく勘までいいのかよ。
八束じゃないが野生動物じゃないのか。
「それでは、次は私が……天道紡と申します。あまり戦闘向きの魂装ではないので、後方支援と、日常での皆様のお世話をさせて頂いております。至らぬ点も多々あるかと思いますが、何卒よろしくお願いします」
紡は優雅な所作で頭を下げる。
まさに、こそこそ大和撫子の手本、といった感じで、ついつい俺まで軽く頭を下げてしまった。
「ちょっと、紡さん。大事なとこ言い忘れてない?」
「……それは、わざわざ言う必要はあるのでしょうか?」
紡が朱莉先輩の言葉に、微かに表情を曇らせた。
「ほら、自己紹介はインパクトなんだから」
「……」
朱莉先輩の勢いにおされ、紡の唇から微かな吐息が漏れた。
「……その、母は……天道 秤と申します」
「え?」
素で驚いて、声が漏れた。
八束も同様に、ぽかんとした顔で目を丸くしている。
「天道秤って……」
聞き覚えがある。
いや、今の世の中で彼女の名前を知らない人間など、一人もいないだろう。
天道秤博士こそ、双界の概念を最初に提唱し、大規模飽和流出の直前に蒸発した人物なのだから。
「それじゃあ紡は、天道博士の行方とか……」
「いえ、残念ながら」
苦々しさを隠し切れない顔で、紡は首を横に振った。
微かに感じる、辟易とした雰囲気からして、今まで何度も同じような質問を投げかけられたのだろう。
「……そうか」
天道博士……俺は、彼女に一つだけ聞いてみたい事があった。
もしも……。
もしも……だ。
この世界の人々が、最初に双界概念を訊いた時、素直にそれを信じたら、どうなっていたのだろう。
きちんとした対策をとっていたら?
そうすれば……もしかしたら、俺の家族は……。
今さら意味の無い問いかけだが、それでも、気になって仕方が無かった。
もし博士が、その結果は違っていたと言うのであれば……俺は、どうするだろう。
分からない。
もしかしたら、再び怒りの炎が燃え上がるかも知れない。
愚かな人間に対して。
どうして守ってくれなかったんだ、と。
八つ当たりと分かりながらも、誰かを傷付けずにはいられなかったかもしれない。
だから、博士の行方が分からないと聞いて、俺は少しだけ安心していて……、でもやっぱり、少しだけ残念だった。
思いをぶつける先があることは……きっと、とても楽なことだから。