魔なる英雄
突如として場を支配したのは、全てを凍りつかせるほどに圧倒的で、絶望的な質量を感じさせる魂の気配だった。
「――!?」
誰も、声を上げることすらできない。
争っていた八束や紫峰だけじゃない。
俺も、どうにか視線だけ動かしてみれば、朱莉先輩や紡も、ぴくりとも動かず、青ざめた顔をしていた。
この感覚には覚えがある。
俺が八束とひと悶着おこしていた時に、朱莉先輩の力に全身を絡め取られたのに、よく似ていた。
だが、違う。
圧倒的に……その重みが違う。
足音が聞こえてきた。
「ま、まさか、これ……」
朱莉先輩が、どうにか、といった様子で首を動かす。
「……そういえば、そろそろ、帰ってくる時間でしたね」
紡の声色からは、どことなく、諦めるような思いを受けとった。
俺の横を、誰かがすれ違う。
その瞬間だけ、世界で一番深い海に沈められ、水圧で押し潰されるような圧迫感に襲われた。
全身から汗が吹き出し、大げさではなく……死を覚悟した。
だが、人影は俺に構うことなく、相対したまま固まる八束と紫峰へ歩み寄った。
女だった。
やはり、と言うべきなのだろうか。歳は俺達と大した違いはない。
そもそも魂装者は、十年前の大規模飽和流出に巻き込まれた子供や、以降に生まれた者に多い。
魂魄界の影響力が現実世界に及ぶようになり、それに対する適正……あるいは免疫、抗体のようなものを、まだ未発達な状態のほうが獲得しやすい、などと言われている。
だから、新たに現れた魂装者が若い事に関だけは、不思議ではない。
そう……それだけは。それ以外は、異質だ。
双界庁の外套を纏っているが、サイズが合っていないのか、裾は引きずり、ぼろぼろになってしまっている。
膝ほどまで伸ばしてある髪は色を失ったような白亜で、肌も血が通っていないかのように白かった。
外套と相まって、白と黒のコントラストがどこか不気味に映る。
カラー写真の中に、白黒写真が混ざったかのような違和感だ。
長すぎる髪は顔を隠してしまい、表情どころか、瞳すら覗うことは出来ない。
「う、あ……」
酸素を求めるように、呻き声を漏らしながらも必死に呼吸をする。
これほどの威圧……女が第一等級の魂装者であることなど、疑いようもなかった。
特務部隊の所属だろうというのも、想像に難くない。
そして、俺はまだ、この部隊における最重要人物と顔を合わせていない。
この場にいる全員を威圧し押さえつける、この力量……間違いない。
この女こそ……。
† † †
不意に思い出すのは、仙堂さんに特務部隊のことを聞いた時のことだった。
ステーキを食べながら、ふと思い出したように、仙道さんは口を開いた。
「ああ、そうだ。特務部隊について、俺も一つ知ってることがある」
「食べながら喋らないでください。それ、悪い癖ですよ」
「女みてぇに細けぇこと気にすんなよ」
言いながらも、仙堂さんは肉を呑みこんで、紙ナプキンで唇を拭ってから続けた。
「今、その部隊の長をやってるやつには、俺も昔……お前が双界庁に入る前だから、三年くらい前か。会ったことがある」
「へえ……どんなやつなんだ?」
「ん……そうだな」
なぜか、仙堂さんは言いづらそうに表情を歪め、口をもごつかせた。
「第二次飽和流出における……まあ、俗に言う、英雄、ってやつか」
実際、告げられた内容も、なにが言いづらいのか理解できない。
第二次飽和流出といえば、三年前に起きた事件だ。
当時はまだ双界庁に所属していなかった俺だが、それでも世間であれだけ騒いでいた事件の事だ、よく覚えている。
驚くくらいにあっさりと解決してしまい、むしろ肩すかしをくらったかのような気分になったことまで。
実際俺も、今回の大惨事で大規模飽和流出に直面したが……十年前は何の備えもしていなかったから被害が出たのであって、事前に流出の前兆もある程度掴めるようになり、魂装者という戦力を揃えた今となっては、そこまで致命的な現象ではないように思えた。
「英雄ね……。でも、そんな話は聞いたことないぞ?」
どれほどの功績を得たのか知らないが、そんな仰々しく呼ばれるくらいなら、噂の一つは普通に聞きそうなものだが。
「誰も怖くて口に出せねぇんだろうなあ。緘口令、って名分もあるが、それがなくたって……誰も言えねぇさ」
「は?」
「……ま、それは見た人間にしかわかんねぇかもな」
ぼそりと呟く仙堂さんに、俺は訝しむような視線を送った。
一体、何が言いたいんだこの人は。
「今回、戦果だけでみりゃお前もかなりのもんだ。だが……気を悪くしないで欲しいんだが、それでもお前さんは英雄とは呼ばれねぇよ」
「別に、そんなことで不機嫌になったりはしないけど……なんでだ?」
「単純な話だ。それくらいじゃ英雄と呼ばれるほどじゃない」
「……ってことは、その英雄様は俺以上に敵を倒したってことか?」
「そんなもんじゃねえよ」
首を横に振られ、俺はさらに疑問を深めた。
「そんなもんじゃねえんだよ、朔」
「――……」
いつになく、真剣な瞳だった。
どこか遠くを見つめるような瞳が、俺を見据える。
「当時、双界庁はある程度の制度や戦力を整えたところで、完全に油断してた。これなら大丈夫だ、って慢心してた。実際……戦力増強が図られたのは、第二次大規模飽和流出が終わってからだったしな」
「ああ、そういえば」
双界庁へ所属しないか、と誘いが俺にきたのも、その頃だった。
「ん、じゃあその前は……」
「圧倒的戦力不足だよ」
仙堂さんは、苦々しい笑みをこぼした。
「歯が立たなかった。まるでな。第二次で、双界庁は本来、クソの役にも立たなかった。だがな……そんな状況を、一人で覆したのが、英雄だった」
「……一人?」
「そうだとも」
仙堂さんはため息をこぼすと、ステーキをナイフで切りもせず、フォークを突き刺し持ち上げ、乱暴に食いちぎった。
どことなく、不甲斐ない自分への苛立ちをぶつけるようにも見えた。
噛みしめ、飲みこみ、それから言葉を吐き出す。
「第二次大規模飽和流出は双界庁が止めたんじゃない。一から十まで、たった一人の人間が止めたんだ」
こうして実際に特務の連中を見た俺なら、仙堂さんの切実さを片鱗くらいは理解できるが、正直その時の俺は脚色された偉人譚でも聞かされているかのようで、大げさに言っているだけだろうと話半分だった。
そして、そんな俺に、仙堂さんは神妙な顔で教えてくれた。
その魂装者――英雄の名を。
† † †
話に違わぬ強大な存在が、そこにいた。
「特務部隊、隊長――遠季 真央」
掠れた声で、その名を紡ぐ。
彼女こそ、他ならぬ……最強の魂装者。
特第一等級『魔王』。